ダウンタウンでも人気のビルにあるステキなオフィス。今月は、マイクロソフト社などを始めとする商業施設のデザインを手がける Zimmer-Gunsul-Frasca Partnership のシニア・ デザイナー、松原博さんにお話を伺いました。
※この記事は2000年4月に掲載されたものです。
松原博(まつばら ひろし)
1961年 東京生まれ
1981年 東京理科大学入学
1982/1983年 ドイツへ夏期留学
1985年 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)修士課程入学
1988年 清水建設入社
1990年 再渡米し、リチャード・マイヤー・デザイン事務所でゲティ・センターのデザイン参加
1997年 Zimmer-Gunsel-Frasca Partnership 入社、GM STUDIO 代表としても活躍中
ロサンゼルスからシアトルへ
明るくて素敵なオフィスですね。デザイン事務所という感じがします。
そうですか。このビルに移ってから約2週間ですが、天井が高く、部屋の三面が窓になっているので気に入っています。
シアトルにこられてから、もうどれぐらいになりますか。
ロサンゼルスから引越ししてきたのが1997年でしたから、かれこれ3年になります。良い環境で子育てをしたいと思い、シアトルを選びました。
ロサンゼルスにはどのくらいおられたのですか。
大学院時代に3年間住み、一時日本に戻りましたが、1990年に再渡米しまして、約7年間住んでいました。その間はずっとゲティ・センターのデザインに従事していました。
物を作るのが好きだった少年時代
小さいころから建築にご興味があったわけですか
建築関係に進もう、というはっきりした意志を持ったのは大学時代でしたが、小さいころから物を作るのが好きでした。飛行機や車のプラモデルを作ったり、絵を描いたり。そして小学校後半からは、飛行機を作りたくて、飛行機に関する本を読みあさったり、飛行機のプラモデルを作ったりすることに熱中しました。しかし、エスカレーター式の中学に入り、高校受験のない、ゆったりした時間を過ごしているうちに、人間そのものに対して興味が湧いてきました。それから、17~18世紀のロマンチシズムなどをはじめとしたフランス文学やドイツ文学を中心にした海外の古典を読み始めました。今から考えてみると、これが海外へ目を向けるきっかけとなったと言えるかもしれません。つまり、それまでは殻の中でじっとしている孵化期だったのが、ついにその殻の内側から穴をチョコチョコと開け、そこから外界を見ているというような感じです。でも、その時既に「いつかこの殻から出るぞ、いつか割るぞ」という意識がありました。
それが実現したのは、いつでしたか。
高校卒業後、一浪して東京理科大学の工学部に入ったのですが、その時、「孵化期が終わり、自分が殻から出始めた」ということを自覚しました。そして、「見たい・考えたい・体験したい」という気持ちが高まり、大学2年の時、ドイツへ夏期留学、それまで読みあさっていた文学を通して知ったヨーロッパを、一度自分の目で見てみたいと思ったからです。1ヵ月半ぐらいの滞在でしたが、それまで思い描いていたヨーロッパと現実のそれはかなり違っていました。しかし、いろいろな建築物を見ているうちに、それがまた刺激になり、建築家を目指す決心が固まりました。
初めての渡米
大学卒業後、UCLA の大学院へ行かれたわけですね。ご家族はどのように反応されましたか。
アメリカで3年間の修士課程を取ると伝えたとき、100%サポートしてくれました。実は父方の祖父はオレゴン、そして母方の祖父母は南カリフォルニアの大学を出ているんですよ。そのために、アメリカで勉強するということに対しては別に特別な意識は持っていなかったようですね。
UCLA での留学時代は、いかがでしたか。
燃焼しきった3年間でした。建築に関して言えば、アメリカの基本はヨーロッパやギリシャであり、日本のそれは中国である-そういう世界のルーツがはっきりしたのがこの時期です。また、ちょうど1980年代で、ロサンゼルス周辺では実験的な建築をしている時期でした。つまり、多くの野心的な建築家がやって来て、試行錯誤のデザインをしていました。また、歴史的に見て、ロサンゼルスには、「ここで一旗あげよう」という活気がありました。そのころから活躍していたリチャード・マイヤーやフランク・ゲイリーといった建築家には、学生時代にもかなり影響を受けました。
では飛行機を作りたいという幼いころの思いは、そのころは既に無くなって いたわけですか。
いえ、極限的なテクノロジーということで、今でも非常に興味はあります(笑)。しかし、飛行機は “飛ぶ” “運搬する” ということが主な目的です。一方、私の興味はやはり人間全般に関してです。人間を理解するためのフィルターがいくつもありますが、その中で、自分にとって “建築” が最も価値が高い物と信じています。
そして卒業後には日本へ戻られたわけですね。
アメリカに残ろうとは思いませんでした。ちょうどバブル経済でしたので、東京のほうが面白い仕事ができるだろう、と考えていたのです。案の定、すぐに清水建設に就職が決まり、ものすごい量の仕事をこなすようになりました。それはそれでおもしろかったのですが、仕事、仕事の毎日で、寝る時間も無い。疲れが取れないため、よく会社のトイレで居眠りをしていましたよ(笑)。しかし、これは危ないと思い、またアメリカへ行こうと決心しました。
再び渡米してロサンゼルスへ
今回の渡米は修士号取得のために来るときと比べると、かなり大きな決断だったと思うのですが。
そうですね。東京には家族がいるので、そういう意味では居心地は良かったかもしれません。しかし、仕事をする上で、場所はどこでも良かったのです。それよりも、自分にとって意味のある建物を作りたいという思いの方が重要でした。そういうわけで、慣れ親しんだロサンゼルスで仕事を見つけ、1990年に再び渡米しました。
リチャード・マイヤーさんの事務所に入られたわけですね。
そうです。トップの建築家として世界中に知られるリチャード・マイヤーは、当時ロサンゼルス郊外にあるゲティ・センターのデザインを担当していました。このゲティ・センターは、1985年から1997年までの12年間をかけて建てられた、カリフォルニアの代表的な建築物ですが、私は渡米と同時にそのデザイン・チームに参加しました。
アメリカでの初めての仕事はいかがでしたか。
日本のような徒弟制度が最小限にとどめられているのが印象的でした。どちらかというとアメリカでは、上は何も教えてくれません。自分が考えて行動することが求められています。自分で勉強し、自分が質問をし、学んでいく-つまり、全員が同一線上にいるデザイナーであるというシステムですね。そして1997年、ついにゲティ・センターが完成した時、「建物は、そこに人間がいるから美しいのだ」と改めて気づきました。
シアトルという街
長い間住まれたロサンゼルスから、ノースウェストへ移ってこられたわけですが、ロサンゼルスと比べて、シアトルはいかがですか。
シアトルは、小綺麗で、さっぱりしていて、透明な街、といった感じでしょうか。そして、コーヒーの匂いがする街とも言えるでしょうね。いたるところにカフェがありますから。または、スキー・ジャケットの街?(笑) 大半の人が、普段でもブレザーやスーツではなく、そういうジャケットを着ていますよね。あれはロサンゼルスから来た私にとっては、とても不思議な服装に写りました。
建築家の目から見て、シアトルのダウンタウンはどのような街ですか。
このダウンタウンの良さは、30%~40%の率で古い建物が残っていることですね。歴史を感じさせてくれます。しかし、ここには求心性が薄いように感じられます。つまり、街が住民の行動や意識の中心になっていないようです。日本のアーバン・リゾート(Urban Resort)といって、都市の中にリゾート的なアメニティやエンターテイメントを持って来るという考えがあります。しかし、ここではそれは必要ない。というのは、外にはレーニエ山やレイク・ワシントン、オリンピック山脈といった自然やリゾートが既に存在していますから、ダウンタウンでの活動はそのリゾートへ行くための手段であり、それほど重要なことではないようです。ですから、朝は人が集まってきますから活気があるのですが、夕方は蜘蛛の子を散らすみたいに閑散としてしまいます。夜のエンターテイメントもありません。まさにドーナツ化現象です。しかし、現在これだけ人口が増加していますから、これから意識も変わり、街自体もこれからどんどん変わっていくことでしょう。
これからの抱負をお聞かせください。
私のモットーは、とりあえずこの街に貢献したいということです。ここで教育を受けさせてもらった分を、お返ししたいのです。そして、最終的には母国である日本に貢献したいですね。自分にできることがあれば、なんでもやってみたいという気持ちがあります。
掲載:2000年4月