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起業家に聞く、シアトルらしい働き方 – 「英語の書籍で日本を伝える」ブルース・ラトリッジさん

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ブルース・ラトリッジさん

ブルースさん。上梓したばかりの『Yokai Stories』と共に

シアトルらしい働き方、それは「好きなことをやりきる」ということ。情熱を表現する手段として「起業」を選び、その場所として「シアトル」を選んだ人たちには、どんな思いがあったのでしょうか。

今回お話を伺うのは、Chin Music Press の代表、ブルース・ラトリッジさん。パイク・プレース・マーケットの一角にオフィスを構え、日本の文化やアートにまつわる本を多数出版する独立系出版社です。日本の大手新聞社でキャリアを積んでいた彼が、コネクションのないシアトルで出版社を立ち上げた理由とは。ブルースさんの本作りにかける思いを聞きます。

「遠い国」日本をもっと身近なものにしたい

– Chin Music Press について教えてください。

2004年に設立した独立系出版社です。子ども向けから大人向けまで、日本に関する書籍を中心に出版しています。たとえば寿司職人の加柴司郎さんや、日系アメリカ人アーティストの Enfu など。最近ではハロウィンに合わせて「妖怪」をテーマにした児童書を出しました。これには奇妙なモンスターがたくさん登場します。英語の本ですが、あえて「妖怪」という日本語をそのまま使っていて、日本文化の空気感を味わってもらえると思います。

– 日本に特化した英語書籍、というコンセプトはユニークですね。日本のコンテンツに興味を持ち始めたのはいつ頃ですか。

大学生の時です。ちょっと恥ずかしい話ですが・・・、ジェームズ・クラベルの小説 『SHOGUN』 に夢中になりました。江戸時代初期の日本を描いた本で、ロマンス小説に近いです。1980年代にアメリカで大流行しました。とてもかっこよくて、日本に行きたいと考えるようになりました。

大学を卒業してすぐの1985年、文科省のプログラムの招待を受けて日本に行きました。それから2年間、千葉の市役所や高校で国際交流と英語教師の仕事をしたのです。

– 日本の生活はいかがでしたか。

日本は私が想像していたよりもずっと興味深いところでした。街はいつも活気に満ちていて。私はオハイオ州出身で大都市に住んだことがなかったのです。上司や同僚とよく東京の高架下で焼き鳥を食べていました。すべての体験がとても魅惑的で、私の人生を変えました。

– 日本のどこにそんなに惹かれたのでしょうか。

特に私がいた当時の1980年代、社会がとてもうまく機能していると感じました。人々は礼儀正しく、電車は時間通りに走っています。たまにサラリーマンが酔っ払って道で気絶しているといった奇妙な光景も見かけましたが、全体的にはとてもよく組織されており、「国家とはこうあるべきだ」という非常に良い例を見た気がしました。

加えて、私は日本文化に魅了されました。剣道や相撲、歌舞伎などに興味を持って熱心に勉強しましたね。上司は私に、東京の成り立ちの歴史を詳しく教えてくれました。江戸時代の伝統的な文化は、ロンドンやニューヨークよりずっと土地に根付いていると感じたものです。

しかし、当時はインターネットもなかったので、アメリカにいると日本の情報がほとんど入ってきません。実家の祖母は「日本にはお箸しかないから不便でしょう?」と、わざわざ郵便でスプーンを送ってきてくれました。アメリカ人の日本に対する知識はその程度だったのです。

– それで日本のことをもっと知ってもらいたいと考えたのですね。

日本の文化、日本の場所、伝統・・・そういったものはすでにアメリカでも紹介されていたので、私はそこにさらなる情報を付け加えていく仕事がしたいと考えました。日本は決して「遠い国」ではなく、もっと近づきやすいものなのだということを。

シアトルのローカルアーティスト、Enfu の著書

シアトルのローカルアーティスト、Enfu の著書『Enfu: Cute Grit

英語の書籍を通して日本を伝える

– 文科省の2年間のプログラムを終えて、すぐにその活動を?

その時点では、まだこの地を去ることはできない、もっと日本について学ばなければと思ったのです。初めは共同通信の系列会社で記事の翻訳や編集をして、数年後に日経新聞で新聞記者として英語記事を書き始めました。

同時に、筑波大学で講師として時事英語のクラスを担当して、博士課程の学生に向けて週1回教えていました。とても面白かったですよ。才能ある若い学生たちと話して、東京以外の地域に触れて。そのまま日本で17年間を過ごし、シアトルに移住したのは2002年の時です。

– 住み慣れた土地を離れるのは大きな決断だったのでは。

妻の両親が亡くなったのがひとつのきっかけでした。彼女は日本人ですがロサンゼルス育ちで、二人でアメリカに戻ろうと話し合いました。ドライブをしていくつかの土地を見てまわったんです。シアトルに着いて美しい地平線を眺めていた時に、「ここが私たちの住むべき場所だと思うわ」と妻が言いました。

シアトルは経済的に豊かですし、国際的で、良い日本人コミュニティがあります。それに、他の大都市と比べて読書文化が根付いていることも大きいです。良い書店や図書館があり、雨の日には人々はカフェに行って本を読む。私たちがビジネスを始めるのに最適な土地だと思いました。 

– 出版社を立ち上げようと思われたのはなぜでしょうか。

東京にいた頃、出版とは本来とてもグローバルな業界なのだと知りました。日本の出版業界では、アメリカやイギリスだけでなく中国やギリシャ、ロシアなど、さまざまな国の書籍が翻訳されています。読者はその気になれば多種多様な価値観に触れることができますよね。

アメリカは人種としては多様性がありますが、文化的には「白すぎる」・・・つまり、白人寄りです。海外からの翻訳書籍は全体のわずか3%です。売れると思われていないので、大手出版社が手を出さないのです。村上春樹などの超人気作家でもない限りは。

少なくとも私は、もっと海外作家の作品を読みたかった。同じように感じる人はたくさんいるでしょう。そのための活動として、私は日本の書籍を出版したいと考えました。これはリスクをとれる小さな出版社にしかできないことです。

パイク・プレース・マーケット内のオフィス

パイク・プレース・マーケット内のオフィス。
手前のスペースでは書籍や関連作家のグッズを販売している

– たとえば、これまでのキャリアを生かしてシアトルの新聞社で働き、日本のことを伝えていくという選択肢もあったかと思います。なぜあえて出版社を。

新聞の記事は一つひとつが短くて、数日後には流れて消えていってしまいます。私は「ずっと残り続けるもの」が作りたかったのです。それが本です。

また、当時はインターネットが急速に成長していた時期でした。インターネットを介せば、デンバーやマイアミ、ボストンなど離れた場所に住む読者に私たちの本を届けることができます。今は全米だけでなく、海外の読者にも広がっています。日本では紀伊国屋で私たちの本が買えますよ。

紙の本でしかできないことを

– その先に目指すものは何でしょうか。

二つありますね。一つは私たちの本によって、人々の日本への理解と関心を高めることです。今まで日本について考えたことすらなかった人に、日本を知ってもらいたい。それは異文化への差別や偏見をなくすことにつながります。

もう一つは、本をより「美しいもの」にすることです。電子書籍の台頭によって、本はもう時代遅れだと考える人もいますが、私たちはそうは思いません。初めて発行した本は、日本の書籍のスタイルからアイデアを得ました。持ちやすいサイズで、帯がついており、ひものしおりが付いています。多くのアメリカ人は「なんてきれいなんだ!」と感動していましたよ。私たちの本はミュージアムストアでも取り扱われ、美しい装丁の本を愛する人たちの手に渡っています。

本を出すときはいつも、それが単なる本であるという域を超えて「何か特別なもの」になるようなサプライズを入れています。たとえばちょっとしたマップを付属したりですとか。大切な人に贈りたい、ずっと残しておきたいと思ってもらえるような工夫です。

Kuhaku and Other Accounts From Japan

2004年発行の 『Kuhaku and Other Accounts From Japan』。
Chin Music Press 最初の書籍

– 今年の夏頃には、このシアトルの日本語情報サイト『ジャングルシティ』 などを運営する大野拓未さんの企画で本を出すと聞きました。

そうですね。この本は拓未さんから提案をもらって書籍化に進みました。日本という土地に根付いた活動を行っている人たちの、心あたたまるエッセイ集です。彼らが何を考えて、今の人生をどれだけ楽しんでいるのか。そういったことが丁寧につづられています。

今回のように、誰かのアイデアが発端となって本を作ることは多いです。シアトルにはたくさんの才能ある作家やアーティスト、翻訳者がいて、彼らとの出会いによって新しい作品が生まれていきます。ジャーナリズムに関わってきた人間として、この方法が合っているのだと思います。

掲載:2019年3月

取材・文:小村トリコ
シアトルで編集記者を務めた後、現在は東京でフリーライターとして活動中。人物インタビューを中心に、文化・経済・採用などのジャンルで記事を執筆している。



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