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「挫折が生きるパワーにつながる」古川享さん 日本法人マイクロソフト初代社長・慶應義塾大学大学院教授・鉄道写真家

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もくじ

死を意識した時、残しておきたいと思ったもの

3つ目の転機は、2度の体調不良を経て方向転換したことです。

1度目の体調不良は、日本法人マイクロソフトの初代社長として経営に従事していた時。物を売るとかシェアを広げるというの、すごく疲れる仕事です。社長だった5年間で毎年業績を上げていたのですが、真っ黒だった髪が真っ白になりました。ストレスから来るプレッシャーで血圧が高くなって、お尻が切れて大量の血が出たり、一時的に目が見えなくなったりもしました。

もともとセールスへの貢献より未来のコンピュータを作ることがやりたかったので、本格的な経営を次の社長に譲り、会長職につきました。しかし、 社内の軋轢によって、最終的に自主退職することになった。その時もすごい形相で近づいて来たビル・ゲイツに、「なぜ突然辞めるんだ、なぜ僕に相談しなかった」と言われました。結局、ビルの提案で、その後数年はマイクロソフト本社付けで、彼のアドバイザーとして働きました。これまで日本とシアトルを400回は往復していますが、実際に住んだのはその数年間だけです。アメリカに家を建てたりして、骨を休めた時期でもありました。

後に実業界を完全に卒業するのですが、マイクロソフト時代の私は、「勝負に勝たなければならない」という場面に無理矢理自分をはめてしまっていたと思います。その世界を離れてみて、「コンピュータを使って人に勝つ」のではなく、「コンピュータを使って人と人とのコミュニケーションをスムーズにしたり、自分の生きてきた姿を後世に残す」ことができたらいいなと思うようになりました。

それをより一層強く感じたのが、昨年の8月に脳梗塞をわずらった時です。2度目の体調不良です。「半身不随は確実、死んじゃうかもしれない」と思いました。三途の川の手前まで行って、まだ残しておきたいものがあると思ったのです。

例えば、iPod ができた時に僕は「すごい、これは永代供養になる」と思いました。自分が死ぬ時に500万のお金を残しても、すぐなくなってしまう。墓石を作っても、誰も見向きもしてくれない。でも iPod の中に5万円分のデータを委託しておいて、まだ見ぬひ孫とかが18歳になった時に、ひいおじいちゃんからメッセージが届くんです。「僕が18の時はこんな映画を見て、こんな音楽を聴いていたんだよ」って。

こういう話をすると、今の学生たちは「そのアイデアをいただいちゃってもいいですか」と言うのですが、それが本当に嬉しいことなのです。自分は今50個ぐらいそんなアイデアを持っていますが、残りの人生で全部実現できるわけではありません。ただ、僕の話を触媒として聞いてもらって、それによって若い人が自分の中で化学反応を起こし、将来的に何らかの形にしてくれればいいと思っています。

鉄道写真家、サム・古川

古川享さん

僕は自分のことを鉄道写真家だと思っています。以前コンピュータ博物館で学生相手に解説をしていたらそこのキュレーターに「お前は何者だ、なんでそんな詳しいんだ?」と言われた。で、「サム・古川」だと名乗ったら、「知ってるよ。お前、有名な鉄道写真家だろう」と。誇らしかったですね。

古川享さん


文:渡辺菜穂子

ふるかわ・すすむ/1954年東京生まれ。麻布高校卒業、和光大学人間関係学科中退。1979年に株式会社アスキーに入社し、出版・ソフトウェアの開発事業に携わる。1982年同社取締役就任。1986年日本法人マイクロソフト株式会社を設立し、初代代表取締役社長就任。以来、同社代表取締役会長兼米マイクロソフト極東開発部長、バイス・プレジデント歴任後、2004年にマイクロソフト株式会社最高技術責任者を兼務し、パソコン黎明期から日本の IT 業界を牽引してきた。

実業界引退後は後進の育成に力を注いでおり、2007年に情報処理推進機構(IPA)の「未踏ソフトウェア創造事業」のプロジェクト・マネジャー就任。2008年より慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授として、世界的なイノベータとなるべき若者の発掘・育成・支援活動を行っている。また、株式会社イー・ウーマン取締役でもある。

私生活では、幼少より鉄道ファンであり鉄道模型を趣味としている。ヘリコプターをチャーターして撮影した鉄道写真集は評価が高く、海外では鉄道写真家としても有名。2014年夏に脳梗塞を患い、一時半身不随、言語障害に陥るものの、ひたむきなリハビリテーションによって劇的に回復しつつある。

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