アメリカ北西部の港町シアトルを本拠地とするシアトル・マリナーズ(Seattle Mariners)は、メジャーリーグベースボール(MLB)のアメリカン・リーグ西地区に所属するプロ野球チーム。1977年に誕生して以来、勝ち負けを超えて、シアトルの春から秋を彩る存在として、世代を超えて地元に親しまれています。
マリナーズ誕生前史:シアトル・パイロッツ
シアトルに初めてメジャーリーグの球団が誕生したのは、マリナーズより8年前の1969年。アメリカン・リーグの拡張によって設立されたシアトル・パイロッツ(Seattle Pilots)が、その始まりでした。
パイロッツは、レーニア・アベニューにあったシックズ・スタジアム(Sick’s Stadium)を本拠地とし、港町シアトルを象徴する Pilot(航海士)の名を掲げてスタートします。しかし、スタジアムの老朽化や設備不足、観客動員の低迷、そして財政難が重なり、経営は1年で行き詰まりました。
わずか1シーズン(1969年)で球団は破産を申請し、翌1970年4月にミルウォーキーへ移転。チーム名をミルウォーキー・ブルワーズ(Milwaukee Brewers)に変えて再出発します。この突然の移転により、シアトルはメジャー球団を失いました。
1970年10月、ワシントン州とシアトル市はアメリカン・リーグを相手に訴訟を起こします。訴えの根拠は、シアトル・パイロッツ球団設立時の契約不履行と経済的損失。訴訟は6年にわたって続きました。
シアトル・マリナーズ創設
1976年:アメリカン・リーグが球団設立を承認
1976年1月、アメリカン・リーグはシアトルに新たな拡張球団を与えることで和解しました。その結果として、同年2月6日、アメリカン・リーグはシアトルに新しい拡張フランチャイズ(expansion franchise)を承認し、シアトル・マリナーズの設立が正式に認められました。つまり、シアトル・マリナーズは、パイロッツの失敗を経て誕生した「再挑戦のチーム」なのです。
シアトル・マリナーズのオーナーグループには俳優のダニー・ケイ氏をはじめ、地元実業家のレスター・スミス氏、ウォルター・シェーンフェルド氏などが参加しました。
1977年:メジャーリーグに正式参加
翌1977年、チームはメジャーリーグに正式に参加。同年8月には一般公募によるチーム名の選定が行われ、応募総数15,000件以上の中から「Mariners(マリナーズ)」が採用されます。
1977年4月6日、キングドームでの初試合には57,762人の観客が集まり、シアトルの街が熱気に包まれました。チームは初年度を64勝98敗で終え、拡張球団としては健闘のスタートを切りました。
MLB公式サイトによると、命名者のベルビュー在住ロジャー・スゾモディス(Roger Szmodis)さんは、「海とシアトルの自然なつながりからこの名前を選んだ」とコメントしています。
1980年代:苦戦と基礎づくり
1980年代のマリナーズは、勝ち越しシーズンのない厳しい時期が続きました。しかし、将来の球団を支える若手選手たちが着実に育ち始めます。
この時期に加入したケン・グリフィー・ジュニア(Ken Griffey Jr.)、ランディ・ジョンソン(Randy Johnson)、エドガー・マルティネス(Edgar Martínez)は、後にマリナーズの象徴的存在となり、1990年代の飛躍につながりました。
ケン・グリフィー・ジュニアとエドガー・マルティネスは後に野球の殿堂入りし、マリナーズの本拠地 T-Mobile Park 前に銅像が設置されています。
球場の歴史:キングドームから T-Mobile Park へ
最初の本拠地:キングドーム

Courtesy of the Seattle Municipal Archives
Identifier: 111325
マリナーズの最初の本拠地は、キングドーム(Kingdome)でした。1976年に完成し、1977年の球団初試合から使用された多目的ドーム球場で、NFLのシアトル・シーホークスや、大学フットボールの試合、コンサートなどにも利用されていましたが、音の反響や人工芝の影響などから野球に不向きな環境とされていました。
1990年代に入ると老朽化が進み、観客動員も低迷。1994年の天井崩落事故を機に、新球場建設の必要性が本格的に議論されます。しかし、公的資金の投入には反対意見も多く、1995年9月の住民投票では建設案が否決されました。
これを受けて、マリナーズのオーナーグループは「10月30日までに新球場の計画が承認されなければ球団を売却する」と表明。マリナーズが他都市へ移転する可能性が一気に現実味を帯びたため、州知事が特別会期を招集し、州議会はレストラン税やレンタカー税による資金調達を承認。こうして新しい球場の建設が決定しました。
この決断は単なる球場の建て替えではなく、「マリナーズをシアトルに残す」ための政治的な選択でした。その背景には、ファンの声、行政の判断、そして任天堂による経営支援がありました。
現在の球場 T-Mobile Park (旧 Safeco Field)

新しい球場は、開放的で、雨の日は屋根を閉めて快適に観戦できるよう屋根は可動式にデザインされました。キングドームの南側に建設され、1999年7月15日に「セーフコ・フィールド(Safeco Field)」として開場しました(地元保険会社セーフコ・インシュアランス(Safeco Insurance)による命名権契約にもとづく名称)。役目を終えたキングドームは2000年3月に爆破解体され、その跡地にはアメフトやサッカーの試合などが行われるルーメン・フィールド(Lumen Field)が建設されました。
新しい球場は、開放的で、雨の日は屋根を閉めて快適に観戦できるよう可動式の屋根を備えたデザインで建設されました。場所はキングドームの南側で、1999年7月15日に「セーフコ・フィールド(Safeco Field)」として開場。この名称は、地元保険会社セーフコ・インシュアランス(Safeco Insurance)による命名権契約に基づくものです。
役目を終えたキングドームは2000年3月に爆破解体され、跡地にはアメリカンフットボールやサッカーの試合が行われるルーメン・フィールド(Lumen Field)が建設されました。

2019年、シアトルの東のベルビューに本社を置く通信会社 T-Mobile が命名権を引き継ぎ、現在は T-Mobile Park として親しまれています。
任天堂による球団支援(1992〜2016)
1989年から球団の経営難が続き、シアトルからの移転の可能性が報じられるようになりました。この危機に際し、地元弁護士ジョン・エリス氏を中心に球団救済のためのグループが結成され、そこに出資したのが任天堂株式会社(Nintendo Co., Ltd.)です。
1992年、当時の任天堂社長・山内溥氏が筆頭オーナーとして球団の買収を主導しました。任天堂はシアトル郊外のレドモンドに拠点を置いており、山内氏は「我々を受け入れてくれたシアトル地域への恩返しをしたい」と、日本にいながら、資金面でマリナーズを支援し、シアトルに球団を残す決断を下しました。この出来事は「任天堂がシアトルを救った」として現在も広く語り継がれています。
2025年シーズンには球団初のユニフォーム袖スポンサーに
任天堂の支援は20年以上続き、地域経済やスタジアム建設にも貢献しました。2016年には球団株の大半が地元投資グループへ譲渡されましたが、Nintendo of America は今も少数株主として関わり続け、2025年シーズンには球団初のユニフォーム袖スポンサーとなってパートナーシップを強化しています。

1990年代〜2000年代初頭:黄金期と記録

1995年:初の地区優勝
任天堂の経営安定化のもと、チームは成長を続け、1995年に初のア・リーグ西地区優勝を達成。地区シリーズでは、エドガー・マルティネスのサヨナラ二塁打「The Double」が生まれ、球団史における象徴的な瞬間となりました。その一方で、球団のオーナーグループは経営難から「他都市への移転」も視野に入れていたとされます。

2001年:イチロー選手の加入と116勝
2001年、日本からイチロー選手が入団。メジャー1年目にして新人王とMVPをダブル受賞する歴史的なシーズンとなりました。この年のマリナーズは116勝46敗というア・リーグ新記録を樹立。攻守にわたってバランスの取れたチームで、球団史上最高の成績を収めました。
2000年代後半〜2010年代:再建の時期
2003年を最後にプレーオフ進出から遠ざかり、長い長い再建期が続きます。それでもイチロー選手は安定した活躍を見せ、10年連続200安打を達成。2014年には87勝を挙げてポストシーズン争いに復帰するなど、チームは少しずつ勢いを取り戻していきました。
球団史に刻まれた3人の殿堂入り

2026年にはランディ・ジョンソンの「51」も加わることになる
マリナーズの歴史を象徴する3人――ケン・グリフィー・ジュニア、エドガー・マルティネス、そしてイチロー。それぞれの選手が、シアトルの街と球団の名をメジャーリーグ史に刻みました。
ケン・グリフィー・ジュニア(Ken Griffey Jr.)

1989年にメジャーデビューし、「ジュニア」の愛称でファンに親しまれた外野手。その美しいスイングと守備力は多くのファンを魅了し、1990年代のマリナーズを象徴する存在となりました。2016年、通算630本塁打を記録したグリフィーは、史上最高の99.3%という得票率でアメリカ野球殿堂入り(National Baseball Hall of Fame)を果たします。マリナーズ史上初の殿堂入り選手であり、その年の7月には背番号「24」が球団初の永久欠番に指定されました。
エドガー・マルティネス(Edgar Martínez)

マリナーズ球団一筋で18シーズンをプレーしたマルティネスは、「エドガー」と親しみを込めて呼ばれるクラッチヒッター。高い出塁率と勝負強い打撃でファンに愛され、2019年に殿堂入りを果たしました。マリナーズの本拠地 T-Mobile Park 前の通りは「Edgar Martínez Drive S.」と命名されています。
イチロー(Ichiro Suzuki)

2001年に日本から加入し、新人王とMVPを同時受賞。スピード、守備、打撃すべてでメジャーを席巻し、日米通算4,367安打を記録しました。2025年、イチローは殿堂入りの初年度を迎え、史上初の日本人メジャーリーガーとして殿堂入りを果たしました。マリナーズの歴史が国境を超え、世界の野球文化とつながった象徴的な出来事となりました。

2020年代:新たな時代の始まり
2022年、シアトル・マリナーズは21年ぶりにポストシーズンへ進出しました。チームの中心となったのは、若きスター外野手フリオ・ロドリゲス(Julio Rodríguez)。彼のエネルギーとプレーがチーム全体に新しい勢いをもたらし、マリナーズファンに再び希望と活気を呼び込みました。

2025年のシアトル・マリナーズは、2001年以来となるア・リーグ西地区優勝を果たし、再び大きな注目を集めました。シーズン途中には、捕手カル・ラレーが60本塁打を放つ歴史的な活躍を見せ、数々の球団・リーグ記録が塗り替えられました。
ポストシーズンでは、リーグ優勝決定シリーズ(ALCS)でトロント・ブルージェイズと激戦を展開。第7戦で惜しくも敗れたものの、夢のワールドシリーズ進出に手が届くところまで迫りました。

一方で、球団は2025年シーズンを通じて、ソーシャルメディアを活用した新しいファン交流にも力を入れました。試合の裏側を見せる映像や選手を紹介する投稿が増え、ファンとのインタラクションがこれまで以上に増え、深い絆作りが強化されているように感じます。
試合の結果に加え、球団と街、そしてファンの距離が縮まった今シーズン。ワールドシリーズ制覇という夢はまだ先にありますが、チームの歩みとファンの声が、確実に次の時代を形づくりつつあると言えるかもしれません。
主な出来事(抜粋)
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1976年 | ア・リーグがシアトルの新球団を正式承認 |
| 1977年 | 球団が正式に発足、キングドームで初試合 |
| 1992年 | 任天堂・山内溥氏が球団買収を主導 |
| 1993年 | 新球場建設の必要性をオーナー陣が表明 |
| 1995年 | 「The Double」で初の地区優勝 |
| 1999年7月 | セーフコ・フィールド開場(現 T-Mobile Park) |
| 2001年 | 116勝・イチローが新人王&MVP |
| 2016年 | 任天堂が球団株式の大半を譲渡 |
| 2022年 | 21年ぶりのポストシーズン進出 |
| 2025年 | 20年ぶりのア・リーグ西地区優勝 |

