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第51回 三冊のノート

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8月 X 日 (母のノート)

B 面の夏。そんなフレーズがあったっけ。ふと思い出す。ペンを走らせようとしていた絵葉書を裏返すと、冬季オリンピックの舞台でもあった大倉山ジャンプ競技場の光景がある。北海道滞在の最終日、札幌市街や石狩平野を一望できる標高307メートルの展望台までリフトで上った昼下がり。絵葉書を凝視すると、北国のすがすがしい風や、前方のリフトから振り返った娘の笑顔が、瞬時にして蘇るようだ。新千歳空港を発った飛行機が羽田に舞い降り、うだるような暑さや喧騒の中に身を委ねた途端、都心のビル街での生活に引き戻された。北大キャンパスのポプラ並木に、小樽運河、旭川の見本林、そしてトマムの無人駅。短編小説に終止符が打たれるかのごとく、A面の夏が駆け足で過ぎ去った。ああ、また満員電車にぐいぐい押し込まれての通勤が始まろうとしている。辟易する一方で、日常のドラマにささやかな光を見出すB面の日々も悪くはない、と自分に言い聞かせる。

「残暑お見舞い申し上げます。」知らぬ間に、この挨拶言葉が似つかわしい季節が到来していた。友人宛に絵葉書を書きながら、気がつく。執拗にまとわりつくような蝉の鳴き声さえもが、一抹の淋しさを湛えて響く。ラジオ体操も終わり、人影が消えた校庭が、正門の向こう側から、「戻っておいでよ」と子供たちに懇願しているような、そんな季節の中に、私たちはいる。

夏休みは、箱庭のようなものだ。草花に水をやり大事に育て上げ、小さな庭を遠くから眺めた時、いつまでもいつまでも、その煌きが失せずにいるような、そんな夏休みを過ごしたい。毎年、切に願う。今年は、それを、一体どこまで実現できただろうか。

8月 X 日 (母のノート)

新学期が皮を切ろうとしている。最初の日とて、防災訓練あり、水泳記録会に向けての特訓ありで慌しい。汚れたまま放り投げられていたピンクの防災頭巾を大慌てで洗い、ベランダに干す。通知表の保護者欄に捺印をする。「自由研究、ちゃんと終わったか、もう一度確認してよ。」「算数ドリルのやり直しは、どうなったの?」「プールバッグは、用意した?」 ガミガミ母さんの登場だ。もっとも、この黄昏時、日本全国の家庭で、似たり寄ったりの会話が繰り返されているのかもしれない。運動会の練習に、剣道の試合。早くも中間試験。そして、老人ホーム慰問の一環として、兄妹でバイオリンのミニ・コンサート。スケジュール帳を開けば、最初の2,3週間だけでも予定が目白押しだ。ベランダを吹く涼風の中、見慣れた高層ビルの連なりから顔を除かせる空に目をやる。「泣いても笑っても、9月だよ。お互い、がんばろうね。」 一瞬、寂しい気持ちが胸を過ぎり、自分を奮い立たせるかのように、心で呟く。 この秋、3冊のノートが、新しい発見とキラキラした言葉で埋まりますように。

1972年の札幌冬季オリンピックの舞台でもあった大倉山ジャンプ競技場

1972年の札幌冬季オリンピックの舞台でもあった大倉山ジャンプ競技場

掲載:2014年9月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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