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「ニコニコしてる顔を見せるのが、上に立つ者にとって大事なこと」杉本幸雄さん Aircraft Cabin Systems 社長兼最高経営責任者

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杉本 幸雄(すぎもと ゆきお)略歴
1939年 大阪生まれ。1958年、松下電器ラジオ事業部に入社。松下アビオニクスシステムズ(現:パナソニックアビオニクス、本社:大阪)の社長に就任。1999年9月に定年退職し、同年10月、エアクラフト・キャビン・システムズを創業。連邦航空局の認可を受けた独自開発のモニターを製造・供給している。

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ラジオ少年、「将来の仕事はラジオ」

僕は子供のころからいわゆる「ラジオ少年」でした。ラジオが好きで、作っては壊し、を繰り返してね。当時のラジオと言えば松下電器のナショナルですよ。まだ真空管の時代ですから、大きな木箱に入ったナショナル・ラジオがあったんです。というわけで中学の時にそれで進路は決めたんですが、いかんせん、英語がだめ。他の科目はそこそこでしたが、英語だけは5段階で1とかね(笑)。親が心配して先生に聞いたら、「この子は英語だけは勉強しない」。兄が英語を好きだったことに対する反発でしょう、英語を勉強する気がまったくなかった。語学というのは、「ちょっとわかるようになったらいい」というものではなくて、積み重ねですから、どうもそれに向いてなかったこともあると思ってます。

そして、大阪府立布施工業高等学校電気科に入りました。当時は電子工学を教えるところは少なくて、電気と言えば、強電・弱電の世界です。当時の工業高校電気科の目的は第三種電気事業主任技術者という通産省の試験に合格することでしたから、僕は今でも電気の配線工事ができるんです。それからラジオ部の部長をしたり、アマチュア無線の免許を取って、自宅で無線局を開設したりしました。電波は世界中を飛びますから、楽しい、楽しい。ヨーロッパの人と話をしたり、アメリカの人と話をしたりね、そういうふうなことを通して、ますますラジオの世界にのめりこんでいったもんですから、将来については「ラジオを作りたい」「ラジオを作れるところにいきたい」という気持ちだけ。

おもしろいことに、この高校は戦時中は航空工業高等学校といいまして、飛行機のことを教える学校だった。戦争中は飛行機のことがわかっている人を養成して飛行機を整備させるという国策で、そういう高校が大阪と東京に1つずつありました。私が入学した時は終戦から13年もたってましたけど、戦前からそこで教鞭をとってた飛行機好きな人が残ってたんですよ。今でも覚えてますが、ある先生は戦闘機のパイロットで、特攻出撃をする直前で終戦になった経験を教えてくれました。僕はなぜか飛行機も好きで、進駐軍が八尾飛行場(大阪)で航空ショーをする時は必ず見に行ってたぐらいです。小さなヘリコプター部隊がいただけでしたが、それを見ては「すごいなー、すごいなー」と感心してました。

第1のラッキー:松下電器ラジオ事業部に入社

それで「絶対に仕事はラジオ」と思ってたんですが、幸か不幸か、その前の神武景気(1955-1957)の後に来た鍋底景気(1957年後半~1958年)と言われる不況の真っ最中で、ほとんど採用してない時だった。

でも幸い、1958年に松下電器のラジオ事業部に入社できました。どこの事業部に行きたいかと聞かれて、「ラジオ事業部に行きたい」と言ったのは僕だけですよ。当時はテレビ・冷蔵庫・洗濯機といういわゆる『三種の神器』が出てきた時代で、みんながそっちの方を向いてたんですね。

特にテレビはみんなの憧れの的で、テレビ事業部に行きたいという人は多かったんです。それでも僕はラジオ。「え、ラジオ?」と言われましたよ。テレビのおかげで、ラジオはこれから消えていくと思われてたんですが、「いや、そんなもんじゃないだ」と。ラジオ事業部に入れて本当に嬉しかった。これが僕の第1のラッキー。入ってみると、すばらしい事業部でした。昔からラジオ事業部というのは松下電器の根幹事業だったでしょう。一時は会社全体の3割ぐらいの利益を出してたぐらいでね。上下関係は厳しかったですが、非常に勉強になりました。

今でもそのグループの技術者とは集まりがあります。よその事業部ではこんなことはないですね。「おまえ、いつ日本に帰ってくるんや」「帰ってきたらまた集まろう」という具合に、日本に帰国したら必ず集まります。

第2のラッキー:世界的な貢献

僕の第2のラッキーは、世界的な技術発展に貢献できたこと。そのころの松下の競争相手は、ソニーでした。東京が拠点のソニーは宣伝が上手で、トランジスタラジオになったら「トランジスタはソニー」というイメージが定着し始めました。確かに、トランジスタのAMラジオを最初に作ったのはソニーです。松下は出遅れた代わりに最初のFMラジオを作って、僕もそれに関わりました。そんなふうにソニーと松下は競争しても勝ち負けの繰り返しで、お互いに決定打がなかった。

そうこうするうちに1970年代になって、香港とかから安いコピー商品が出てくるようになりました。「ナショナルラジオはデザインがいい」と言われてましたけど、きれいなデザインを作って、その中身を我々が作って、ようやく世の中に出したら、半年後には香港から半額か3分の1の値段をつけられたコピー商品が出てくる。製造者は訴えられるころには姿を消してるし、どうしようもないなと。そこで、「コピーされるようなものを作ってたらあかん、コピーされないもんを作ろう」と、僕らは夜な夜な考え考えしたんですよ。「どうしたらソニーに決定打を与えられるか」「どうしたら海外でコピーされないか」ということをね。

そこで考えついたのは、製造ラインを根本的に変更して作る超小型製品です。手作業ではできない、ロボットを使ってやるものですから、これはコピーしづらいでしょう?1972年に部品屋さんとプロジェクト・チームを作って、その機械が完成するのに5年かかりました。おかげで、従来の部品を使った場合の4分の1の大きさになって、両面に部品がつけられるようになったんですから、世界的な貢献です。

それから松下は何でも商売にしてしまうんで、そういう部品の作り方を世界に広めるために、その機械も売るようになった。部品を安くするにはたくさん作ってもらう必要があるし、そうすると松下の商品も安くなりますからね。そして、その機械を最初に買ってくれたのがソニーでした。そのころの上司ももう亡くなってしまいましたが、この技術を完成させたことは、僕らのグループの一つの誇りなんですよ。

第3のラッキー:ある人との出会い

「ラジオというのは先行きがない」と思ってたところに、新しい製造法を開発できたんで、今度は「これを使って物を作って、その物で儲かるような仕事を探そうやないか」ということになりました。

そこで僕が思いついたのは、飛行機です。「飛行機というのは電子機器をたくさん使ってるけど、第一に「軽くないといけない」、第二に「小さくないといけない」、そして第三に「信頼性が高くないといけない」。この新しい部品はそれをすべてカバーしてるから、今度は航空産業にアプローチしてみたらどうやろか」と。「じゃあ、やれ!」ということになりましたが、そう言われてもどうしたらいいかわかりません(笑)。

そこで、第3のラッキーがあるんです。それは、貞重浩一(さだしげ・こういち)さんとの出会いでした。貞重さんは僕が高校時代にバイブルのように読んでいた 『無線と実験』、そしてその別冊 『通信型受信機の研究』 の著者です。RCAに25年間勤めた後、技術開発担当としてアメリカ松下電器に入社されていた貞重さんに、ニュージャージー州にあるアメリカ松下電器の本社にたまたま出張した時にお会いしたんです。それで僕の提案した航空産業へのアプローチや新しい部品のことなんかを説明して、「この部品を使って飛行機用のエレクトロニクスを作りたい」と話したら、「それはいい、すぐやりましょう、わたしも飛行機が好きですから」と答えてくださいました。

それから貞重さんがいろいろと本社に提案してくれた中で、ボーイング社へのアプローチが実現しました。「この新しい部品を使って、将来こういうものを作れば、飛行機の信頼性がぐっと上がりますよ」と。1979年のことでした。

ボーイング社に興味を持っていただいて、「松下はエンターテイメント・システムが得意だろう、デジタル・オーディオの提案がほしい」というわけです。当時はオーディオしかありませんでしたが、その提案のために1979年から日本とアメリカを行ったり来たりしてね。「今までの機器の信頼性を20倍ぐらい上げます」と提案したら、うまいことにボーイング社が採用してくれた。それも、767型機の純正部品(ボーイング社に納めて、ボーイング社が生産ラインで飛行機に取り付け、ボーイング社が飛行機の一部として販売する)にです。以降、767型機は今に至るまで、すべての機体に松下の製品を使ってます。747型機にも使われ、ダグラス社のDC-10 の改良型のMD-11 型機(今は作られていませんが)にも純正部品として採用されました。ロッキード社にも出向き、ジェット旅客機トライスターの契約をもらう直前まで行きましたが、ロッキード社が旅客機の商売から手を引くことを決定して生産中止。もしその契約が取れていたら、大型機のエンターテイメント・システムの純正部品は松下がすべて請け負うことになってたんですよ。

航空機の純正部品市場に参入

ここまで簡単に説明してきましたが、純正部品市場に参入するということは、非常に大変です。それまでボーイング社やダグラス社とビジネスをしていたアメリカの老舗会社がさまざまな妨害をしてきましたしね、非常に難しかった。これが外部の敵です。内部の敵は、「松下みたいなところがそんな危ないことしてどうする、飛行機なんかに売り込んで飛行機が落ちたらどうする、会社がつぶれるぐらいの賠償金を出さんといかんじゃないか、誰が責任をとる」という社内の声です。特に大阪の本社は、全体がそういう声になってました。「やめとけ、やめとけ!」です。

だけど、当時は創業者の松下幸之助さんがご健在で相談役を務めておられたので、「相談役の意見を聞いてみようやないか」となりました。そしたら松下幸之助さんはぜんぜん違うことを言われた。「ええ仕事や!これが松下の将来の仕事や!これをやらんでどうするねん、やれ!」と。もう鶴の一声です。そうしたら本社も「しゃあないやないか」と。松下さんのおかげで、この新しい事業は社内でも認知されたんです。

それで1981年ぐらいからボーイング社に納入を始めて、その後は同じような商品をエアバス社にも航空会社にも直接販売しました。航空会社も、椅子やコントローラなんかを取り替えるというレトロフィットをしますので、「うちにやらせてくれたら性能が20倍ほど良くなりますよ」とね。

エンターテイメント・システムと言えば、メンテナンスの面からすると悪夢です。読書しようとしたら読書灯がつかないとか点滅するとか、イヤホンに雑音が出るとか音が聞こえないとかね。おもしろくないでしょう、隣の男がニコニコして映画だの音楽だのを楽しんでるのに自分は楽しめない。すぐ怒りますよね。そしてきつい文句の手紙を航空会社に送りつける。当時、そういうことがいっぱいあったんです。

そんなわけで、航空会社はエンターテイメント・システムの信頼性を高めないと客を怒らせてしまうというので、われもわれもと松下にやって来ました。1980年代の後半になったら、ほとんど100%が松下の製品になってましたねえ。

ビデオ機器の制作

オーディオはそのほかにもいろいろ作りました。椅子についているコントローラーもアナログからスタートしてデジタルにもなりました。それがそこそこうまくいきましたので、次はビデオです。

ビデオといってもいろいろなレベルがありますが、天井のプロジェクターで映画を観るだけというのもありました。今は前の座席の後ろにモニターがついて、個人がチャンネルの選択をできるようになってます。最初の段階は「今から映画を始めます」といって、乗客はそれにあわせて観てたんです。今はいつでも好きな時間に好きな物を見られる、”Video On Demand”となってます。

そういった段階ごとに競争があるんですが、松下はその競争にちょっとずつリードしていたんです。なにせ最初に作ったもんですから、順調に行ってました。最初に声をかけてくれたのはデルタ航空。デルタ航空のビデオは今でもすべて松下。今は破産状態のデルタ航空ですけど、当時はいい会社でねえ。従業員と経営者がものすごくうまくいってた。従業員がみんなで寄付しあって767型機を1機買って、”Spirit of Delta” と名前をつけて、飛行機の胴体にリボンをかけて、経営者にプレゼントしたこともあったぐらいです。一家が何代にも渡って務めるという、雰囲気のいい会社だったんですよ。でもどういうわけか、経営陣が入れ替わってからガタガタになりましたね。

技術会社の設立

そして僕はジェネラル・マネジャーになりました。でも、会社は人を卒業年度ごとにしか採用しませんし、社会全体の景気が悪ければ世間並みに採用人数を減らしますから、一部に大幅に伸びる部署があっても、そこに人がまわってこない。そうなると技術者不足は大変なもので、それを補うためにアメリカに技術会社を作ろうということになりました。

当時、営業関係は松下アメリカの組織としてボーイング社に近いところに事務所を置いてましたが、いろいろ考えてみた結果、「技術会社を置くべきところはシアトルではない。やはりそういうエレクトロニクスとエビエーションがくっついたアビオニクスというのはやはりカリフォルニアや」というわけで、1990年にカリフォルニアのオレンジ・カウンティで会社を設立しました。それが日本の本社直属の松下アビオニクス・デベロップメント・コーポレーションです。その社長も私が兼任することになりました。そして、1994年に組織の編成があって、シアトルに移りました。それ以来ずっとシアトルです。

そのころはどこもかしこも今までの天井のモニターから、座席の後ろのモニターに変わった時代でした。事業の規模が急激に成長したころですね。松下アビオニクスが弱いと言われていた世界規模での顧客サポート・ネットワーク構築に非常に忙しかった。しかし、僕が60歳になる1999年までに会社の規模が5倍に成長して、年商約5億ドル、社員数は約1,000人、海外の拠点も24ぐらいになりました。5年で5倍というのはしんどいことですね。でも、貞重さんと2人だけでボーイング社を訪問した1979年から考えますと、大きくなったもんやなと感慨深いです。

「今度はモニター」

松下の場合は例外なく60歳で定年ですから、僕も60歳になった1999年に退職しました。普通、駐在員というのは60歳が来たら日本に帰ります。会社も「ぼちぼち日本に帰ってゆっくりして、退職準備をしなさい」と言いますし、いろいろなところから退職後の再就職の話がありました。でも、僕はちょっと思い入れがあったもんですから、すべて断って、最後の日までこちらで働かせてもらいました。「やっぱり僕の退職準備はここに残ることで、ここに残って自分の仕事を続けたい」と思っていたんです。

僕が何を見てたかというと、それまで主に航空会社を顧客とする仕事をしてましたから、企業や個人、VIP が持ってるジェット機を扱うジェネラル・エビエーションという業界で、モニターの販売をしたらどうかなということでした。モニターというのは一番利益が高いところなんです。よく目立つし、お客からの目も厳しいから、そのぶんだけ、いい物を作れば良さがわかってもらえる。当社がよそと違うのは、モニターの画面に特殊効果をほどこして、表面が反射しないようにしてるということなんです。よそのものは反射して顔が映ってしまうぐらいでしょう?あれは見づらいですよ。例えば飛行機だったら、窓のシャッターが開いてたら窓の影が映る。それが当社のモニターはないんです。よそよりもちょっと先に行っていなくてはいかんという思いは、松下時代からのポリシーのようなものですね。

それで1999年に松下を退職してから、少しだけ夫婦で退職旅行をして、モニター専門の会社を起業しました。すぐに仕事を始めてしまいましたから、ほとんど休みなしです。シアトルにそのままいることにしたのは、エアロスペースのビジネスがあるからです。FAA(連邦航空局)のオフィスもありますしね。いろいろなメリットがあります。しかし、何よりも私どもはシアトルが好きになっていたんです。

産みの苦しみ

しかし、始めてみると、どんな仕事でも始めた時は苦しいもんです。最初の3年間は非常に苦しい。特に自分は退職金を使って始めましたけど、全部使ってしまうことはできない。半分だけ使わせてもらって、後は生命保険を解約したりと、一切合財の金を集めてね。

でもそんな金はすぐに飛んでしまう。2003年まで苦しかったんですけど、やっぱり嬉しかったのは、まずボーイング社がモニターを買ってくれたことでした。政府専用機のメンテナンスをしてるボーイング社は、当社しか扱ってなかった50インチのモニターを、大統領専用機に入れるために買ってくださったんです。他にもそれに関連して18インチから21インチまでのモニターも買ってくださった。そこでキャッシュフローがあったわけです。苦しい時に、本当に助かりました。

連邦航空局(FAA)の認可を受ける

当社の製品は連邦航空局(FAA)の Part Manufacturing Authority(PMA)の認可を受けてますが、これは認可を受けるまでが非常に大変なんです。

特にプラズマは認可を受けるのにえらく時間がかかります。当社も3年間かかってようやく取れたんですが、プラズマというのはもともとのモデルが消費者用モデルですから、1年ごとに変えられるんですね。ですから3年前のモデルで合格しても、今のモデルは売れませんから、毎年更新する必要がある。とても手間がかかります。でも、液晶のように社内で製造しているものは社内でコントロールできますから、プラズマのような問題はありません。もう1つの条件は、製造者がFAAに「この商品を認可してください」と言ってもだめなんですよ。航空機の部品ですから、航空機の改造そのものが認められないといけない。ですから航空会社などが「この部品は全体の承認の一部であるから作ってもよろしいという許可を与えてください」とお願いして、FAA が発行するものなんです。これがあると、商売のプラスになります。

我々の競合相手でも、商品は売ったものの、土壇場まで認可されずキャンセルを食らうという会社もいっぱいあります。うちは最初から FAA のルールにあう設計をしてますので、そういう問題はなく、逆にその承認があるということを強みにしてます。

消費者への直販からOEMまで

松下の時はビデオのソースから端末までやってきました。でも、当社はただ1つ、モニターだけです。「モニターだけしか作りません」と宣言してしまうんです。そうなると当社と競合しないことがシステム屋さんにも伝わって、「それじゃあ、OEM(original equipment manufacturing:取引先の商標で販売される製品の受注生産)してください」と依頼も来ます。とてもいいことです。

そうこうするうちに、サウジアラビアとかドゥバイ、イエメン、バーレーンの王様の飛行機にもモニターを納入するようになりました。当社にはオランダ人でフランスに住んでいる良い営業マンがいるんですけど、彼は中近東が好きで、よく理解してるんですね。そして彼と私が一緒に中近東へ出かけたわけです。そのおかげで、中近東の人に対する見方が変わりました。友達になるまでは大変ですが、義理堅いところもありますし、友達になったらとても深い。でも商売はきつい(笑)。彼らは生まれた時から値切ってますからね。もうとことんやります。最後には僕も「あなたたちはこの値切り交渉をスポーツのように考えてるんじゃないの」と言ったぐらいです。口角泡を飛ばして交渉するんですが、終わったら終わったでサッパリしていて一緒にご飯を食べに行く。じゅうたんの上にすわって食べるんですが、彼らは私が胡坐をかいてすわれることに喜んでくれました。

とまあそういうお客さんは航空機を買って、アメリカの会社に頼んで好みにあわせた改造をします。その間にブローカーがいて手配をするんですが、それが本当の商売の駆け引きです。なぜかというと、航空機のコンプリーション・センターと深く関わる必要があるからです。そういうところにモニターをまとめて納入するわけですが、最大規模のコンプリーション・センターはテキサスにあるアソシエーテッド・エア・センターで、当社のセールスレップのおかげで、当社がすべてのモニターを納めることになりました。

また、コックピットの製造を受け持ってるロックウェル社との取引もだんだん増えてきまして、当社の商売の50%を占めています。航空会社の仕事も増えてきました。昨年の終わりから US エア、ユナイテッド航空、ノースウェスト航空にも納入しています。それから、日本の政府専用機。2機あるんですが、すべて当社のモニターです。また、全日空と日本航空もその気になってくれてきていますが、この契約ができましたら、体勢を変えないといけません。でも、いつ何があるかわかりません。そんなわけで、まだまだ吹けば飛ぶような会社ですが、割合に知られるようになりました。事業としては安定し始めてまして、モニターの一番になるぞと思ってます。

そして、毎年、ヨーロッパやアメリカ各地のトレード・ショーに行きます。航空会社の WAEA(World Airline Entertainment Association)というショーや、National Business Aviation Association(NBAA:ビジネス航空機協会)というショーもあります。この NBAA は大きな団体で、飛行機を作る会社から、飛行機の部品を作る会社、そして我々のような会社をはじめ、たくさん集まりますので、航空業界にこれだけの人が関わっているのかと驚きますよ。航空業界の経済効果はものすごいですね。

成功するには

モニターが変わりつつあった時に起業できたのが良かったですよ。CRT(ブラウン管)から液晶、プロジェクターから液晶になったというタイミングだったんです。そのへんのことにずっと関わってきたからわかるのかもしれませんけど、1年や2年遅れてたらどうなってたか。

例えば今、飛行機に乗るでしょう?たいていの飛行機はいまだにプロジェクターとか CRT のモニターを使ってますね。ですからかなり市場はあるんですけど、誰かが最初に取り替えてくれたら、みんながそれを見て、「それはいい」と、使い出す。入れ替えないといけないという機運が生まれる。その先頭に立つというのが成功の第一だと思います。

タイミング的に当社は恵まれていますから、この追い風に乗って行かなくてはいけない。だけど、僕ももう67歳ですからね、次のことも考えないといけないんです。この会社を始めた時は家族が関わることは考えてなくて、「5年は短い、でも10年ぐらいしたら会社を売って、余生を遊んで暮らそう」と考えてましたけど、その後、娘や息子が事業に参加するようになりましたから、自分だけさよならするわけにはいきません。当社のカタログも、業界誌の広告も、オリジナルは娘が作ってくれたんです。すべて社内制作というのも当社の強みの一つです。要するに、家族企業ですね。ですから、ひょっとしたら孫がついでくれるようになるまでやってるかもしれません(笑)。

私のような技術の人間にとって、会社を経営するということはまったく違う世界です。でも、ニコニコしてる顔を見せるのが、上に立つ者にとって大事なことです。みんなが見てますから、暗い顔をしていたらだめですよ。

Aircraft Cabin Systems
エアクラフト・キャビン・システムズ
2811 152nd Avenue NE, Redmond, WA 98052
【公式サイト】 aircraftcabinsystems.com

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