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起業家に聞く、シアトルらしい働き方 – 日本語学習ソフト開発者、ブライアン・ラックさん

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ブライアン・ラックさん

ブライアン・ラックさん

シアトルらしい働き方、それは「好きなことをやりきる」ということ。情熱を表現する手段として「起業」を選び、その場所として「シアトル」を選んだ人たちには、どんな思いがあったのでしょうか。

今回お話を伺うのは、Brak Software, Inc. 代表のブライアン・ラックさん。1999年、日本語学習ソフト『Human Japanese』 を発売して全米誌で話題に。2016年からは日本語学習者に向けた読み物やニュースを提供する 『Satori Reader』 を運営しています。ブライアンさんの夢を実現させるまでの道のりと、シアトルへの思いを伺います。

はじまりは二冊の本。日本語を身近なものとして

– 日本語に興味を持ったきっかけは何ですか?
6~7歳の頃、両親が買ってくれた「世界の国々」の本のセットだったと思います。一つの国につき一冊の本があって、レコードが付いていました。レコードをかけて、その国の説明を聞きながら本の写真を見るんです。その中で一番好きだったのが日本の本でした。段々畑の景色や、着物を着た女性が印象的で。いつかここに行ってみたいと思っていました。

高校に入ってから、念願だった日本語クラスをとり、むさぼるように教科書を読みました。1年生のクラスが半年終わった時点で、もう2年目の教科書をリクエストしたりして。日本語は非常に難しい言語とされていますが、ぼくにとっては勉強するほどに新しい喜びを味わえるものでした。その時にはもう、完全に日本語の中毒者になっていたと言えますね(笑)。

– 日本語学習ソフトを作ろうと思ったのはいつですか。

1995年、交換留学に行った福岡の高校でのことです。日本語の勉強に行き詰まっていた時、図書館で一冊の本に出会いました。当時ワシントン大学で教授をしていたジェイ・ルービン先生が書いた日本語の文法書です。感動しました。複雑なことをわかりやすく説明するだけでなく、面白おかしく教えていて。気軽に読めて、すごく納得できました。当時はそういったタイプの日本語教材がほとんどなかったんです。

– それで日本語の勉強への考え方が変わった?

すごく影響を受けて、ぼくもこんな方法で日本語を教えたいと思いました。アメリカに戻ってすぐに個人のウェブサイトを作り、日本語に関するコラム記事を書き始めました。その後ワシントン大学に進んでからは、毎晩学内のコンピュータラボに通って、日本語教材を作るためのテキストを書いて。そのうちに「紙の教科書ではなく、ソフトウェアとして売り出してみたい」と思いついたんです。さっそく中古のパソコンと開発ソフトをガレージセールで買って、9ヶ月間自分の部屋にこもりました。そうして出来上がったのが 『Human Japanese』 です。

– すごい行動力です。そのまま大学も辞めて?

はい、開発に夢中になりすぎて(笑)。その時、本当に貧乏で、なけなしの貯金500ドルを銀行からおろして、ドキドキしながら250枚の CD-ROM を複製したのをよく覚えています。最初の50枚はすぐに売れたのですが、それ以降の注文が伸びず、これだけでは生活できないと思ってマイクロソフトに入社しました。

Human Japanese

日本語の基礎文法を楽しく学べるソフトウェア 『Human Japanese』。このスタイルの学習法は世界でも珍しく、英語圏外から「翻訳して自分の国で販売してほしい」と問い合わせが来ることも

好きなことを本職にするために

– Human Japanese はサイドワークとして続けつつ、別に本職を持ったのですね。

そうです。その後、大きなチャンスが2つありました。ひとつは2002年、複数のソフトウェアをコンビネーションパックにして販売するプロジェクトに加わったことです。ウォルマートなどの小売店に並んで、8万部ほど売れました。このとき学んだのは、多くの人の目に触れる場所に置くことができれば可能性が広がる、ということです。

– もうひとつは?

iPhone の登場です。2008年には、誰もが自分のアプリを Apple ストアにアップロードできるようになり、ソフト業界はみんな大騒ぎでした。とにかく何か書いてみようという感じだったので、ぼくも試しに Human Japanese のアプリを出して。意外にもそれが飛ぶように売れました。その3ヶ月後には、Apple 公式ページのおすすめアプリとしてピックアップされたのです。さらに売れ行きが伸びました。

– 独立への道が見えてきたと。

とはいっても、これを本職にするにはまだ心許なかった。そこでぼくがとった方法は、Android 版を出すことです。月によって iPhone 版の売れ行きが悪くなっても、Android 版があればバランスがとれるかなと。1年間様子を見て収入が安定したので、独立してやっていこうと決意しました。

– そのときの周りの反応は?

妻はぼくのパッションを知っていたので、全面的に応援してくれました。こわかったのは、妻の両親に伝えることです。会社を辞めるとき、日本の妻の実家まで報告に行きました。当時 Human Japanese には iPhone、iPad、Android と PC のバージョンがあったので、それらの端末を義父母の家のテーブルに並べて「こんなにたくさんの機械で使えるようになって、この1年間でこれだけの収入がありました。今後はこれでやっていこうと思っています」と。まるで「娘さんをぼくにください」と言うような気分でプレゼンしました。すごく緊張しましたが、認めてもらえてよかったです。

– 大企業を辞めるというのは大きな決断ですね。なぜそこまでして独立を?

ぼくが本当にやりたいことは、サイドワークのままではとても実現できなかった。日本語ソフトウェアの開発にはとにかく時間が必要でした。覚悟を決めてやりたいことをやる、でも家族を巻き込むからにはお金の面もきちんと考えないといけない。だから注意深く進めました。

– 失敗したらどうしよう、という不安はありませんでしたか。

そこは楽天的でした。ダメだったとしても、その経験を生かして別の道に進めるだろうなと。ぼくたち夫婦は基本的に「どんな経験も無駄にはならないから大丈夫」という考え方です。ビジネスをスタートさせるには、慎重になるべき部分と、大胆になるべき部分の両方があると思っています。

Human Japanese

日本語のストーリーやニュースが読める 『Satori Reader』。読者の日本語レベルに合わせて漢字表記を調整できる。日本人が読んでも普通に楽しめるコンテンツは、すべて完全オリジナルの作品

起業の地としてのシアトルの魅力

– 拠点としてシアトルを選んだのはどんな理由が?

シアトルにいてよかったのは、ここがテクノロジーの街だということです。1999年ごろから、いわゆるドットコムブームが到来して、各企業が独自のウェブサイトを持ちたいと考えるようになりました。シアトルには IT 関連の会社がたくさんあって、チャンスの宝庫だったんです。どこに行っても業界関係者がいて、いつでも情報交換できて、どんどん人脈が広がりました。

– 独立した今でもネットワーキングを続けていますか。

独立するときに最も心配したのがそのことです。プログラミングの世界では常に新しい技術が出てくるので、一人になったら追いていかれるのではと。なので自分の知識をアップデートするために、今でも積極的に人と会っています。マイクロソフト時代の同僚とランチをしたり、開発者同士のミートアップに参加したり。外に出ればすぐに同じ業界の人たちとつながれる。シアトルだからできることです。

– 他にもシアトルでよかったと思うことはありますか。

自然が多くて、海や山、川、森がすぐ近くにあることはとても魅力的ですね。よく妻と二人でハイキングに出かけます。大自然の中を歩いていると、ぱっと新しいアイデアが浮かぶことも。一日中コードばかり見ているので、そうやって頭を切り替えられるのはありがたいです。

– これからもシアトルに住みたいですか?

もちろんです。ただ、ぼくの仕事はインターネットがあればどこでもできるので、しばらく住む環境を変えて自分をリフレッシュさせるのもいいですね。今後は今の日本語学習サービスをもっと成長させて、たくさんの人に日本語を楽しく勉強してほしい。ユーザーからのメールで「このソフトのおかげで日本語が読めるようになった」と連絡を受けたときが一番うれしいです。それが人の役に立つということだと思っています。

掲載:2018年11月

取材・文:小村トリコ
シアトルで編集記者を務めた後、現在は東京でフリーライターとして活動中。人物インタビューを中心に、文化・経済・採用などのジャンルで記事を執筆している。
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