アップルの面談中には、社内コンプライアンス研修へのアプローチについても聞く機会に恵まれた。アップルでは、コンプライアンス研修に、日本の相撲界における八百長の話を一種のストーリーに仕立てて使用していた。なるほど、iPad で見せてもらった研修用資料には力士のイラストが描かれていた。「八百長について聞いた時、これはうってつけの題材だと思ったんだよ。日本じゃ、こういうのは使わないの?」グレンは言った。後日、都内で訪れた外資系企業でもまた、コンプライアンス研修にストーリーを活かしていた。差別問題についての研修で、日系アメリカ人が戦時中に強制収容所に送り込まれた歴史的事実をストーリーに仕立てていたのだ。それも、歴史の授業のように話すのではなく、実話を題材に取り入れ、血の通ったものを創り上げたのである。コンプライアンス責任者(私の友人の日系アメリカ人女性)が、戦争の影で自らの母が辿った道を、彼女自身の口で語ったものだ。簡潔に要約すると、次のようなストーリーである。彼女の母が日系であるがゆえに受けた人種差別。しかし、強制収容所へと発つ前も、そこを後にした時も、彼女に対して常に温かい眼差しを注ぎ、彼女を守ろうと立ちはだかる白人の親友がいた。二人の絆は歳月を経ても途絶えることなく、年老いた今も彼女らの友情は固い。この研修のビデオを見せてもらった私は、感銘を受けた。「肌の色で人を差別するのは、やめましょう。」そんなスローガンを耳にしたところで、その言葉が心の琴線に響くことはないが、実話を元にしたストーリーには深みが感じられる。
別の企業訪問中も、喫煙に関する話を通して、ストーリーの持つ意味を再確認させられた。「喫煙は健康に悪いので、やめましょう。」いくら声高に叫んだところで、それは意味をなさない。今どき、煙草の煙をくゆらせる本人も喫煙が体にいいと思ってはいないだろう。「悪いのは頭ではわかっているんだけどね。なかなか、やめられないんだ。」そんな悩みを抱える人が多数いるのが現状だ。訪問先の会社では、禁煙に成功した元ヘビースモーカーの役員が、「孫の顔を少しでも長く見ていたい。だから、禁煙に踏み切ることにした」と、孫への愛情を軸に、自らの体験を社員と分かち合った。そのストーリーに心を揺さぶられた社員の中から、一人、また一人と禁煙に挑戦する人が出てきたという。ダークスーツに身を包んだ企業戦士が語るストーリーの向こうに、幼子を膝の上に乗せて相好を崩す一人のおじいちゃんの姿が見え隠れしたのかもしれない。「何も規律化した訳じゃないですけどね。禁煙に挑もうという風土が、自然に培われつつあるんです。」人事部長が語ってくれた。
血の通ったストーリーには、聞く人の心にまっすぐに届くメッセージがこもっている。ボディランゲージやアイコンタクトといった要素も、確かに重要だろう。(日本人にはこれらの要素が欠けていると辛らつに批判する声も大きい。)しかし、そのような事にこだわり過ぎるのも逆効果に思われてならない。日本人が欧米人の真似よろしく、大袈裟に肩をすくめてみたりしても不自然に映るだけだ。身振り手振りを取り入れたり、ユーモアたっぷりに聴衆を笑わせたり、そんな小手先(と私には思える)のことは二の次でいい。直立不動で、訥々と話すのだって、構わないと思う。いや、内容によっては、むしろその方がふさわしい場合もある。最終的に、人に感銘を与え、人の心を動かすのは、あくまでも内容である。
あるチャリティ・イベントで聞いたスピーチを思い出す。都内のスラムとされる町で、路上生活者も受け入れるホスピスの代表者によるスピーチだった。ホームレス、貧困、死。そんな深刻極まるテーマが重なるだけに、正義の味方による説教じみたスピーチを聞かされるのではないか。不謹慎ながら、一瞬、そんな危惧が私の心の片隅に生じた。だが、訥々と語った彼のスピーチは、よい意味で私の予想を裏切ってくれた。「あるホームレスの男性が、ホスピスで息をひきとった。職員が彼の遺品の整理をしていた時、タオルが見つかった。男性が生前通いつめていたパチンコ店で景品にもらったタオルである。そこには、『ありがとうございました』 という文字が書かれていた。最期を看取った職員に対する故人からの感謝の言葉のように思われ、居合わせた人は涙を流した。」記憶に頼らざるを得ないのが残念だが、そんなエピソードだった。その簡潔なストーリーから、大都会の片隅で、世間から切り離されたように存在するドヤ街のホスピスの簡素な建物や、こじんまりとした寝室、そこでささやかな生涯の幕を閉じた男性、そして図らずも彼が遺した言葉。そんな情景が一枚の絵画となって、私の脳裏に映し出された。淡々と語られた、おそらくは一分にも満たないこのストーリーは、これからも私の心の奥で静かに呼吸を続けていくのだろう。