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梶間 聡夫さん (Bellevue Philharmonic 音楽監督)

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イーストサイドで最も長い歴史を持つ最大の芸術グループとして知られるベルビュー・フィルハーモニック。1月28日にウェストミンスター・チャペルで行われたコンサートは、気軽にクラシックを楽しむ地元の音楽ファン達で満席状態でした。今月は、そのベルビュー・フィルハーモニックに、1998年、音楽監督として就任された梶間さんを訪ねました。
※この記事は1999年3月に掲載されたものです。

音楽監督の仕事

1月28日のコンサートの曲目に、Benjamin Brittenの作品がありました。あれは普段耳にするクラシックとは少し違ったもののように思いましたが。

そうですね。選曲、つまり、プログラミングは、音楽監督である私の大切な仕事の1つで、様々な意見を取りいれて決めています。確かに Britten は、普段クラシックとして流れているものとは少し違っているかもしれませんが、これからはこういった新しい分野をもっと紹介していきたいと思い、選んだものなんですよ。

音楽との出会い

梶間さんは長く海外で音楽活動を行っておられるということですが、音楽と初めて出会われたのはいつ頃のことなのですか?

私が音楽と出会ったのは、3才半の時。両親に連れていかれた日本フィルのコンサートが運命でした。当時の指揮者だった秋山さんの指揮を見た途端、ガツーンと来ました。「なんだあれは? あの前で棒を振っている人、なんだかわからないけど、すごい! あれになりたい!」と。そして、その日最後の曲目だった、ドボルザーク作曲 『新世界』 のレコードを買ってもらいまして、1日に何十回となく聴きはじめた。これには両親もただならぬ物を感じまして、「どうもおかしい、どうしよう?」と、あちこちに電話をしたんです。そしたら、「ピアノがいい」と言われ、ピアノを始めたというわけです。

それでは、小さい頃から音楽少年だったというわけですか。

いえいえ、幼いなりに、いろいろなことに夢中になったんですよ。小学校4年生の頃にはサッカーにも熱中しましたし、6年生の頃には法律の勉強にも傾きましたね。そうなると、必然的にピアノの練習をする時間が少なくなります。でもピアノをやめたくなかった。ですから、短時間で効率的な練習方法を編み出す、という大変な苦労をしましたね (笑)。

そして、14才の時に最年少で東京芸大の遠藤教授の門下生になられた。

日本のピアノの先生というのは、ピアニストを育てるという目的があります。私は指揮者になりたかったので、遠藤教授の門を叩いた、というわけです。

高校生でアメリカへ

その後、高校生で音楽の勉強をしにアメリカに来られたということですが、なぜアメリカを選ばれたのですか?

私が高校生の時、教授がヨーロッパに留学することになり、その際に進路について考え、いろいろな話を聞く機会がありました。日本では、当時も、そして今も、音楽と言えばやはりヨーロッパ。オーストリア、ドイツなどを音楽の中心として見ています。しかし、アメリカの大都市には非常に良い音楽学校があり、ヨーロッパの偉大な音楽家達が教鞭をとっているという。「よし、それじゃあアメリカに行こう!」ということになりまして、叔母の住んでいたアイオワ州に留学。そこでは町で働いている人はみんなご近所さんというぐらい小さい所でしたが、非常に教育熱心でして、大学教授についてピアノを続けました。高校卒業後はボストンのニュー・イングランド・コンサベートリー・オブ・ミュージックのピアノ科へ進み、ミシガン大学大学院を卒業しました。

それからはアメリカ以外ではヨーロッパなどで活動されているのですね。

大学院卒業後、ドイツへ行きました。アメリカと違って、ヨーロッパでは市や州単位で何百という音楽関連施設がありますから、若手の音楽家でも比較的簡単に音楽界に入ることができるのです。というわけで、ドイツのオペラハウスのボーカルコーチとして、下積みの生活を2年ほど送りました。その後、アメリカに戻り、ランシング交響楽団、ミッド・ミシガン・オペラの副指揮者、ジョージア州立大助教授などを務め、現在に至ります。

ヨーロッパ、アメリカ、そして日本における音楽

ヨーロッパでは音楽というものが社会の一部として確立しているのですか?

そうですね。長い歴史と音楽史のおかげで、伝統が生まれ、音楽家への尊敬は深く、前述の通り、若い音楽家を育てる土壌があると言えます。しかし、逆の面では、その歴史と伝統が盾になり、なかなか新しいものを受け入れられないという難点があります。つまり、「もう200年もこうしているのだから」ということが平然と断る理由になったりします。また、ヨーロッパの音楽家の間には縦の階級社会があり、それが指揮者と他の音楽家の間に溝を作るというような悪循環になっています。一方、アメリカの場合、人間関係においては全員が対等で、実力が物をいいます。階級ではなく、その人の音楽への姿勢だけで、本当の純粋な尊敬が生まれるわけですよ。その上、いいと思うものをどんどん取り入れていく。私が演奏のバックに詩や写真をディスプレイすることも、そのいい例です。

その点、日本はどうでしょうか。

日本でもヨーロッパのように、とにかく縦の人間関係が大変でしょう。若い世代がはばたくことを邪魔する要素がたくさんすぎるほどあり、音楽という究極のものを全身で追求することを許さない不必要な苦労があります。また、音楽監督が責任を持つべきプログラミングも、ビジネス的な外圧でどうにでも変えられてしまう。その結果、新しいものに移行できず、どこの音楽会も同じような曲を演奏する、なんてことになってしまうわけです。

それは日本の社会の縮図でもあるような気がします。

そうですね。もっと各自がそれぞれの価値観を持ってもいいと思います。そして、自分の情熱を傾けることのできる物を見つけ、それを達成する為の中期的・長期的なプランをたてる。私の長期的プランは指揮者になるということで、それを達成するには様々な中期的な目標を果たしていく必要がありました。駆け出しの頃は借金をし、自分の音楽を追求していくのが音楽家の常なのですが(笑)、それは良い音楽家になるための投資です。昔、ヨーロッパに渡るための資金稼ぎで貿易業務に携わったこともありますが、大きな目標があれば、それに近づくための中間地点も楽しめる。しかし、大きな目標がないと、日々の小さな出来事しか見えずに、右往左往していたでしょうね。

自分の目標に向かって

梶間さんのように、目的意識の高い方もおられますが、自分のやりたいことを見つけるのは至難の技、というのが現代によく見られる傾向だと思います。

小さい頃からいろいろなことに接していない場合、それは当たり前ではないでしょうか。私のように運命的にやりたいものに出会えることもありますが、普通は小さい頃から、親や学校、友達、その他いろいろな外的なものを通して、いろんなことに接していかないとだめでしょう。日本にいても同じことだと思います。とにかく、浅く広くいろいろなことを経験し模索していく過程が欠如している人が多いのだと思います。せっかくアメリカに来たんだから、日本人以外の人がいるところを利用しない手はないです。シアトルの人はフレンドリーでオープン。地域のスポーツ・チームに入ったり、本屋の無料イベントで隣に座った人と話したり、交流の機会がたくさん用意されていますから、積極的に参加していくことがいいのではないでしょうか。本当にやりたければ、自分で調べて動くことができるはずですよ。

これからの目標をお聞かせください。

一番身近な目標としては、いろいろと新しい企画を採り入れたコンサートを実行すること。また、2000年には100人ぐらい日本人を集めて第九のコーラスをやりたいと思っています。こちらでは、クラシックはもっと身近なものです。みなさんも気軽に聴きにきてください。

【関連サイト】
Bellevue Philharmonic

掲載:1999年3月

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