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「見えづらい日系移民の歴史を伝えたい」中村有理沙さん(なかむら・ありさ)ワシントン州日本文化会館(JCCCW)

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ワシントン州日本文化会館(JCCCW)のイベントで
漫画の描き方を紹介する中村有理沙さん

日本の家族への仕送り、より良い生活、留学・・・さまざまな目的を持った日本人が最初にここ米国北西部(パシフィック・ノースウエスト)に移住したのは、明治時代の1880年代。さまざまな形で成功した人もいましたが、太平洋戦争の勃発がきっかけとなった強制収容で、日本人・日系アメリカ人の生活は一変しました。こうした歴史を「自分には関係のない昔のこと」と考えることもできますが、本当にそうでしょうか。日本からの移民の歴史・日本の文化を伝える活動を続けているワシントン州日本文化会館(JCCCW)で働く中村有理沙さんはどのように考えているのか聞いてみました。

もくじ

幼い頃のアメリカでのトラウマを乗り越え、大学院で渡米

ワシントン州日本文化会館(JCCCW)のイベント

もともと日本女子大学で住居学を学んでいたのですが、住宅の環境や設計のことではなく、都市計画の勉強ができるところに段々と興味を持つようになりました。そんな時、東京工業大学・社会工学科で街づくりの研究をしている土肥真人先生の研究室を知ったのです。土肥先生はアメリカ、メキシコ、イタリアなどいろいろな場所で生活して街づくりを見てきてらっしゃる方で、その研究室の学生は世界各地に飛んでいました。それだけ世界を飛び回っている先輩がいる研究室は面白そうだと思って入りました。卒業論文もみんなタイやオーストラリアなど世界中の街づくりがテーマで、面白かったです。

そして、アメリカでコミュニティ・デザインの勉強ができると聞いて、ワシントン大学大学院のランドスケープ修士課程に留学するため渡米したのが、2013年のことでした。

でも、実はアメリカにすごくトラウマがあって。13歳の時に4カ月だけ親の仕事の都合でミネソタ州に住んだのですが、英語も話せないのに無理やり連れてこられて、自分の名前を言うのが精いっぱいでした。授業もついていけませんでしたし、誰かに優しくされても、その人が何と言って優しくてしてくれているのかわからなくて、「ごめんなさい、ごめんなさい」としか言えず、本当に辛くてストレスですごく太ってしまったのです。

なので、日本に帰国できた時はとてもうれしかったのですが、いざ日本に帰ってみると、「有理沙ちゃんは帰国子女なんだって?英語しゃべってよ」と言われて。だけどアメリカにいた4カ月間、そもそも人とほとんど会話していませんから、英語なんて話せませんよね(笑)。でも、「そう見られるんだったら、英語をちゃんと勉強しよう」と思って、周りが自分に見る姿にあわせて英語を勉強するようになった感じですね。

なので、大学院で渡米した時は、「話せるようになったから、今度はもうちょっとまともに暮らせるんじゃないか」「もっとアメリカを見たい」と思いました。

トイレで掴んだ(!)仕事のチャンス

ワシントン州日本文化会館(JCCCW)

ワシントン大学の大学院でランドスケープ修士課程でコミュニティ・デザインを学んで卒業したのが2016年。「デザインと街づくりに関わっていることをやってみたい。そういうところで仕事をしたい」と思って就職活動をしていたところ、在学中にインターンシップをしていたワシントン州日本文化会館事務局長のカレンさんから、「ここに就職しない?」とオファーを受けました。

カレンさんには、「就職活動のためにレファレンスになってほしい」とインターンシップをしていた時からお願いしていたのですが、会館が毎年やっている『子どもの日』のイベントのお手伝いに来てトイレの個室に入った時、カレンさんは同じトイレの洗面台のところにいて、トイレの個室のドア越しに「有理沙、まだ仕事探してるの?」と聞かれて(笑)。

慌てて個室から “Yes!” と答えると、”Would you consider working at the J?”(会館で働くことに興味ある?)

アメリカで初めて働く場所として良さそうだと思っていたので、「あ、ぜひ!」と答えて、その後正式に就職が決まりました。

ワシントン州日本文化会館の二本柱「文化」「歴史」

ワシントン州日本文化会館(JCCCW)での展示

ワシントン州日本文化会館は、「日本文化を紹介すること」と、「日系アメリカ人・日本町の歴史を伝えること」を二本柱として活動しています。

日本の文化の紹介は、日本の伝統文化や行事のイベント開催、日本語の勉強などが主な活動です。そして、歴史を伝える活動では、会館の展示を通して日系アメリカ人の歴史を伝えること、強制収容経験者のお話を聴く機会を作ること、出版物を作ることなどをしています。私の仕事はその大きな二本柱を具体的にプログラムとして企画して実行することで、主にマーケティング、コミュニケーション、グラフィックデザインを担当しています。

私がここで働く意味を考えた結果、私が来る前はすべて英語だったプレスリリースやソーシャルメディアに、できるだけ日本語を入れることにしました。英語を母国語とする方だけでなく、日本語を母国語とする方にもリーチアウトしたいですし、興味があっても日本語でないと目に入ってこないという方もいらっしゃいますから。私自身も、英語を読めても、日本語だとパッと見ただけで頭に入る場合があります。やはり届きやすい形で情報を伝えることは大切ですよね。

日系の歴史を伝える展示は、これから充実させていきたいものの一つです。会館が保存している戦前の資料は日本語の方が多いのですが、現代の日本人には難解な日本語も少なくありません。でも、それもなんとか翻訳したりしていきたいですね。

その他には、寄付されたきれいな中古品を販売する『宝石箱』、寄付された日本語の本を貸し出しする『日系文庫』もあります。メインのお客さんは日本人以外の人が多いですが、たまに日本人の方が来てくださり、「ジャングルシティを見てきた」とおっしゃる場合もあります。やはり、日本語のメディアで出すと日本人の間での認知度が上がると思っています。

日本人が知っておきたい日系アメリカ人の歴史

『一世の先駆者・三原源治展』
ワシントン州日本文化会館(JCCCW)

日本からここ米国北西部へ移民が来たのは、1880年代に来た日本人労働者が最初でした。そこからだいたい1930年代にかけて『シアトル日本町』がしっかりできていったわけですが、今の高速道路のI-5(アイ・ファイブ)の西側であるインターナショナル・ディストリクトだけでなく、東側の今はリトル・サイゴンと呼ばれる、ワシントン州日本文化会館がある地域も『シアトル日本町』だったのです。つまり、今知られているエリアの倍以上のエリアが『シアトル日本町』だったわけですが、これは案外知られていないようです。

私がそれを知ったのは、ワシントン大学大学院のランドスケープ修士課程で学んでいた時。日本・中国・フィリピン・ベトナムなどの移民がインターナショナル・ディストリクトという一つの地域を150年以上にわたり共有していることに興味を持ったのがきっかけでした。

その時に集めたさまざまな資料をもとに移民の帰属意識について修士論文を書いたのですが、それをさらに役立てることができたのが、2018年にシアトルのウィング・ルーク博物館とクロンダイク・ゴールドラッシュ国立歴史公園が共同で企画して、私が半年以上の期間をかけてデザインと翻訳を手掛けて完成した、ウォーキングマップ『Japanese American Remembrance Trail Map 日系アメリカ人 ゆかりの地ガイド』です。(※2021年5月にキング郡歴史団体連合会から Excellence in Public Programming Award を受賞

『Japanese American Remembrance Trail Map
日系アメリカ人 ゆかりの地ガイド』

最盛期の『シアトル日本町』には、銭湯、新聞社、書店、写真館、ホテル、病院、洗濯店、理髪店、銀行、劇場、映画館、学校、お寺などがありました。アンダーグラウンドなところで言うと賭博や売春宿もあったそうです。ならず者もいたとか。

でも、1941年12月に日本がハワイの真珠湾を攻撃し、翌年1942年にルーズベルト大統領が大統領令9066号を発令して日本人と日系アメリカ人の強制収容が実行に移されると、一気にすたれてしまいました。

こういう仕事をしながら日系アメリカ人の歴史を知っていくわけですが、日系人がよく言うのは、「自分たちはアメリカで唯一、強制収容されたアメリカ人だ」。確かにそうなんです。日系人はこの国の人種問題で深いところで被害を受けているんです。それを知ることで、いろいろな影響を受けますね。渡米してきた時は、「何もないところから、自分はやるんだ」という気概でしたが、実際はそうではなくて、自分より前に来た日本人が土台を作ってくれていたんだということに、みなさんの苦労を知ることで気づきました。

直接の先祖ではありませんが、見方によっては先祖ですよね。そういう人たちが苦労して、努力して、培った信用の上に、自分がいる。

その先祖がどういう人かというと、仕事を求めて日本の家族のために来た一世、家族が強制収容されていても家族のためにアメリカ兵として戦った二世、その先祖のことを受け継ぐ三世以降の後世の日系アメリカ人、そしてアメリカ兵と結婚して渡米した戦争花嫁たち。それぞれ苦労しているけど、ここでがんばって暮らしてきた方々です。その後には、留学や新しいビジネスチャンスを求めて渡米した日本人、駐在員として来た日本人が、新しい波として存在しています。

人種問題はアメリカでは長らく続いている根深い問題ですし、自分の民族にこういう差別が起きていると知ることは、もし他の民族が差別にあった時に、自分事としてとらえられるのではないかというふうに考えています。差別は、その被害者となる個人がどういう人かは関係ない。その人がこの国で何をしてきたかということはまったく関係なく攻撃や強制収容の対象になったりしてきたし、今もその対象になることがあるということを自覚しながら生活しないといけないと思うんです。

私の大学時代の友人が、2016年にバングラデシュで起きたテロで亡くなっているんです。発展途上国での仕事をしたいと言っていて、卒業後にタイやバングラデシュで仕事をし始めて3~4年後のことでした。そのことは私の中でとても大きくて。彼女がどれだけ役に立ちたいと思っていたかはテロリストには関係なく、彼女が日本人であることだけが大事だった。そんなふうに、個人と関係なく、その人種だから、その国の人だから、という理由で攻撃されてしまうんだということがある。そういうことをする人がいることを自覚しておこうと思いました。

日系アメリカ人強制収容体験 家族にも共有されないことがある

ワシントン州日本文化会館(JCCCW)はかつて『ハント・ホテル』として
強制収容所から解放されてシアトルに戻ってきた人の住居だった。

印象的な話があります。ワシントン州日本文化会館の役員会のメンバーで、父親から最近まで強制収容を経験した話は最近までしてもらっていなかったという方がいます。その方の父親は強制収容のことも、当時ワシントン州日本文化会館が『ハント・ホテル』として強制収容所から解放されてシアトルに戻ってきた人の住居となっていて、そこに住んでいたことも家族に言いませんでした。でも、ワシントン州日本文化会館に関わるようになってから初めて「ここに住んでいたんだ」と父親から聞いたというのです。私も、自分の祖母から戦争の記憶について数年前にようやく聞けたという感じでしたから、ものすごく辛い体験を黙っている方の気持ちは少しは想像できる気がしました。

いろいろな方々の話を聴いていると、「騒ぎ立てない」「忍耐強く我慢する」というのが美学として親から受け継がれていたり、「こんなひどいことをされたんだと言うことでまた差別される対象になるのではないか」という恐れがあったりして、「今の状態でいいのです」という暮らしを戦後も続けていたことがわかりました。

米国政府が「日系人の強制収容は間違っていた」と謝罪したことで、「あ、間違っていたと言っていいんだ」というムーブメントになって来た頃にようやく話せたという方もいます。また、強制収容について黙っていた一世が補償を受けられなかったことを目の当たりにし、「伝えておかないと、次に続かないのだ」と理解し、記録したり本を書いたりするようになったという方もいます。そういった記録を読んでいると、自分の先祖じゃないからとか、昔のことだからとか、自分とは関係ないから、とは考えられなくなってくるのではと思います。

もっと理解するためには、今起きていることとつなげて考えるといいかもしれません。どうして自分を攻撃対象にするのかとか、どうして自分とは違う人種だから関係がないと思うようになるのか。なぜ人種だけでこんなに差別されるのか。昔からそうだったのか。そういうことを考えると、調べようという気になりますよね。それに対して日系人はどう対応してきたかを学んで、伝えていきたいです。

ベインブリッジ・アイランドの日系の歴史を伝える企画に参加

ベインブリッジ・アイランドの日系アメリカ人排除記念碑で参加できるジュニア・レンジャー・プログラム

前述の『日系アメリカ人 ゆかりの地マップ』を見てくださった国立公園局の方が、「ベインブリッジ・アイランドの日系アメリカ人排除記念碑で始まるプロジェクトに興味はあるか」と話をしてくれたのは、2018年のことでした。それから暫く音沙汰がなかったのですが、2020年4月に「補助金が取れたから本格的に始動する」と連絡をいただいて。国立公園局が文章と内容はほとんど提供してくだったので、私はデザインと挿絵、レイアウトを担当して2021年3月に完成しました。

国立公園局には「本格的に人を集めてできるようになったら、印刷したブックレットを使ってアクティビティをやる。今年の夏にはそうしたい」というビジョンがあるようです。

工夫したところは、嘘の情報は描かないようにしようと、強制収容された方々の写真をたくさん壁に貼って、それを見ながら、服装や持っていた人形に近いものを絵にするようにしたこと。やはり歴史を伝えるということは、当時の様子がそのまま伝わるように詳細に描く必要があると思ったのです。表紙の女の子もモデルがいます。

写真に写っている人たちはいい服装をしているように見えますが、持って行ける荷物が限られていたので、できるだけ価値が高い服を重ね着して、より多く持っていこうとした結果なのだそうです。

当事者の気持ちを伝える工夫を

シアトルや日系の歴史を学ぶオンラインイベントを毎月第3金曜日に開催
2021年5月は日本語で実施

ワシントン州文化会館では、シアトルや日系の歴史を学ぶオンラインイベントを毎月「スピーカーシリーズ(Speaker Series)」第3金曜日にやっています。いつもは英語でやっていますが、5月はシアトルの日系の歴史を振り返る講座を日本語で行いました。

私が担当したプレゼンテーションでは、「こういうことがありました。そのあと、こういうことがありました」と、出来事だけを伝える形ではなく、「これが起きたせいで、こういうふうに思う人がいました」という伝え方をしました。例えば、強制収容されたアメリカ生まれの女の子が「私はアメリカ生まれなのに、なぜこんな目にあうんだろう」といった言葉を残していたのですが、そういった当時者の声をなるべく入れるようにしたのです。

なぜなら、感情移入をして、その人の気持ち、その出来事に思いを馳せることで、もっと想像でき、理解が深まると思うのです。参加してくださった方から、「当事者の気持ちを知ることができた」というフィートバックなどをいただいて、その思いが届いたと感じました。

もし当会館にまだいらっしゃったことがない方には、ぜひオンラインツアーのサイトをごらん頂ければと思います。日英両語で、会館や日系に関する歴史がまとめてあります。日本語でアメリカの日系の歴史を学ぶ、一つの機会となれば。また会館が再開した際には、ぜひミュージアムツアーやお買い物、日本語の図書貸し出し、習い事やイベントなど、気軽に立ち寄っていただければ嬉しいです。

中村有理沙さん 略歴:東京工業大学の社会工学科(当時)で学ぶ。2013年にワシントン大学大学院のランドスケープ・アーキテクチャ学部でコミュニティデザインを学ぶために渡米。2016年に卒業後、翌年にワシントン州日本文化会館に就職し、日本の文化と日系の歴史を伝えるプログラムの広報・企画運営を担当。個人でもグラフィックデザインのプロジェクトを手掛けている。
【ワシントン州日本文化会館(JCCCW)公式サイト】www.jcccw.org

取材後記:今年5月に中村さんがオンラインで行った歴史の勉強会に参加しましたが、シアトルだけでなく、アメリカの他の地域や日本からの参加者も多くいらっしゃいました。この取材の時にもお話ししてくださったように、その勉強会で紹介された強制収容の当事者が残した言葉のおかげで、想像できないほどの苦労をされたことをより身近に感じることができたと思います。「昔のことばかり知っても何の役にも立たない」「自分と直接関係がない歴史」- 日本からの移民の歴史に関わらず、歴史についてそういった発言を耳にすることがあります。でも、特にここ数年にわたり、一般的にあまり知られなくなってしまっていた出来事や意図的に封印されてきた出来事が明らかになったり、自分にはまったく見えていなかったことに直面したり、すぐに理解できないようなことが起きたりしたことをきっかけに、歴史を学びなおし、当事者の話を聴く作業を行い、オープンマインドに学び続けることの大切さを実感した人も少なくなかったのではないでしょうか。「”歴史” も “事実” も語る人によって異なってくる」とも言えますが、太平洋戦争中に日本人・日系人だけが強制収容されたことは事実です。「歴史は繰り返す」と言いますが、この歴史をさまざまな面から学び、当事者の正直な思いを聴くことで、「絶対に繰り返してはならない歴史」ということが理解できると思っています。

聞き手:オオノタクミ

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