著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。
公園の脇に車を停め、ドライブスルーで買ったコーヒーを片手にひと息つく。日常の雑事に埋もれる昼下がり、思いがけず手に入れた空白の時間。10分だか15分だかの自由時間が贅沢に感じられ、シートを傾けて、ゆったりとくつろぐ。ガラス越しに浴びる陽に目を細めながら、昨夜の海を超えての会話を思い返した。
紺のタートルネックを着た恵子(仮名)が手を振る。「元気? シアトルは寒いんじゃない?」 PCのスクリーンの前で、私も笑いかける。「この間は大雪で、停電騒ぎになる程だったけどね。もっとも、子供たちはそり遊びで大はしゃぎだったけど。うって変わって、今日は春も近いと思わせるような爽快な天気よ。」恵子と私は、こうして時おりスカイプでの会話を楽しむ。彼女が長年住んだシカゴから東京へと移り、半年が過ぎた。彼女がアメリカを去ると知った時、私は驚いた。ビジネススクールを卒業後、ボストンやシカゴの企業で経験を積み、小さいながらもコンサルティング会社を単独で切り盛りしていた恵子。その彼女がアメリカに見切りをつけて、小学生の娘を引き連れ日本へと舞い戻った。彼女はアメリカ国籍を取得していたから、日本では「外国人」だ。中国系アメリカ人の夫はシカゴに残る選択をした。離婚を踏まえた上での別居なのだろうか。40代半ばにしての突如の帰国は、精神的に大きな賭けではなかったか。聞きたいことは幾多あれど、あえて口にはしなかった。三鷹の実家にとりあえず身を寄せた恵子は、日本での再就職活動に試行錯誤を繰り返したらしい。今は在宅で翻訳の仕事を請け負っているが、いずれは外資系企業で働きたいと溜息交じりに語る。「もう年も年だし。その上、私なんて『外国人』だから、不利な点もあってね。」公立小学校に通う娘は友達にも恵まれ、いきいきと登校しているという。「まだ一年生でしょ。それだけに新しい環境に馴れるのも、あっという間よ。」そのうちに英語を忘れてしまう、と恵子は快活に笑った。
コーヒーの香りの中で恵子との会話を反芻し、日本へと発った知人・友人の顔を思い浮かべる。アメリカで10年、20年に及ぶ生活を築きながら、日本へと舞い戻り新たな一歩を踏み出した人たちだ。離婚や老親介護という試練と直面したケースもあれば、「アメリカでやるだけのことはやってきたから、悔いはない。今度は、祖国で新しい道を拓きたい」という動機に裏付けられたケースもある。キャリアを磨くなり子育てに専念するなり、それぞれ形は異なるにせよアメリカ暮らしが板についていただけに、日本に居を移すという選択は一筋縄ではなかっただろう。また、アメリカでの生活を根こそぎ揺るがしてまで帰国に踏み切る勇気には欠けるが、いつかは帰りたいという声にならない叫びを内側に抱える人は周囲に少なからずいる。大半が40代だ。「きっと、そういう年なんだよ。」自らも大阪に戻り、新規ビジネスに着手した男友達があっさりと言ってのけた。老後の人生がより現実味を帯びて迫りつつある年代ということだろうか。かつては眩しい国だったアメリカの光と影が交差する中、ふと足を止めたということだろうか。「アメリカのナーシング・ホームで、マカロニ・アンド・チーズなんてものを食べさせられるなんて、とんでもない。」「70歳だろうが、80歳だろうが、運転しないと買い物さえできないような国にはウンザリ。」そんな嘆きも耳にした。聞き手によっては滑稽とも受け止めるだろうが、当の本人にしてみれば切実な問題だ。(マカロニ・アンド・チーズの例には微笑がもれたが、実は私にも大きく頷ける点だ。ピーナツバターとジャムのサンドのようなランチを子供に食べさせる気にはなれず、こちらの人が冷蔵庫から取り出してはシューッと吹きかけるスプレー式生クリームにも、スーパーに並ぶ見栄えだけは華やかなカップケーキやクッキーにも、手をのばす気にはなれない。)
逆に、日本には二度と住まないと決断を下した人達も、私の周囲にいる。「あんなに肩の凝る窮屈な社会は息苦しい」。「アメリカの方が、人目を気にせずに心地良く生きていける。」異口同音で彼らは語る。さらには、都会の粗悪な住宅事情や通勤地獄、個性や主体性をおざなりにする学校教育などへの危惧を抱える人も少なくない。一方で、日本に帰りたいという想いを膨らませつつ、はだかる現実の厳しさにたじろぎ、二の足を踏む人もいる。「今さら帰国したところで、生計を立てる術もない。年齢を考えれば、アメリカで生きていくしかない。」若くないからこそ、残りの人生を祖国で送りたいと切望する人がいる半面、年齢がネックとなり帰国を断念する人もいるのは、皮肉な事実である。だが、日本社会における年齢の壁はそれ程までに厚いのが現状だ。「事務員募集。32歳以下の女性。」先日も、某弁護士事務所によるそんな求人広告を見かけた。別の弁護士事務所も堂々と年齢制限を記して求人を出していたが、応募者からの苦情に対し、「これは差別じゃない。区別なんだよ」と詭弁と呼ぶには幼稚過ぎる理由を盾に開き直っていた。法律の専門家にしてこのありさまだから、日本の企業社会が年齢を軸に、貴重な戦力となり得る人材を容赦なくバッサリと切り捨てる事実が一目瞭然だ。理由さえ記載すれば違法のクレームを回避できると考えるのか、「27歳以下」などと記した上で、「当ポジションには若手ポテンシャルが求められるため」などと、取ってつけたとしか言いようのない曖昧な表現が添えてある求人広告も目につく。こんな広告が大手を振るのが日本社会である。並外れた経歴とスキルを誇り、何歳になってもヘッドハンターから引く手あまたという人物なら話は別だが、30代も半ばを過ぎた人間がいきなり母国に居場所を探そうと意気込んだところで、職探しは困難を極めるだろう。長い海外暮らしを利点として活かせるどころか、逆に障害となるのを覚悟しなければならない。そんな現実を悟りつつ、背を押される思いで異国に骨を埋める覚悟をする人もいる。
もっとも、日本に帰るか否かは、仕事が見つかるかどうかの問題に終わらない。生活の糧は必須だが、それにもまして大切なものがある。勇んで帰国したところで、精神的に満ち足りた生活が営めるか。海の彼方だからこそ望郷の念も募るが、帰った国の現実は、描いていたイメージとのギャップが大き過ぎ、戸惑うことはないか。私は、恵子に聞かずにいられなかった。「ねえ、日本に帰ってよかったって思ってる? アメリカが恋しいなんてことはない?」実は、それが最も聞きたかったことかもしれない。恵子は微笑しながら答えた。「帰ってよかったって、心から思ってるよ。こっちで暮らすようになって、自然体になれたみたい。ことさら意識していた訳でもないけど、アメリカでは肩に力を入れて生きていたのかな。」「やっぱり私って日本人だったんだなって、つくづく感じるよ。この国こそが、自分の居場所なんだって。20代、30代の頃は、アメリカという国が自分の肌に合うと信じて疑わなかったから、日本に住むなんて考えられなかったけどね。」アメリカには戻らない、と彼女はきっぱりと言い切る。爽やかな表情を覗かせる友に一抹の羨望も感じながら、スクリーン越しに無言の声援を送った。
私自身は、ホームシックとは縁がなく、かといってアメリカ人になりすますでもなく、いわば根無し草として淡々と暮らしてきた。「根無し草なんて言葉、使わないでよ。」そう横槍を入れた友人がいる。彼女いわく、悲壮感が漂うらしい。そうだろうか。私はむしろ根無し草であることを愉快だとさえ受け止めてきた。どこにも属さないというよりは、属したくないという気持ちの方が強いのかもしれない。そして、「どこにも属さない」ことは、状況次第で「どこにでも属することができる」ことも意味する。未だに日本のパスポートを持ち、財布にはグリーンカードを入れている。その二つが、どちらの国でも暮らしていける身軽さと心情を象徴するような気がする。
そんな風にどこか冷めた私だが、「帰る場所」について、理屈ではなく肌で感じとった経験がある。東京での思い出だ。2月のある日、世田谷の名もない街で、みかんとパンの入った袋を提げてスーパーの2階出口から見下ろすと、3,4年生だろうか、ランドセルを背負う男の子たちが二人、弾けるように笑いながら過ぎ去った。少し先にある踏み切りでは、遮断機が降り電車の轟音が響く中、買い物帰りの主婦が自転車を停めていた。ただ、それだけに過ぎない。日本中で、幾千、幾万と繰り返されてきただろう、極めて日常的なシーン。それでも、帰国してまもない私の目には、さりげない風景が新鮮な深みを湛えて映った。ふと涙ぐみたいような気持ちがこみ上げ、冬の薄日を浴びて立ちすくむ。やがて闇が降り、家々からは、筑前煮をグツグツと煮込む小鍋から放たれる醤油の匂いや、カキフライを揚げる油の匂い、そしてキャベツをトントンと刻む包丁の音などが一体となって、小さな、けれど力強いドラマが紡ぎ出されるのだろう。そして、塾から帰った子供が疲れた体をテレビの前に投げ出したり、背広を脱いだ会社員が夕刊をひろげたりするのだろう。振り向けば、ソロバン教室からの帰り道、こっそりと駄菓子屋で道草などをしながら家に辿り着き、「ただいま」と戸を開けた自分の姿が見え隠れするような気がする。ああ、私は帰って来た。心の中で幾度も呟いた。帰国よりも帰郷という言葉がふさわしいようにも思えた。時空を超えて、今も私はあの昼下がりを心の奥で慈しむ。モノクロームの世界にそっと息を吹き込めば、陽だまりのように仄かな温もりが蘇るような気さえする。
車窓越しに仰ぎ見るシアトルの空は澄んでいる。せいぜい2週間程前、そり遊びに興じていた息子と娘の歓声が耳に残る。あの雪の日々が遥か彼方に感じられる程に、清々しい日を迎えた。「東京でも、雪が積もったんだってね。」恵子との会話を思い返す。シアトルで、そして東京で、新たな季節の到来は近い。頬を掠める風はまだ冷たいが、早春の匂いが徐々に濃くなるだろう。3月の声を聞く頃には「仰げば尊し」が口をつき、4月になれば薄桃色の花びらが舞う中での入学式を思い描く。長いアメリカ暮らしにも関わらず、私の心には日本人の季節感覚が流れる。コーヒーを飲み干し、再びハンドルに手をかける。さあ、子供たちを迎えに行く時間だ。学校へと車を走らせる路上で思う。日本であっても、アメリカであっても、いや、全く別の国であっても構わない。家族と笑い合って暮らす所こそが、最終的に私にとって帰る帰所になるだろう、と。
掲載:2012年1月
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