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立石鈴太郎さん&あさこさん 和太鼓奏者&『太鼓の学校』経営

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もくじ

太鼓を始めたきっかけ

鈴太郎(敬称略):僕が生まれた三重県四日市市は、太鼓グループが町ごとにあり、頻繁に演奏されているところでした。だから僕は幼い時から太鼓の音を聴いて育ったと言えるほど、太鼓は身近なもので、小さい頃から大好きでした。でも子供会の太鼓に参加できるのは小学校1年生から。2歳年上の兄が参加しているのを羨ましく思い、ずっと我慢をしていたので、念願かなって参加できるようになった時は、本当に嬉しかったですね。

子供会の太鼓を卒業しても選抜グループで太鼓を続けていたのですが、高校入学後には、和太鼓と平行してバンドを作り、ドラムも叩き始めたんですよ。大学に入ってからはドラムでプロになりたいと、コンテストにもチャレンジしていました。でも、大学4年生でブルースのミュージシャンが集まるイベントに参加した時、本場のブルース・ミュージシャンがその大きな手、その血に脈々と流れる感性から出す音やリズム感が全然違うという現実を目の当たりにし、この人たちと同じ土俵で勝負しても、僕がドラムでかなうわけがないと痛感しました。それならば、僕が世界で通用するためにはどうしたらいいかと。そして、自分の中にあるはずの日本人の血や風土が作り出すものはなんだろうかと考えて、日本各地に昔から伝わる祭祀・祭礼だと思い至りました。それからは自分が表現できることを見つけられるのではないかと日本各地のお祭りに出かけては「何か」を探し続けました。

そして大学4年の12月末、偶然見ていたテレビのドキュメンタリー番組で、世界で活躍するプロの太鼓演奏グループである 『鬼太鼓座』(おんでこざ)を知りました。ある太鼓打ちの方を主役とした番組だったのですが、すぐにテレビ局に電話をかけて「この人の連絡先を知りたい」と頼むと、意外にもすんなりと教えてもらえたのです。興奮して、早速その方に電話をしたところ、「鬼太鼓座に2日後に行くから一緒に行くか」と誘っていただき、あっという間に熱海にいた鬼太鼓座を訪ねることができました。卒業間近の大学を中退してでも今すぐに入りたいと懇願する僕を、創設者の田耕(でん・たがやす)氏が押しとどめ・・・気もそぞろに単位を取って卒業した後に、ようやく鬼太鼓座に入座しました。それからの10年間は世界各国、日本各地を太鼓と共に渡り歩き、26カ国で千回以上の公演を行いました。今も不定期に日本国外での演奏を中心に鬼太鼓座に出演しています。

鬼太鼓座では、『走楽』(そうがく)という田氏の理念の下、朝、夕それぞれ1時間ほど走りこんだ後、太鼓の練習を行います。太鼓を多く練習するというよりも、漢字の書き取りや習字、本読み、映画を観ての感想会などの活動に重きが置かれています。これらはすべて太鼓につながっているんですよ。まず、太鼓をやるには日本の太鼓というのが何なのかをわかることが大切だと。それには日本の歴史を知り、自分が何なのかということをわかる必要がある。「本当の日本」なんてないかもしれませんが、「日本」「日本人」ということを知ることが必要だというのが田(でん)氏の考えです。著名人など経験を多く積んだ方々からの話を聞く機会も多く作ってもらえました。僕は「これが本当の意味での大学だ」と感嘆しました。そして日本や中国、ヨーロッパなどを数ヶ月かけて演奏しながら旅をする。習慣や文化、景色などの違いを見ながら、自分を磨いていく。その時、相手と話すためのツールが太鼓、日本の音楽。それが鬼太鼓座のスタイルなんですよ。このようなスタイルでの太鼓の普及をこれからもやっていきたいと思っています。

あさこ(敬称略):私が太鼓を始めたのは、結婚してアメリカに来てからです。音楽は子供の頃から好きで、小学生から洋楽を聴き始め、高校に入ってからはエレキギターとドラムを演奏していました。上京して東京各地のライブハウスで演奏していたこともありましたが、20代後半に三重県に拠点を戻し、モータースポーツの実況、イベント・コーディネーターなどの仕事をするようになりました。そこで鬼太鼓座の四日市公演のコーディネート業務を請け負い、初めてプロの太鼓グループに出会ったわけです。

でも、太鼓というのは、私にとっては「幼い頃から町の太鼓グループで練習をしてきた人が、大人になっても続けているもの」というイメージしかなく、また、イベントで出会う太鼓グループには気軽に参加できる雰囲気がなかったので、自分が太鼓を演奏する、ということは一度も考えたことがありませんでした。その後、「二輪ロードレースの最高峰カテゴリである WGP(現 Moto GP)や F1、NASCAR などの国際レースのピットレポートを通訳なしでやれるようになりたい」と思いアメリカ留学の準備を始めましたが、その最中に、まぁ・・・貴重な出会いがあり、結婚・出産という、予想外の展開になりました。

そして、育児も少し落ち着いたところで、鈴太郎さんの「日本国外で日本の太鼓を広めたい」という思いと渡米したい自分の希望を叶えるべく、米国での受け入れ先を探すことに。ビザの発給などがスムーズに行かなかったことなどもありましたが、アメリカ行きの可能性が色濃くなったとき、「1歳の子供を連れた私にできることは何だろう」と考え、「世界共通言語である音楽!日本人として邦楽の分野がよいはず。」と、ギターの流れから興味のあった津軽三味線を習得することにしました。なかなか先生が見つからなかったのですが、フロリダへ移住する前の数ヶ月間、四日市でお稽古を受けることができたのは幸運だったと思います。

津軽三味線が珍しかったことから一座のあちこちの演奏に連れて行っていただきましたが、10ヶ月目ぐらいに「せっかくだから、太鼓を始めてみれば?」というお話をいただきました。ディズニー・ワールドの EPCOT での鈴太郎さんの太鼓演奏を毎日のようにストローラーを押しながら観に行っていたことで太鼓はずいぶんと身近なものになっており、また、チームの平均年齢が高く、子供のいる女性が多かったことから、躊躇なく練習に参加し、EPCOT での演奏にも出演することができるようになりました。もし、チームから誘ってもらっていなくても、いきいきと演奏する同年代のお母さんプレーヤーの方々に魅力を感じて、自分からお願いしていたと思います。

邦楽器を演奏することで、子育て一辺倒の異国での暮らしがずいぶんと楽になったと思いますので、太鼓の学校に来られるお母様方にも、ぜひ、ご自分を解放したり、取り戻したりしていただくための方法のひとつにしていただければ嬉しいです。また、年齢に関係なく、思い立ったら始めていただきたいですね。私は太鼓の経験はまだ8年ほどと決して長くはありませんので、太鼓の基本的な指導はもちろんですが、太鼓の学校の運営、あるいは、チーム作りという面で、私のこれまでの経験を活かせれば、と思っています。

太鼓への取り組み方について

鈴太郎:太鼓や弦楽器は、誰でも弾けば音は出る。でも「美しい」「いい音だ」と感じる心に響く音が出せるのは、少しのタッチの仕方の差と、積み重ねた人生での経験だと思います。感動を与えることができるのはやはり日々の稽古の先にあるプロのタッチです。そこを突き詰めるために稽古があるのだと、太鼓の学校で話しています。

あさこ:私が思うのは、上級になった方、あるいは、それだけの情熱と向上心がある方には、長い経験から得た結果をいとも簡単に聞いてしまうのではなく、ご自分で考えてみてほしいということです。でも、アメリカではそのようなことを要求するのはちょっと難しいように感じます。挑戦すること、失敗すること、自分で選択することが当然のアメリカは伸び伸びと生きていきやすいように感じますので、その良さは取り込みたいと思いますが、安易に習得したものは、それを考え出した人、考え出された物に対する敬意が少ないですよね。それでは、拡げることはできても、質を高めること、魅力を増すことは難しいのでは、と思います。

シアトルを選んだ理由

鈴太郎:アメリカを視野に置いたとき、アトランタ、サンディエゴ、シアトルが候補でしたが、一番良いのはシアトルだと考えていました。鬼太鼓座の仲間と共にアメリカを3年かけてマラソンしながら演奏した際に、それぞれの土地の方々と交流し、土地の雰囲気を感じた結果、シアトルが一番しっくりきたからです。

また、太鼓を使って自分流のエンターテイメントを作り出す、その出発地点としては、シアトルが一番いいと思いました。マイクロソフトやスターバックス、コスコなど、新しく何かを生み出す、新しいビジネスを生み出しているのは「シアトル」とよく言われますね。僕たちがパッと入ってきても歓迎してくれる、そういう土壌があると思いました。

しかし、なんと言ってもシアトルの青空は世界一です。もちろんどんよりと曇った日が多いので有名ですが、その雨が上がったときの大空は透き通っていて、そこに富士山(マウント・レーニエ)があればもうサイコー。今この富士山の見える稽古場も探しているところです。

太鼓の学校について

鈴太郎:旅先での出会いではなく、一ヶ所に腰を据えて太鼓を広めたいという、以前からの念願がかなって始めた太鼓の学校ですが、クラスや演奏で一番大切なことは、日本文化を広めていきながら、国を超えての相互理解を深めていくことに繋げていくことだと考えています。また、太鼓をすることによって自尊心が持てるよう、人前で披露でき、評価を受けられる機会があることが大切だと思います。

生徒の子供たちが通う学校で演奏した時のことです。僕たちの演奏が終わった後、その子供たちに「やるか!?」と、一曲演奏してもらったんですよ。音が鳴り始めると、グラウンドのあちらこちらで遊びに戻っていた子供たちがまた走り寄ってきて、真剣に見ていました。その後、友達の自分を見る目や会話が違ってきて自信につながったそうです。もちろん、クラスに参加している生徒さんたちには自分に自信を持つ機会は他にもたくさんあると思いますが、太鼓もそのひとつになりえると思います。

また、太鼓を介して、さまざまな人との繋がりができ、可能性が拡がっていくという面もありますね。シアトルのブライアント小学校で始めたクラスも、生徒さんの一人の積極的な働きかけで始まり、今では25名ほどの生徒さんが太鼓を楽しんでいます。また、東日本大震災の際には、このブライアントで4月に、太鼓の学校全体とクラスを貸していただいているベルビューカレッジさんとの共催で5月にベネフィット・コンサートを開催することができました。

そして、一番大切なのは、僕たちの教室で小さい頃から太鼓と関わり続けた子供たちが次の時代の太鼓文化を牽引していく、世界で認められるような音楽が創り出せるような、次世代の担い手を作っていくということです。今でも和太鼓は世界で認められつつあり、多くの国にチームや同好会が発足していますが、それがもっと発展すれば、太鼓は世界の中で “音楽のジャンルのひとつ” として確立していくことができる。そのような数々の可能性を信じて活動していきたいと思います。

今後の抱負

あさこ:太鼓を広める、よい演奏を提供するという活動を通じて、太鼓だけではなく、日本の文化の魅力、日本人の持つ精神性の高さなどを知ってもらい、日本という国に興味を持っていただきたいですね。これは、私の場合には海外で暮らしてみて始めて強烈に実感したことですので、日本の中では、それがどれほど質の高い貴重なものであるかということは気がつきにくいとは思いますが、きっと海に囲まれた国ならではの、純粋に培われたものがあるのだと思います。

将来的には、アメリカで太鼓を習い始め、アメリカで創り上げた子供たちのチームが日本で演奏をすることによって、演奏する子供たち、演奏を聴いた日本国内の子供たち双方に、改めて自分自身と自分の国に対しての自信と誇りが強まることになるような活動もできれば、と思います。その第一歩として、子供だけのチームを編成して活動を始める予定です。

もちろん、楽しみながら太鼓を練習し、演奏すること、新しい人生の悦びを創り出すことが最も大切なこと。仲間作り、エクササイズ、音楽のひとつとしてなどの個人個人の楽しみ方を尊重し、そのような日々の活動の先に、「太鼓叩いて人様寄せて」- 遠くへ響き渡る大きな音の出る “太鼓” ならではの結果がついてくれば、と思います。

立石 鈴太郎(たていし りんたろう)

三重県四日市市出身。1989年の大学卒業直後に鬼太鼓座に入座し、以後1999年までアーティスティック・ディレクターとして世界26カ国において1,000回を越す劇場公演で演奏。1990年から1993年には全米を3年間かけてマラソンで一周しながら公演するという、 前代未聞の 『アメリカ一周マラソンツアー』 を完走。カーネギーホールで4度にわたり演奏し、中国大陸横断マラソン・ツアーも実現。サザンオールスターズ、渡辺美里、五嶋みどりとも共演し、公演の間には各国の学校での公演も行った。2002年、あさこ氏とともに渡米。2003年からフロリダ・オーランドを拠点に活動する祭座に加入し、ウォルト・ディズニー・ワールドの EPCOT での連日の演奏を主として、全米各地で演奏。2009年にシアトルに引越し、『太鼓の学校』 を創設し、現在に至る。

立石 あさこ(たていし あさこ)

三重県津市出身。鈴鹿サーキット、ツインリンクもてぎでのオフィシャルレース実況アナウンサーなどモータースポーツレース実況・ピットレポートを中心に藤原紀香・渡辺えり・光野桃各氏とのトークショーや各種イベント MC、企画コーディネート業を経て、2002年、鈴太郎氏とともに渡米。2003年からフロリダ・オーランドを拠点に活動する祭座に加入し、ウォルト・ディズニー・ワールドの EPCOT での演奏を主として、全米各地で演奏。2009年にシアトルに引越し、『太鼓の学校』 を創設し、現在に至る。太鼓・津軽三味線・篠笛・琴を演奏する。

【公式サイト】 太鼓の学校Japan Creative Arts

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