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佐々木るんさん(声優・女優・日本語教育指導者)

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もくじ

無口で目立たなかった子供時代と両親

私は幼い頃から声優になりたいと思っていたわけではありません。(今の私を知っている人は、これを言うと途端に吹き出すのですが)、私はとても無口で目立たない子供で、保育園からは無断早退するような集団生活が苦手なタイプでした。小学校低学年に入っても同じような状態が続いたのですが、そんな私でも両親はいつも何かと褒めて育ててくれました。特に「本を読むのが上手」と。私は東京で生まれ、福島県で育ったのですが、母は美しい標準語を話す人で、両親揃って私の朗読を聴いては、「上手だなあ、上手だなあ!」と褒めて拍手してくれたのです。次に私を演劇や声に意識を向けさせた出来事は小学校3年生の時。普段、ちっとも目立たなかった私が学芸会で主役に選ばれるという、奇跡が起きたのです。あの頃から、人前で演じることの魅力にはまっていったのかもしれません。放送部のアナウンサー、そして小学校6年生の時には児童会長に選ばれ、壇上で全校生徒の前で話せるぐらいまで自分が変化していました。よく雑誌のインタビューで「どうやって声優になったのですか?」と質問されるのですが、今振り返れば、親が子供の魅力や特技にいち早く気づいて励まし育てることが、子供が将来やりたいことを見つけていく大きなヒント、あるいは原動力になるような気がしています。小学校のあたりが私の人生が声優という職業につながっていけた原点かもしれませんね。

また、時代も影響していたと思います。1960年代はアメリカの吹き替え番組の黄金時代でした。外国人があたかも日本語を話しているかのように完璧に日本語をあてている(業界用語で “voice acting” すること)声優さんの仕事は「職人芸」だと子供ながらに感じました。特に 『Be Witched(邦題:奥様は魔女)』 の主役のエリザベス・モンゴメリの声をあてていた北浜晴子さんの、上品で、しかもオーラのある美しい声と日本語には「こんな風に話せたら」と私の子供心に憧れを植えつけました。後に私が声優になり、北浜さんとお仕事でご一緒し、さらに帰りの電車で2人で話せた時には「女神様の声」を独り占めできたような感動でした。マイクを通さなくても、普段からこんなすてきな声なんだと。

また、私の中学時代から高校時代というのはラジオの深夜放送の全盛期でしたね。つらい受験勉強の時代、みんな「ラジオとお友達」でした。私は「レモンちゃん」と呼ばれていた落合恵子さんという DJ(ラジオ・パーソナリティ)が大好きでした。彼女の声、そして彼女の何気ない言葉を通して、内面から溢れる魅力が十分に伝わってきました。彼女は放送作家の力を借りずに自分の言葉で話していたことも大きかったと思います。軽やかな羽のように話す DJ でした。栃木県出身の彼女がアクセントの違いにとても苦しんだという取材記事を読んで「え~っ!こんなに完璧に話せる人でもすごい努力をしたんだ。私もがんばろう」と励まされたのを覚えています。私も幼い頃に東京から福島に引越したためにアクセントでは本当に苦労しました。大学の放送研究会で先輩から一語一句直され、笑われ、半年以上まったく話せなくなった暗い時期があったんですよ。金田一春彦先生の 『日本語アクセント辞典』 をバイブルのように持ち歩き、人と話をしている時にもしょっちゅう「正しい標準語」を確認してました。でも、これは私だけではなく、言葉を生業としていこうと思う人なら誰でも最低限必要な努力だと思っています。

声の仕事への階段

大学時代は洋画の魅力にはまり、映画を創る仕事もいいなと思ったこともありますが、アナウンス学院に1年ほど通ううちに声の仕事を少しずついただけるようになりました。ウルトラマン・ショーのお姉さん、ヤマハの子供ショーや水族館のショーの司会などを通して、子供たちの前での舞台度胸をたくさんつけてもらいました。子供は正直ですから、つまらなかったらおしゃべりをしたり走り回ったりてしまいます。ですから、自分のテンションを子供以上に上げて「ねえねえ、これからめちゃくちゃ面白いショーが始まるよ~!ほらみんな!行っくよ~!」と!びっくりマークのオンパレードの雰囲気で明るくはっきりテンポよくショーを進めていきます。あの日本の猛暑の中、デパートの屋上で40分間、完全燃焼するわけです。私はまだ良かったのですが、炎天下にゴム製の衣装を着なければならないウルトラマンや怪獣役の男性たちは大変にお気の毒でした(笑)。ショーが終わった楽屋にはウルトラマンと悪役がしばらく仲良く床に伸びてるわけですから。

大学2年生の時、ビクターと文化放送主催の「アマチュア DJ コンテスト」に応募しました。これは自分で放送原稿を書き、好きな曲を1曲紹介するという DJ コンテストで、毎月月間チャンピオンが一人ずつ選ばれ、1年後には1位と2位受賞者24人の中から年間グランプリが選ばれるとになっていました。私はある月の2位でした。1位にどうしてなれなかったんだろうと、悔しさが残りました。「顔のせいかなあ?」「審査員はどこで1位と2位の差を決めるのかなあ?」と。

それからは毎月コンテストを見に行きました。そこで、1位に選ばれる人の共通点に気づいたのです。しゃべりの「うまさ」だけでなく、しゃべりの内容に人の心をがっちりととらえる「何か」が大事なのだと。一年後、私は合計24人の中から年間グランプリに選ばれました。ご褒美は、ビクターが発売したばかりの大きなステレオ・システム・コンポ、そしてラジオ番組への出演。その頃に、心のどこかで「しゃべりの仕事畑」に将来入っていけるかもしれないというかすかな自信を持ったのだと思います。その後、ナレーションの仕事が少しずつ増えて、海外にいる子供たちのために文部省が作っていた通信教育用テープの教科書朗読と進行役のナレーションのお仕事を10年以上させていただきました。自分の声が地球の裏側にいる日本人の子供たちにとって大事な教材なのだと知って、大きな責任とやりがいを感じた仕事でした。少しずつ少しずつ、自分の「やりたいこと」が「やれそうなこと」に変わっていきつつあった頃だと思います。

就職難からプロの声優へ

私が大学4年生の頃の女子学生はひどい就職難でした。放送局の募集も極端に少ない年で競争率は3千倍以上。受けた3局すべて2次や3次試験で不合格。岩手に重役面接までいった局がありましたが、私の中でどうしても「東京」という自分の生まれた場所への憧れと執着がありました。

そんな時、ヤマハの子供ショーでゲストにいらした落語家さんが「君は声がかわいいんだから、声優さんになればいいじゃない。知り合いに声優さんがいるから紹介してあげるよ」と言ってくださったのです。「声優ですかぁ?え~っ!マンガの声?ん~、あぁ、洋画の吹き替えもあるかぁ!面白いかも!」と、声優の仕事のイメージが「アニメーションの声」ではなく、大好きな映画の女優さんの吹き替えができるとういうイメージに膨らんだわけです。もちろん、その頃宇宙戦艦ヤマトが大ブレイクし、アニメ声優ブームの真っ盛りだったなんて知りもしませんでした。ただ単純に、「いいかも!私、好きかも!」と。

そんなわけで、毎日いろいろなアニメスタジオを見学する声優修行が始まったわけです。毎週見学していたスタジオではジャッキー・チェンの声の石丸博也さんがヒーローを演じていて、なんて迫力ある声の演技なんだろうと感動し、舞台出身の俳優さんが実は声優の仕事もしているのだと知りました。後にその相手役をやれる日が来るなんてことは、当時は想像もできませんでした。そして、俳優養成所にも通い始め、ひたすら舞台の稽古・歌・踊り・殺陣など、今までやったことのない役者としての体を使った訓練を受けました。

そんなある日、同期生の一人が、「ニッポン放送でアマチュア声優コンテストがあるよ。受けてみたら」と勧めてくれたのです。でも、締め切りは明後日。自宅で昔話のナレーションを録音し、締め切り2時間前に放送局の受付に持って行って、間一髪間に合いました。実は弟が高校放送コンテスト全国大会に番組制作で入賞するなど編集が得意だったので、私のナレーションのいいところだけをつないで仕上げてくれたんです。おかげで決勝十人に残りました。東京の九段会館で行われた決勝大会。今度は舞台での公開放送審査。そこで幸運にも男女一人ずつの新人声優として選ばれ、プロへの道がスタートしたのです。総応募者数は3千人だったそうです。

声優の仕事、キャラクターとの出会い

誰にでも自分の人生や意識を大きく変えてくれる出会いが必ずあります。声優の場合に例えていえばどんなにいい声をもっていても、どんなに演技力や喋りの実力があっても、必ずしも人気声優になれるという保証はありません。ファンの間で人気の出る「キャラクターとの出会い」が必要なのです。私たちはあくまでもテレビや映画に登場するキャラクターや俳優たちの陰の声だからです。アニメーターが作り出すキャラクターの魅力は絶大です。だからこそ難しい。その理由は、コミックや SF 小説のオリジナルを読む読者は既に声のイメージを無意識に作り上げているからです。

私たち声優にとってこれはものすごいプレッシャーで、オーディションのお知らせが来たら本屋に走り、原作を読んでそのキャラクターの性格や話し方、笑い方、泣き方、怒り方を研究してから臨みます。百人単位の声優が受けてたった一人しか勝ち残れない。その上もし声がファンのイメージとかけ離れていたら、「何であの声優を使うの?ぜんぜんイメージに合わない!」なんてお叱りの声がテレビ局や制作会社にがんがん届きます。だから必死なのです。と同時に、大ブレイクするとすでにわかっているアニメのヒーローやヒロインの声の仕事を幸運にもつかむことができれば、声優としての人気は急上昇。皆さんもおわかりのように、日本の漫画家やイラストレーターたちが描くキャラクターたちは個性的で魅力的で「こんな人が現実に自分のそばにいたらいいのになあ」とまで錯覚するような主人公がたくさんいますよね。めちゃくちゃ感動してしまうコミックだって少なくありません。日本の漫画やアニメは世界的に類を見ない秀逸な文化です。

『クラッシャージョウ』 のアルフィンとの出会い

私の声優人生にとって大きなチャンスを与えてくれたのが、『クラッシャージョウ』 という劇場用アニメーションでした。今でもファンの間で「時代を超えた SF アニメの最高峰」と言われているそうです。それもそのはず 『クラッシャージョウ』 は高千穂遥原作のベストセラー・シリーズで、表紙と挿絵は「ガンダムの人気は彼のキャラクターによって生まれた」と言われる安彦良和さん。その安彦さんが監督・脚本も手がける劇場用アニメなわけですから、誰もがその主役をやりたがっていました。

新人の私にとってすごくラッキーだったのは、オーディションの条件が「主役2人は今までにヒロインをやったことのないフレッシュな声優」だったこと。そしてプロデューサーが、「脇を大ベテランの声優陣で固めて最高のキャスティングで仕上げたい」と考えていたこと。

1983年当時、私はまだヒロインをやったことのない “ホヤホヤの新人” でした。オーディションを受けた後は、自分の部屋の壁に雑誌ですでに特集されていた人気ヒロイン・アルフィンの絵を張って「受かりますように」と、本当に毎日手を合わせていました。そしたらなんと幸運にもアルフィンの声に抜擢されたのです。

『クラッシャージョウ』 は、私が想像していたよりはるかにすごい人気作品で、どこのイベントに行ってもたくさんのファンが徹夜で並んで私たちを待っていてくれました。それから、アルフィンは私の声優人生を大きく変え始めました。アルフィン人気を追いかけるように、洋画の主役の仕事が舞い込みました。ジャッキー・チェンの映画では女優のマギー・チェンの吹き替えを何本もやりました。洋画のシリーズものは、『ラブボート』 のローレン・ティウス、『ゲッツ・スマート』 のヒロイン99号、『Chips』 の紅一点キャシー、『サーティーサムシング』 のエミー賞受賞女優パトリシア・ウィティグ。アニメは 『マクロス』『オーガス』。ラジオは深夜放送でのアニメ生放送番組、ラジオドラマ、そして音楽番組の DJなどの仕事をさせてもらいました。アルフィンというキャラクターとの出会いが、私の声優人生に大きな宝箱を運んでくれたと感謝しています。みなさん、チャンスがあったら 『クラッシャージョウ』 の DVD や原作本をぜひ!おもしろくて、迫力満点です。

「美しき」仕事人たちとの出会い

日本が世界に誇る文化やテクノロジーの数々は、「仕事が人生」と考えている日本の仕事オタク族が支えてきたと私は理解しています。私たちの業界もその例に漏れず、「美しき」仕事人がたくさんいらっしゃいます。「美しい」という形容詞をあえて仕事人たちに使いたいのは、彼らが、お金や名声などを超えた「こだわるという美学」を持って仕事をしているのを知っているからです。

その中の一人が安彦良和さん。私は人間的にも仕事人としても深く尊敬しています。安彦さんは、「ゴッドハンズ」と呼ばれる業界のお宝のような方なのに、いつも謙虚で穏やか。でも仕事と自分に対してはとても厳しい方です。私はここアメリカに来てまでも大事な時に生き方を教えていただいています。数年前、私がアメリカで仕事をしていきたいという話を電話でした時、「何か新しいことをしなさいよ」と繰り返しおっしゃいました。でもその意味がその時はわからず、翌年にまた安彦さんと電話でお話しする機会があった時、「自分が病気をしてから、いい若い人たちを育てていくこともやっていかないとと思ってね」と言われました。安彦さんが殺人的なスケジュールの合間を縫って神戸芸術大学で学生たちにアニメーション学を教えておられると聞いて、ようやくわかったのです、「新しいこと」という意味が。「今までは自分のための人生だったけど、これからは若い人たち、日本語を磨きたい人たちに、自分がプロの業界で学んだことを伝えていけばいい」のだと。

アメリカに渡ってからずっと、「英語、英語、英語、アメリカでは英語で生きていかなくては!」と頭から思い込んで、壁にぶち当たり粉々に砕け散っていた私にとって、目からウロコでした。安彦さんの言葉は、私にさりげなく人生の方向指示器を示してくれました。「長年プロのフィールドで学んだ最高の日本語を提供していこう!」そんなわけで、「日本語エキスパートクラス」を新しく2007年にスタートさせたのです。最高のバイリンガルたちを育てる、それがゴールです。

日本語について、日本人としてのアイデンティティ

アメリカに来てから、日本人というアイデンティティを、私はとても誇りに思うようになりました。日本人の大きな特徴のひとつは、何か大きなことをいったん目指したら最後までわき目も振らずやり遂げる民族だというところにあると思うのです。オリンピックで日本がマラソン大国だというのもうなずけるよう気がします。苦しい時を乗り越えて、劣等感を逆手にとって最後に世界の頂点に立つすばらしい日本人のなんと多いことか。アートでも映画でもファッションでもスポーツでも科学でも化学でも医学でも、そしてテクノロジー分野でも・・・。テレビ番組だってアメリカの番組よりずっと面白いし、細工が細かい!小さな日本が、外から見るととても大きく見えてきます。

バイリンガルを武器にするには

そんなエキサイティングな国、日本でバイリンガルという特技を生かし働きたいと思っている人たちはたくさんいます。そこで、「こんなバイリンガルがほしい」と、日本の放送局、およびカリフォルニア州の日本語放送局、日本の声優の事務所の社長などから伺ったことをご紹介したいと思います。

「磨きをかけたバイリンガル」は最高の「武器」。でも、中途半端な武器では、今の日本でもアメリカでもプロの仕事場では通用しません。2~3年の短期留学生、および帰国子女は現在日本に山ほどいるからです。仕事として「使える英語」を提供でき、日本語も仕事の態度もきちんと「仕事モード」になれること。怪しい敬語を振り回すよりも、「心と態度の伴った丁寧語」をきちんと使いなさいと、私は若者に教えています。また、日本語アクセントの強い英語の場合、ニュースキャスターや英語のナレーターとしては米国ではもちろん日本でも敬遠されてしまいます。

また、これは私の意見ですが、アメリカに英語の勉強に来たにも関わらず、語学の厚い壁に挫折して日本人とばかり付き合っているようでは根性が無さ過ぎます。苦しくても、寂しくても、とにかく努力し続ける。企業側は何か苦難を乗り越えた成果とその経験を会社の仕事に活かしてほしいのだと思います。また、私の講座から日本企業に入社していく生徒を見ていると、「語学+アルファ」が感じられます。自分の特技をアピールできる子、まじめさや人柄が態度や喋りからきちんと伝わる若者などは確実にチャンスをものにしていきますね。面接は命綱です。日本のある放送局の方がおっしゃっていました。「英語ができるという前に大事なことは、職場のチームワークの空気が読めること。上司に言われなくても先取り仕事ができる子がほしいんだよね。何といっても素直が一番!」 何でも思ったことは上下関係関係なく口に出す、でも実力は伴っていない頭でっかち型は敬遠されるようですよ。「注意!口に出す前に一度考えてから言葉にする。」これは大事なポイントです。また、放送局や出版社などは、急な翻訳が舞い込んできます。時間がない中でも、迅速にしかも信頼できる英語表現、あるいは完璧な日本語への翻訳ができる高い語学力が求められます。アメリカのある日本企業のマネージャーは、バイリンガルの学生インターンを評して「英語はできるが仕事はできない」なんて厳しいことをおっしゃっていますよ。職場はアメリカにあっても、日本の仕事文化モードなのだということが伺えますよね。

日本語を磨くには:言葉とは?

ではどうやって日本語を磨いていったらいいのでしょう。その前に、まず言葉って何でしょう?

声 < 言葉 < 心の表現 < 人格 < あなた自身

言葉はその人そのものです。そして、言葉はその時代の申し子だと言えるでしょう。だから「言葉は生きている」と、私はいつも実感するのです。時代や場所、業界によって、言葉は大きく変わりますよね。使う言葉も変わってきますし、新しい言葉も次々に生まれてきます。いわば環境に応じて変わっていく空気のようなものだととらえています。時間がゆっくり流れていた時代は日本本来のきれいなゆったり日本語でしたが、現代のようにテクノロジーが発達し、溢れる情報に自分たちが追いついていけない時代はしゃべりも速くなるしざらついた言葉になります。言葉が荒れている時代は人の心もぎざぎざになり、よって社会も荒れていると言えると思います。また時代の中で新しい「物」が次々と生まれていくのですから、言葉だって「創りたくなる。」携帯電話用の新しい秘密文字を創ったり、はやり言葉を生み出して世の中にアピールしたりするのはその時代に生きる人々の特権です。時代の申し子たちが使う携帯言語は便利で速くて、発想が面白い。古い大人たちには理解できないのが彼らにとっては小気味良い。彼ら独自の文化。いわば、言葉を使って彼らはストレスを解消したり、自分たちの思いや欲求を主張したりしてるのではないでしょうか。ですからその時代に生まれる言葉の文化を研究することは、時代が何に飢えているのかを知ることになるのかもしれませんよね。

ただし、いくら時代が荒れても、親はそういった荒れた言葉を極力使ってはいけません。たまに子供とふざけてギャグに使うぐらいはいいと思いますが、「大人としての日本語」をきちんと話し、またそれを子供たちに伝えていかなくてはならないという持論を私は持っています。そうしないと「これが日本語です」という指標がどんどん崩れていってしまうからです。日本語って読んでも話しても本当に、美しく奥深い言語だと感じませんか?なのに、平気で日常「うざい」とか、「消えろ!」など、聞くに耐えない言葉を子供が使っている場合は目の前に大きな手鏡を渡して「その言葉を吐いてる自分の顔は、ハンサム?それともうざい?」と、反対にその言葉を使って自分で悟らせます。汚い言葉を吐いている時や人の悪口を言っている時は、本当に醜い顔をしているものだということを、「ね、みっともないでしょ?!」としっかり確認させるのです。これは私が逆に生徒に悪魔の役をやらせるときに使う「表情から台詞へ」という方法なんですけどね。親が誠実できれいな標準語を家庭で話そうと努力していれば、いつか子供も「友達同士の合言葉のような日本語」と、大人になって仕事に使う「敬語を含むすばらしい日本語」をきちんと使い分けられるよう、知らず知らずのうちに育つわけです。家庭ではあきらめずに何度でもお子さんの日本語を直してあげてください。明るく注意です!家の外は英語圏でもあるわけですから、家庭で地道な努力がなされていかないと、上質なバイリンガルは育ちません。と、偉そうに言っている私だって、わが息子の日本語維持に毎日ばたばたしているのが現状なのです。大変な作業ですよね。そんな私のこれまでの経験から、一番効果の上がる日本語の磨き方だと思うのは「ドラマメソッド」です。仲間と協力してひとつのものを時間をかけてじっくり創り上げて行くという演劇行程の中で学べることが山ほどあります。もっと子どもたちにチームワークで創作する演劇活動に参加してほしいと思っています。日本人なんですから日本語で。台詞を覚えることによって、その言葉が永遠に体と脳に残るのです。

日本語を磨くには:言葉は心の状態を映し出す鏡

「言葉って私たちの心の状態を映し出す鏡のようなものなんだよ。」

これは私が英語、日本語両方のドラマクラスで共通して言うことです。言葉に含まれた想いって伝染しますよね。優しい言葉をかけられると自分も優しくなれる。罵声を浴びせられれば自分だって反発を感じるし、怒鳴りたくなる時だってある。言葉は実は心と心のキャッチボールなのです。

そしてこれは演劇を学ぶ際には、基本になる大事なメソッドのひとつ。台詞のやりとりは野球のキャッチボールと同じなんだと。相手から投げられたボールが優しければ優しく投げ返そうとするでしょう?相手がもっとキャッチボールを楽しみたくて、強いボールを投げてくれば、こっちもそれ以上に強いボールを投げ返して盛り上がる。盛り上がりすぎてその球が相手の身体に当たれば、相手は怒るかもしれないし、泣くかもしれないし、いいよと笑って許すかもしれない。その反応によってこちらから投げる台詞のボールはまた球質が変わってくるわけです。変えるのではなく、自然に湧き出た感情によって変わるわけです。これが大事。相手が幼い子供だったり、弱い老人や病人だったら「はい、いくよ」と、投げる目線すら変わってきます。初めの頃はよく実際にボール投げを生徒たちにやらせていました。

日本語を磨くには:具体的な習得法

では、具体的にはどうしたら豊かな声の日本語表現ができるのでしょうか。

1:標準語をきちんと話せること
これはマスコミや言葉を仕事にしたい皆さんにはとても大事なことです。テレビ局やラジオ局、声優業界は標準語にかなりこだわった採用をしています。どんなに英語がネイティブのように話せても、日本語に地方訛りがあったり英語なまりが出る場合は、敬遠されるといっても過言ではないでしょう。バイリンガルには英語も、そして日本語も絶対に大事なのです。外国で育った場合は、特に親の訛りが子供の日本語に大きく影響してきます。ただし、標準語も方言も両方話せる場合には、それは自分の特技にして誇りにしてください。

2:すべては基礎に返る
言葉はアクセントだけではなく、その基になる発音があります。簡単に言えば「あいうえおかきくけこ・・・」の基礎発音が明瞭で、人に聞き取りやすい声で発音できるか否かです。東北出身の方は、カ行・タ行・ナ行を、口をはっきり大きく開けて発音練習してください。北海道の一部と東北はほとんど平板で話すので、まずアクセントの基礎を学びましょう。関東を含む西日本出身の方。鼻濁音を習得すると、日本語が軽やかで上品になりますよ。関西の方の場合は、標準語のアクセントとは反対の言葉が多いので実は直しやすいのです。また、関西と九州の方はゆっくり話す癖をつけましょう。四国の方は語尾に独特の抑揚がありますのでご注意。近畿・山陰地方の方は音の無声化・有声化の確認が大事です。特に言葉の中に「言霊が最も宿る言語」といわれる日本語を磨いていく作業は、自分自身の人間性も磨いてくれるにちがいありません。言葉は声のトーンや使い方によって相手の気持ちを「幸せ」にできたり一瞬にして「不愉快」にしてしまったりという魔法のようなものです。この魔法の杖を上手に使って家族とも社会でも気持ちよく暮らせたらいいですね。日本語というのは奥深いニュアンスをたくさん秘めた宝箱だと感じることがよくあります。その細かいニュアンスをさりげなく表現できるようになる訓練として、「風が吹いてきた」という文を季節ごとに風の種類を声で表現してみてください。これは宿題です!

3: 読み方の練習法を工夫する
毎日、声に出していろんな分野の記事を読む練習をします。毎日です。固い内容の記事、人を癒せるような物語、面白くて笑える内容など、記事の雰囲気に合わせて読みを変えていきます。大事なのは、書き言葉は話し言葉に変えて読みやすくしてから読むことです。また、時間を区切ったフリートークの練習はプレゼンテーションに非常に役立ちますし、就職試験の際にあがらずに自分のいいたいことを言えるようになります。これも声優教室の必須訓練です。あ、大事なことは身体の柔軟体操やヨガを毎朝すること。やわらかい身体からは柔軟な声と読みが生まれます。

4:書く習慣は話術やプレゼンを上達させる
自分の文章を自分の言葉でどんどん書きましょう。書くときには誰でも言葉を考えながらじっくり吟味しますよね。その習慣は話すときにも言葉を選びながら使えるようにしてくれます。これは私がナレーションを教えるときに時々やる方法なのですが、人の書いた文章を読むのと自分の書いた文章を読む練習をさせるのとではナレーションの上達結果は雲泥の差なのです。雑誌などからの文章はたいてい書き言葉になっていてしかも長く読みにくい。でも、自分の書いた文章なら自分で声に出して読んでみるとまず、(1)書き言葉がいかに読みにくいかわかる。(2)簡潔で読みやすい呼吸で文章がかけるようになる。(3)どんな内容でどこを人に伝えたいのか何を強調して読んだらいいのかが自分で一番分かっている。この結果、朗読が早くうまくなる。もちろんいい本を読む習慣は絶対大事です。自分をひきつけた言葉は書き留めます。さらにその言葉から受け取った自分の感動や感想も付け加えてみましょう。そういう「光る言葉」は大事な言葉の引き出しにしまっておくととても便利です。声や言葉のプロと言われる人たちは声を磨くと同時に、こういう方法で魅力的な仕事を残せるように準備をします。輝く言葉や文章を使える広い語彙力というのは就職にも人間関係にも仕事にも強い味方となるでしょう。ほんと、うまく読めるようになります。

ノースウェスト最大のアニメ・フェスティバル 『サクラコン』 との関わり

サクラコンて、「人間が寝ている夜中におもちゃ箱からそっと抜け出したおもちゃたちがパーティーをするような、そんな 『おもちゃのチャチャチャ』 の歌のような物かもしれない」と、私は思っています。日本のアニメやゲームのファンには一般のティーンたちだけでなく、世界のインテリジェンスやテクノロジーを作り出す IT 関係者がいっぱい。また、アメリカに来て、ファンの中に軍隊関係者もすごく多いのにはかなりびっくりしました。いつも今日の命と対面している軍人にはおもいっきりすべてを忘れて笑う時間も、またそれとは反対に武士道のような心の落ち着きと高揚も同時に必要なのだと聞きました。なんだかその言葉に納得と感動。みんな、サクラコンの3日間は、一年に一度自分のステータスを取り払って、「おもちゃのチャチャチャ」を演じ、日ごろのストレスを発散し、また本来の学生生活や大変な職場に戻っていくのでしょう。

私とサクラコンとの出会いは、2004年にゲストとして招待されたこと。サイン会、インタビュー、パーティーへの参加などが主なゲスト声優としての仕事でしたが、私は根っからの舞台好きなので、「何か舞台でやりたい病」がむくむくと頭をもたげてきました。そんなわけで、2005年は私の生徒たちと英語のボイス・アクティング・ショーをミュージカル風に仕上げました。翌2005年は 『ポケモン』 のピカチュウや 『Naruto』 の木の葉丸、『ワンピース』 のチョッパーなどの声をあてている大谷育江ちゃんをサクラコンにゲストとして紹介し、ドリームキャッチャーズたちと共演。育江ちゃんとは 『ブレインパワード』 や、洋画 『ナイスサーティーズ』 でレギュラーが一緒でした。歌や声の演技で観客を魅了してくれました。そして2006年は私たちのボイス・アクティング・ショーにかなり固定客ができてきて舞台でサムライ式スウォード・ファイティングをやるとものすごく喜ばれることを発見。暴力はダメっていつも叫んでいる国なのに、やはりここはスターウォーズを生んだ国なんだとなんだか変な納得。私自身は当時18歳の娘と 『世界にたった一つだけの花』 を「日本のいい歌」として紹介しました。後で「とてもいい歌でした」と、ある女の子がほめてくれましたが、正直に言うと私は途中で歌詞を忘れ、一緒に舞台で歌っていた娘に「にこっ」と笑いかけたら彼女がそのソロの部分を何事も無かったように歌ってくれたという、いわくつきの年でした。「子供を産んどいて良かった」と、またまた人生に変な納得。そして、2007年。アニメの舞台ネタにつまりました。今年はやめちゃおうかなあとくじけていましたが、うちの若いサウンド・エンジニアが良い企画を思いついたと名乗りを上げたのです。それがその後全米に吹き荒れた「ハルヒダンス」の始まりでした。彼の先見の明は見事的中し、バンダイの「涼宮ハルヒ」の公式サイトに映像出演し、全米アニメコンの人気パフォーマンスグループトップ10に載りました。

「今の若い子は・・・」と、よく大人が嘆くのを聞きますが、そりゃあ足りないところもたくさんあると思いますが、一緒に働いてみるとなかなかなものです。私の仕事は若い人たちとの結びつきが無ければ到底なしえないことがたくさんあるのです。若い子たちと時間をともにできるということが、自分の人生を何倍にも膨らませてくれています。時々彼らの若さを吸い取っている「吸血鬼」みたいな気にならなくもないですが、とにかく若いということは最大の武器ですよね!

2007年、ナウシカ役の島本須美さんをサクラコンにご紹介しました。先輩であり、特別な友達。宮崎駿作品の代表のような声優さんですから、いつか絶対にアメリカのアニメファンのみなさんに紹介したいと思っていたのです。企画はナウシカ・コンテスト。ナウシカはかなり難しい役なので、参加者はみんな四苦八苦していました。実際に須美ちゃんがマイクの前でナウシカを演じると、会場からどよめきと大きな拍手が起こりました。「さすが!」本物(本当の実力ある人物)を実際に見たり、体験したりすることは、将来その道を目指す人にとってはすばらしい経験だと思います。そして、特別に日本人コミュニティへの貢献として、島本須美の声優教室を一回だけサクラコンの合間に都合してもらいました。すばらしいワークショップでしたよ。

2008年は 『ラッキーチャンネル』 という面白い DJ 風のアニメの一部を取り上げ、またまたコスプレ+ダンスをしました。たくさんの観客の嬉しそうな表情を見ながら、遠くから見に来てくれてありがとうという言葉が心からあふれてきます。さて、今年は日本からのゲストに、『幽遊白書』 の浦飯幽助役や 『デスノート』 のメロ役でおなじみの佐々木望君をご紹介しました。『らんま1/2』 のらんま役や 『デスノート』 の L 役などの山口勝平君も来てくれて盛り上がりました。勝平君のファンはみんな「あのパワフルな声が好きっ!」と言っていました。望君はヒーローをたくさんやっているベテランですが、歌が大得意なのを知っていたので、「ステージで歌ってね!」と頼んだらなんとすごい流暢な英語でステージングし、アメリカ人の観客をびっくりさせました。来年はぜひドリーム・キャッチャーズと何か面白いことをやりたいと言ってくれていますので、私も来年はもっともっと面白いことを企画して、「来て良かった!」とみんなが思えるショーを演出したいと思っています。自分の日本語を磨くこと、サクラコンでいっしょに演じることに興味のある方はぜひご連絡くださいね。一緒にやりましょう。

今回の取材で、自分の渡米してからの足跡をゆっくり振り返るチャンスをいただきました。自分では「今までもがくばかりで、いったい自分の何をアメリカ生活で残せているんだろう?」と思うことも多々あったのですが、このインタビューを終えて「君はがんばってやってきたんだねえ」って自分自身をいとおしく思えるようになりました。何も大きな飛躍はないように見えますが、一日一日を地道にがんばっていれば、こんなにたくさんの人と出会い、昔の仲間と異国で舞台をともにし、こんな私でも日本とアメリカの小さな橋渡しに貢献できているんだなと。そして、このインタビューが将来日本語を使って仕事につきたいと思っている若い人たちの何か参考や励ましになってくれれば「今夜は最高!」です。

Team Dream Catchers
【公式サイト】 www.tdcseattle.com
佐々木るんの日本語島 in USA

佐々木 るん(ささき るん)
東京生まれ、福島育ち。法政大学英文学部卒。1976年、ビクター&文化放送主催、アマチュア DJ コンテストで年間グランプリ受賞。1979年にニッポン放送アマチュア声優コンテストで特別賞を受賞したことを契機に、プロの声優としての道を歩み始める。1983年 『クラッシャージョウ』 のヒロイン、アルフィンの声を演じブレイク。以後、20年にわたり多数のアニメや映画、テレビ番組などに出演。2000年に夫の留学で渡米。2004年に英語と日本語のナレーションや吹き替え、翻訳を手がける会社を起業、現在は日米両国のゲーム会社や企業、プロダクションに多数の人材を送っている。ゲームのみならず、TOEFL、バスティア大学などとの日米間の学術的なプロジェクトにも翻訳やナレーションで参加。佐々木るん率いる 『Team Dreamcatchers』 は全米アニメコンでは人気のパフォーマンス・グループ。2007年には日本語エキスパート養成クラスを開講、「本物のバイリンガル育成」に力を注いでいる。SAG、AFTRA 正式メンバー。

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