バスケットボールを通じて、シアトルと日本を20年にわたってつなぎ続けてきた西田辰巳(にしだ・たつみ)さん。小さなスクールから始まった活動は、今ではシアトル地域でのバスケットボールキャンプや、未来のリーダーを育てるプログラムへと広がっています。このインタビューでは、西田さんの原点、教育観、指導哲学、そして次世代へのビジョンについてじっくりと語っていただきました。
原点と出会い ― すべての始まりは、小学校の体育館から
小6のとき、担任の永田先生に誘われてバスケットボールを始めました。それまでは空手をしていましたが、オリンピック競技ではなかったので、オリンピックを目指せるバスケに母に頼んで転向しました。
当時の僕は太っていて運動も苦手でしたが、先生が「朝練してみたら?」と言ってくれて、朝7時に体育館でドリブルの練習を始めたのが、初めての成功体験に。最初はベンチにも入れませんでしたが、12月の県大会予選ではスタメンに入り、優勝。努力が結果につながったこの経験が、今につながる原点です。
僕が上手かったからではなく、どんな人と出会って、どんな場所にいたか。それが大きかったと思います。永田先生が教育委員会からバスケットボールの授業プログラムづくりを頼まれて熱心に指導してくださった、そして僕はその受け手になった。そんなふうに、ご縁に助けられました。
選手としての歩みと大学時代 ―「できない子」がチームのキャプテンへ
中学時代も、高校時代も、僕は“できない子”からのスタートでした。中学では、ディフェンスなら貢献できるかもしれないと、上手な先輩に「1対1お願いします!」と自ら声をかけて練習を重ねました。少しずつ試合に出られるようになり、自分で考えて行動するようになったのもこの頃から。努力を重ねる中で周囲に認められ、「努力すれば報われる」という成功体験となりました。
高校では熊本工業に進学。少し低迷していたチームでしたが、仲間や指導者に恵まれ、県大会優勝、そしてインターハイ出場へ。キャプテンとしてチームを引っ張る立場になったことは、自分の努力を自分自身でも評価できるようになった大きな転機でした。
大阪商業大学へ進学したのは、当時の島田監督との出会いがきっかけです。全寮制で、料理もみんなで作る、昭和の体育会的な全寮制での生活でしたが、アメリカ流のバスケットスタイルを取り入れた先進的な指導に惹かれました。島田先生は日本でも珍しくアメリカのバスケットボールのスタイルを取り入れていた指導者で、そのスタイルにすごく影響を受けました。
毎週水曜のNBA中継を見ながら監督の解説を聞く時間があり、日本代表クラスの選手たちに囲まれて、「世界を見てみたい」「アメリカをもっと知りたい」と強く思うようになったのも、この大学時代の経験が原点です。
指導者になるまで ― 自分に指導ができるのか?
大学卒業後、就職の道は選ばず、いつかアメリカにバスケットボールを学びに行きたいという想いを胸に、まずはワーキングホリデーでオーストラリア・シドニーへ渡りました。当時23歳。大阪出身の方が経営する宝石・お土産店で働き、VIPフロアを任されるなど、これまでにない社会経験を積みました。著名人との出会いや企業への営業など、日本では出会えなかった人々との交流が、のちのシアトルでの活動にも大きくつながっています。
そして、40歳を前に、指導者という道に進む決意をしました。正直なところ、自分が子どもたちに教える側に立てるのか、不安もありました。子どもの頃、大人に対して「理不尽だ」と感じたことがあったので、自分も同じようになってしまうのではないかと思ったのです。
それでも、「指導してほしい」という声が届くようになり、38歳で地元・熊本に小さなバスケットボールスクールを立ち上げました。当時はまだプロも指導者も少なく、学びたくても学べない子どもたちの“救済”の場として始めたのがきっかけです。
月謝制の指導に対する批判も受けました。「バスケットボールの指導でお金を取るなんて」と仲間に言われることもありましたが、ヨーロッパではコーチに資格や経験が求められ、指導に対する正当な対価が存在します。ボランティア精神だけでは続かず、結果的に“我慢する文化”を助長することもある。だからこそ僕は、きちんと月謝をいただき、責任を持って教えるという、新しいスタイルを選びました。それは、自立した教育環境をつくる第一歩だったと思っています。
アメリカへのキャンプ ― “百聞は一見にしかず” の精神で

西田さんの紹介で大阪のプロチームで2シーズンにわたりプレーした元選手が
今ではチーム職員として研修会やキャンプでの訪問を支えてくれる。
違和感の出発点は、アメリカと日本のバスケットボールの空気の違いでした。日本では「勝たなきゃいけない」という緊張感が強く、どこか悲壮感すら漂っていた。それに対してアメリカでは、強くても笑顔でプレーする選手たちの姿が印象的でした。
この違いを肌で感じたくて、2006年からシアトルやポートランドで指導者向けの研修会を始めました。日本でいくら言葉を尽くしても伝わらない空気が、現地では一瞬で伝わる。「百聞は一見にしかず」という言葉の重みを、あらためて実感したのです。

指導者研修を続ける中で、「子どもたちもアメリカに連れていけませんか?」という保護者の声が届くようになりました。費用面で不安もありましたが、「今行きたい」と思っている子を止めることはできない。そう思って2010年の春休み、初めてのアメリカキャンプを実施しました。
シアトルの小学校で授業を見学した際、子どもが2×2を“5”と答えても先生は「惜しいね」と笑顔で返す。その姿勢と教室全体の雰囲気に、日本との大きな違いを感じました。

国際バスケットボールリーグでの一コマ
さらに印象的だったのが、カンザス大学の元ヘッドコーチによる指導です。100人を超える選手を前にしても、「あの子はここがダメ」とは言わない。むしろ「彼のオフェンスの嗅覚が素晴らしい」と、ひたすら長所を伝える。日本では「欠点を指摘しなければ伸びない」という考えが根強いけれど、僕は「長所を伸ばせば欠点もついてくる」と信じています。その思いは、今も僕の指導の軸になっています。
非認知能力を育てる ― 日本の教育とこれからの子どもたち

非認知能力の価値
今でこそ、非認知能力――つまり、目に見えにくい「やり抜く力」や「共感力」「協調性」など ーー を育てることの重要性がようやく日本でも広まり、文化省もそれを高めようとしていますが、僕はずっと前からその価値を信じて実践してきました。
最初のアカデミーには、試合に出られない、いじめられているなど、さまざまな悩みを抱えた子どもたちが集まりました。そんな子たちが、弟妹と一緒に参加し、やがて「選抜に選ばれました」という報告をもらうようになる。それは単なる“強化”の成果ではなく、環境と積み重ねがもたらした結果だと感じています。
アメリカキャンプの意義は “空気” を持ち帰ること

アメリカキャンプの意義は、子どもたちに “空気” を持ち帰ってもらうことです。単なるバスケット体験ではなく、現地の文化や雰囲気を肌で感じることで、日本に戻ってからの意識が自然と変わる。実際、「シアトルが隣町のように感じる」と話す子も出てきました。それは、距離ではなく心の近さが生まれた証だと思います。
このキャンプの本質は、前述の “非認知能力” を育てることにあります。リーダーシップ、やり抜く力、協調性、共感力など、目に見えない力を重視しています。例えば、以前は5分も集中できなかった子が、10分間真剣に練習に取り組めるようになった。そうした変化はスコアでは測れませんが、自己肯定感を育て、人のために動ける力へとつながっていくのです。
また、キャンプをきっかけに、先輩が後輩を自然と支える関係も生まれました。日本で指導した子がアメリカの高校や大学に留学し、今度はシアトルに来たばかりの子どもたちをサポートするようになったのです。「アメリカの高校ってどう?」「大学生活は?」といった相談に応じることで、“頼られる経験” が彼らの自信や肯定感につながっていきます。
スポーツには勝ち負けがあります。でも、それは切磋琢磨を学ぶ場であって、奪い合いの場ではありません。成長しあう関係を、どう作るか。そこに指導者や大人たちの役割があると思っています。
キャンプから広がるつながり ― 指導者・保護者・社会とともに

さらに、留学した子どもたちは、学生から社会人へと次のステージに進み始めています。アメリカで教育を受け、今度は現地での就職に挑戦する。バスケットボールキャンプが初めて育てた“社会とつながる世代”の誕生です。僕自身もシアトル商工会の遠隔会員となり、彼らのためにネットワーク作りを始めました。
英語が話せるだけでは越えられない “働く現場の壁” を、誰かの紹介やボランティア、インターンシップの機会が越えさせてくれることもあります。だからこそ、僕が「誰かとつなげてあげたい」と思えるような関係を、今のうちから作っておきたいのです。
そして、ボランティアについても、アメリカと日本では捉え方が違います。日本では「してあげること」という感覚が強いですが、アメリカでは「自分の時間をどう使うか」という自己形成の一環として捉えられます。子どもたちにも、「人のためにやっているのではなく、自分の未来を育てているんだ」という視点を伝えるようにしています。
シアトルをハブに、バスケットボールで “世界” とつながる
僕が子どもたちに伝えたいのは、「隣は世界」という感覚です。多様な人々と自然に出会える環境が日常になること。そして、その入口としてシアトルの存在はとても大きい。日系アメリカ人の歴史や、新たに移住してきた日本人の信頼がこの街を支えているからです。
このシアトルをハブに、世界中の選手や指導者、経済人、行政関係者が集う「バスケットボール・ウィーク」を実現したいと考えています。スポーツという共通言語を通して国境を越えた交流を育み、未来をつくる場にしたいのです。
これまでのキャンプ参加者には、日本のプロチームの社長や日本代表スタッフ、現役選手になった人もいます。かつて同じ経験を共有した仲間が、それぞれの立場を超えて再びつながる姿に、スポーツの持つ大きな可能性を感じています。
僕は常に「目の前の子どもたちだけでなく、その孫の代までを見据えて行動しよう」と話しています。100年後に「幸せな人生だった」と言ってもらえるように、今できることに取り組む。その視点が原動力です。
日本のパスポート保有率は17%。もっと外に目を向ける力を育てることが、これからの日本社会に必要だと感じています。スポーツは、ルールのもとに多様な人々が対等に競い合い、つながることができる “共創” の場です。そこには、宗教も国境も言語も関係ありません。バスケットボールも、そのきっかけになれます。
教育も同じく、トップダウンではなくボトムアップで社会を変えていく。草の根の活動が、やがて政治や経済を動かす――そう信じています。だからこそ、目の前の子どもに寄り添い、“ありがとう”が自然に循環する社会をスポーツを通して築きたいのです。
西田辰巳(にしだ・たつみ)略歴
熊本県出身。大阪商業大学卒業後、国内外で選手・指導者として活躍。関西リーグ優勝やインカレ上位進出を経験し、卒業後はオーストラリア滞在を経て地元での育成に携わる。2006年にJapan Basketball Academyを設立。2009年から2013年にかけて、日本人選手のみで構成されたチーム「Nippon Tornadoes」の監督として、米国プロリーグIBLに参戦。以後、大阪でバスケットボールのシュート技術を磨く「シューティングガレージ」を経営し、日米をつなぐバスケットボールキャンプやトライアウトを多数企画している。
【公式サイト】https://zen-port.com/
聞き手:オオノタクミ