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「回り道は、たぶん、あなたにとっては人生の一番の近道」シアトル大学芸術学部デザイン学科教授・嘉住直実さん

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嘉住直実さん

シアトル大学芸術学部デザイン学科教授・嘉住直実さん

2019年8月、福島市で開催された東日本大震災の犠牲者の鎮魂と地域の再生を願う『未来の祀(まつ)りふくしま』のアートイベント『ARTQQQ』について報じた福島民報の記事で、シアトル大学の嘉住直実教授が学生とともに参加していることを知りました。市民も参加する制作活動を福島で展開すること、留学し、教授になるまでのことなどについて、嘉住教授にお話を伺いました。

ひょんなことから、プロのスキー選手に

幼いころから美術や体育などの実技は得意、でも勉強は苦手というタイプでした。高校受験を考えるときになって、「君みたいな人には公立がぴったり」と先生に言われたのですが、みんなと同じ道を行くのはどうなのかと考えて、ミーハーにも「学園」がつく名前に惹かれて京都家政学園高等学校を選びました(笑)。

京都家政学園高等学校には美術コースをはじめ、いろいろなコースがあったのですが、私の家族は公務員ばかりなので、「美術なんてとんでもない」。そんなわけで、当時は美術を考えることもありませんでした。

その後、佛教大学に入学し、スキー部に入りました。スポーツ推薦で入学した部員もいて、全国大会にも出場するチームだったのですが、私は負けん気が強いので、トレーニングも走りこみもし、クロスカントリー選手になって、2年生の時には全関西大学スキー選手権大会で優勝してしまいました。

それから、同志社大学スキー部がスウェーデンでやっていたトレーニングに参加させてもらう機会にも恵まれ、初めて海外に出ました。でも、11月に雪がある場所に行って早期トレーニングを開始する目的だったので、それで海外に出たいと強く思ったわけではないですね。

そんなとき、京都の実業団のヘッドコーチに声をかけられました。スキーを19歳で本格的にスタートした私は、「これからも伸びる」と思われたのでしょう。「プロでいられるのは女子では25歳までと考えると、今22歳で3年間しか選手生命がないのに、スキーをやる意味はあるのか」と悩みました。でも、20歳のころに出会った大阪の広告代理店社長で恩師に相談したところ、「雪国出身でスキー選手になりたくてもなれない人はたくさんいる。選手生命が短いから今やらない?自分がそう考えているから、25歳で選手生命が終わるんだろう。一生にあるかないかのチャンスだから、よく考えろ」と言われたのです。当時、日本はバブルがはじけた直後で、4年制大学卒業の女性は就職先がまったくと言っていいほどない厳しい状況でした。それもあって、いろいな人に励まされ、実業団に入ったのです。

プロと学生の大きな違いを実感

でも、プロと学生の違いは大きかった。学生のときは自分がやりたかったからやり、やればやるほど伸びて、無敵でした。でも、プロは追われる立場で、どれだけトレーニングしているか、どれだけ速く走ったか、そんなこととは関係なく、勝たなくては意味がありません。当然、「私が勝って、会社の名前が新聞に載る」ということが期待されます。会社はそれだけのお金を出してくれている。「金を出してやってるんだから、勝て」と。これがプロの世界か、と、世間知らずで甘く考えていた私にはガツンと来ました。

精神的にきつい環境にも耐えながらがんばりましたが、バブルがはじけた影響で会社の経営がいよいよ厳しくなり、2年目にスキーチームの予算が削減されると、選手としてのトレーニングに集中できなくなったので、スキーを辞めることにしました。でも、本当はスキーを辞めたくなかったので、気分がとても落ち込んでしまったのです。もともと体育会系なので、「やらねばならないことは、やらねばならない」と社内のオフィスワークをがんばっていたのですが、勤務中にも体調が悪くなることがあり、会社に行くのがとても辛くなってしまいました。

「このままでは自分がつぶれてしまう。親の家に住んで、家賃と食費を親に払って、毎日悶々と通勤して。そこに私の人生はあるのか」

「何もかもなくしてしまいたい。まったく違う環境、私のことを誰も知らない環境に行きたい」

そんなことを考えていたある日、たまたま降りてみたバス停の前に本屋がありました。何の気なしに入って、ぱっと目についたのが留学の雑誌。何を考えていたのかわかりませんが、それをぱっと買いました。

リセットとしての留学

嘉住直実さん

『MEM: memory・memorial no.12 Moksha』

それからその留学の雑誌をむさぼるように読んで、留学しようと決めました。リセットという感じですね。

最初はカリフォルニア州を考えましたが、学費や生活費が高くて無理だったので、自分が出せる範囲だったオレゴン大学の語学学校(AEI: American English Institute)に行くことに決めました。そして、入学する手続きをして、自分の貯金とスーツケースだけで来たのです。

当時は英語もできなかったので、英語学校からのスタートです。クラスメートは有色人種がほとんどで、みんな絵を描いて気持ちを伝えたりするという、まるで洞穴に住んでいる原始人みたいなコミュニケーションをしていました(笑)。中国人とはもちろん、漢字で。私にとっては、その英語学校でのスタートがよかったと思います。一生懸命に勉強して、どんどん英語ができるようになり、知識がどんどん身について、本当に毎日が楽しかったです。お金も限られていましたから、”I have to make it” という気持ちでした。
アートの勉強をしようと思ったのは、前述の広告代理店の社長が紹介してくれたデザイナーに会いに、ニューヨークに行ったのがきっかけです。その人は日本ではすでにプロのデザイナーでしたが、もっと勉強するために、ニューヨークに来ていたのです。「コピーライターになりたいので、コミュニケーションの学部に入りたい」と伝えたところ、「何を甘いことを言ってるんだ」と言われました。打たれ慣れている私は、自分は甘いんだと、改めて知る気持ちでした。

そこで「英語が苦手な人間が花を咲かせられるところは何ですか」と聞いたところ、「アートじゃないの」と。その方は技術も能力もあって、技術のないアメリカの学生よりは先を走れていたから、そういうコメントが出てきたと思うんです。私はそれを単純に真に受けて、「そうか」と。厳しいことを言ってくれるのはありがたいですよね。そういう人はそうそう現れません。

人生を変える出来事 オレゴンからニューヨークへ、そしてニューヨークから再びオレゴンへ

嘉住直実さん

『MEM: memory・memorial no.11 mandala & no.8 scriptorium』

そしてオレゴン大学からニューヨークの大学に編入しましたが、行ってから、「ニューヨークに行けばデザイナーになれる」「ニューヨークにいることはかっこいい」、そう思っている自分に気づきました。そして、アートの勉強はロケーションじゃないことにも気づいたのです。それよりも、その場所がどれだけ自分を生き生きさせるかが鍵なのですね。

いいものを見たいなら旅行でできる。情報はインターネットがあれば集められる。なぜ私がニューヨークにいなくてはならないのかを考えたとき、その理由が見つからなかったのです。

そんなとき、交際していた人の子どもを妊娠し、さらにその交際相手が私の親友とも同時に交際していたとことを知ってしまうという、私の人生を変える出来事が起こりました。その出来事で私は本当に崩れてしまいました。死にたいとまで思うようになってしまったので、夏休みにオレゴン州のホストファミリーのところに戻ったのですが、その時に受講したブックアートや手作業のあるクラスの先生たちとの出会いで、人生の軌道修正をするきっかけができました。そのとき、「あ、ニューヨークを去ろう」と自然に思いましたね。そして9月にはオレゴン州でまた大学に行き始めました。

ニューヨークにいたのは半年だけでしたが、自分の甘さも弱さも知り、そんな人生を変えるような出来事があったおかげで、自分がその時いるべきだった場所に戻ってこれました。そして、オレゴン大学でそのときの自分のすべてをさらけ出したインスタレーションの卒業作品を作ったのです。その作品の中で、痛み、苦しみ、悲しみ、産んでやれなかった子のお弔いと謝罪の気持ちを表現し、追憶(メモリアル)のための空間を創造しました。その作品によって教授に推薦され、オレゴン大学の大学院に入学しました。

今もそのメモリアルの作品を作り続けているのは、自分の亡くした子の弔いを続けていくと1999年に心に決め、それが、私がせねばならない罪の償い(apology)であり責任(供養)であると思って今に至るからです。結果的にそれが自分の心の癒やしと立ち直りになってきました。

オレゴン大学で学士号と修士号を取得して卒業し、そのままデザイン学科の講師として就職しました。その後、なんとかアメリカに残ろうと、アメリカ中の大学に応募したのです。ニューヨークのカンファレンスで面接を受けたシアトル大学のみなさんのエナジーがとても自分にあっていたので、数回の面接に合格して採用になったときはうれしかったです。そんなわけで、2003年からシアトル大学で教えています。

また、インスタレーションアーティストとして活動しており、どこででも作品を展示できるのですが、場所が作品を、作品が場所を選びます。お寺で展示したこともありますが、その時も場所が呼んでくれました。私が作ったというよりも、私は大きな力に使われているだけで、その大きな力が何かを訴えるために私が作らされているんだということを感じます。よく私は自分の来た道を振り返るのですが、作品がそうさせるのだと思います。

「すべての経験は、教育者になるためだった」

振り返ると、とてもドラマチックな人生を歩んできたと思います。私は、明かりがあると、それだけを見て向かって走ってしまい、経験を積まない、迷わない、手探りを経験しない、失敗しない、何でもそこそこうまくいってしまう。でも、そんな明かりがない状態で、真っ暗な中で、何かを求めて手探りで歩いてきて、いろいろなところで迷って、回り道してきました。

そのおかげで、人の気持ち、人間の弱さ、命のはかなさを知り、自分が今まで思ってもみなかったことを経験して、たぶん、前よりあたたかみのある人間になってきたと思います。その経験を避けるために安全圏にいたら、今の私はいなかったでしょう。気長になった部分があり、答えはひとつではなく、いろいろな人生があって、「プロも人間だ」と考えられるような、人生の深みや厚みを学ばせてもらいました。

振り返ってみると、教育者になるには、それが必要でったのですね。痛みや苦しさがわかる。苦しんでもがいている状況がわかってあげられる。外国人であるがために、なかなか自分の意思を伝えられないという気持ちがわかる。差別やいじめを受けてもそこでどうやって強くいられるかを教えてあげられる。それを生徒に伝えてあげられる立場になるように、セットされていたのではないかなと思っています。

東日本大震災の被災者のための鎮魂の作品

嘉住直実さん

『sarit: flow of compassion』

東日本大震災が起きた2011年3月、私はインドで肺炎を起こし、その後、合併症の敗血症で、ICUに入院していました。震災の被害の状況がどんどんわかってくると、「あんなにたくさんの人が亡くなってしまったのに、どうして私は生きているんだろう」と思い、しだいに「自分は生かされたのではないか。私が何か役に立てることがあるのではないか」と考えるようになったのです。

震災で亡くなられた方々の苦しみや、被災され、家族を失った方々の苦しみは、自分がこれまで経験した苦しみとは比べ物にならないと思っています。ただ、東北は日本での学生時代にスキーで何度も訪れた所で、友人、先輩、後輩がたくさんいる、個人的に繋がりのあるところなので、震災の光景をテレビで見た時は本当になんと説明すれば良いのかわかりませんが、胸をえぐられるような痛みを感じました。それがなんなのか、うまく説明できません。

おそらく、今まで作ってきた作品のかたち自体(メモリアル)が、震災の作品を作ることと繋がり、それが「アーティストとして私ができること」と思ったのだと思います。そして、鎮魂のための『Requiem 3.11』と『MEM: memory•memorial no.11 mandala』という作品となりました。

1999年からずっと自分のメモリアルの作品を作り続け、2011年には連作で12作品目になっていましたが、震災のことで頭がいっぱいで、作れなくなりました。心の中で作品の優先順位がはっきりと決められた感じですね。 

「回り道は、たぶん、あなたにとっては人生の一番の近道」

嘉住直実さん

『MEM: memory・memorial no.8 scriptorium(used teabags)』

先のことを考えて立ち止まってしまうのは普通だと思いますし、どこにも行けなくて苦しいということはたくさんの人が経験することだと思います。でも時には “Let it go”。自分を解放してしまいましょう。自分に必要であればそうするべきですし、自分が願えば道は絶対に見つかるし、思っていたのと全然違う方向であっても、そうすることが後でプラスになることであると確信しています。

回り道はたぶん、あなたにとっては人生の一番の近道。そして近道だと思って選んだ道は、実は一番利益のない道だったり、そこまで最短で行けると思って行ったのに成功しない。私にとってはスキー選手時代や、ニューヨークがその回り道でした。私はまた原点に戻りましたが、その経験がなかったら、今、シアトル大学にいないと思います。

アーティストも人間。たまたまこういう作品を作っている。そういうふうに見てもらいたいですし、そういうアーティストとしてやっていきたい。私の名前よりも、作品を思い出してくれるほうがいい。自分が大事だと思うことで作品を作っていけて、一人でも「いいものを見た」と言ってもらえたらいいですね。そして、私の作品や私の話が誰かのお役に立てるのであれば、それが私が目指していることだと思います。作品は私の分身のようでありながら、私とは少し違うパーソナリティで、違う役割を果たしてくれています。人間の形をしていないのに、見る人に語りかけてくれます。見る人もアートが相手なので構える必要がありませんし、ジャッジされていない分、素直になれるようです。

私はまっすぐなところはいいけれど、不器用で、まわりを見ようとしなかったから、どんどん回り道を与えられてきました。でも、回り道があってくれてよかったです。振り返ってみたら、結局、それが今の居場所に来る、一番の近道でした。

嘉住直実(かすみ・なおみ)略歴
1970年京都生まれ。佛教大学社会福祉学部卒業後、1995年渡米。オレゴン大学芸術学部で学士号と修士号を取得後、同大学で講師を務める。2003年にシアトル大学の大学芸術学部ビジュアルアート学科助教授に就任。現在はデザイン学科の教授として教鞭をとり、日本に学生を連れて行くスタディプログラムも実施している。

掲載:2019年11月 聞き手:オオノタクミ



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