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第36回 「来る」から「来た」へ

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著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

5月 X 日

シャカ、シャカ、シャカ。切るように、切るように。心で唱えながら、木べらを手早く動かす。それぞれに泡立てた卵黄と卵白、そして生クリームをまんべんなく混ぜ合わせる。大きなボウルからはみ出んばかりに溢れる「作品」に目を細めながら。ベランダから吹き込む風が、新しい季節の予感を運んでくる。ついこの間まで、パウンドケーキやクッキーなど焼き菓子をひっきりなしに作っていた。陰鬱な空が拡がる週末の昼下がりは、オーブンから放たれる温もりと香りに包まれるのがひそかな愉しみだったのだ。ところが、どうだ。最近はアイスクリームやムースに夢中になっている。季節の流れを意識したわけでもないのに、不思議だ。ひんやりと冷たいお菓子に舌鼓を打つのが似合う季節が、いつのまにか到来した。とりわけ頻繁に作るのがバニラアイスクリームだ。ストロベリーやコーヒー、抹茶といったフレーバーのアイスクリームも作るが、シンプルで応用の利くバニラアイスが一番好きだ。手製のモカソースやマンゴソース、そしてナッツやアーモンドスライス、チョコチップの刻んだものをトッピングに用意し、「はーい、お母さんのアイスクリーム屋さん開業!」と宣言するやいなや、子供達の歓声が響く。スプーンを口に運び、うっとりと目を閉じながら(芝居がかった恍惚の表情が滑稽だ)、「うーん、お店のより5兆倍おいしい」と娘が言い、「うーん、天国まで持って行きたい」と息子が付け加える。少しばかり自慢をすれば、私のアイスクリームは、途中でかき混ぜたりしなくても滑らかでクリーミーだ。もっとも、丹念に泡立てた材料を混ぜさえすれば完成する単純なレシピだから、自慢には値しないのだろう。夫に連れられオーケストラの練習に出かけた子供達を思いながら、バニラアイスを幾つかの容器に分け、冷凍庫で眠らせる。ゆるやかに流れる時間の中でお菓子作りを満喫できる土曜日の朝が好きだ。

5月 X 日

朝、週末明けを待ちかねていたかのように電話が鳴った。京都に里帰りをしていた友人、陽子(仮名)の快活な声が響く。「元気にしてた?」「おいしいもの、たくさん食べて来たんじゃないの?」「お母さんと温泉旅行に行くって計画を立ててたよね。どうだった?」ひとしきり会話が弾み、一瞬の沈黙の後、ポツリと陽子が言った。「美保(仮名)とね、会ったよ。」 共通の友人の名前だ。陽子とは同郷出身でもある。美保と最後に言葉を交わしたのは、何年前になるだろうか。5年、いや6年か、もう思い出せない。「帰国?考えたことないよ。シングルマザーだとね、アメリカの方がずっと暮らしやすいから。」 膝にちょこんと座った幼子の髪を撫ぜながら呟いていた彼女の横顔が脳裏を横切る。あの男の子は、私の息子よりひとつ年下だった。ということは、彼も既に小学校の高学年なのだ。流れた時間の重みにたじろぎつつ、「美保、どうしてた?」と尋ねた。「お姉さん夫婦の家に転がり込んだんだって。でも、あんまり居心地は良くないみたい。それについて彼女は口数少ないけど、まあ予想はつくよね。」「職探しも難航してるらしいよ。コンビニで店員を募集すれば、時給800円の仕事に数十人の応募があるような時勢だしね。」「子供?本人は言わなかったけど、あの生活じゃ、年間300万円かかるインターナショナル・スクールどころじゃないよ。日本語もおぼつかない子がどうやって日本の学校教育に適応するのか、想像もつかないけどさ。」受話器を通して、陽子の溜息が流れてくる。「シンママって、大変よね。国際離婚となると、余計にそうよね。」

シンママ。つまり、シングルママ。その呼び方には違和感がある。もっとも、今や市民権を得た感のある「シングルマザー」なる言葉にせよ、片仮名言葉に弱い私の母の世代には違和感があるようだ。母子家庭という言葉の方がしっくりくるらしい。シングルマザーだのシンママだのといった言葉は、響きが軽やかな分、悲壮感に欠ける印象も与える。だが、「母子家庭」が「シングルマザー」、ひいては、「シンママ」に変わったところで、親一人による子育ての苦労自体に変化はないだろう。国際離婚ともなれば、事情はさらに複雑だ。離婚をした日本女性がこのままアメリカに残るか、それとも日本へと舞い戻るか。これは切実な問題である。アメリカ社会で生き抜くことに危惧を抱く母親が帰国を切望したところで、子供を一方的に父親から離すわけにはいかない。それに加え、アメリカで心地良く生きてきた我が子が、言語や文化の壁を超え異国で新たなアイデンティティを築く過程も、決して一筋縄ではいかないだろう。再会はかなわない友へと、心の中で声援を送る。「老婆心なら、結構。ちゃんと幸せに生きてるからさ。」 そんな風に笑い飛ばしてくれることを祈りもしながら。

5月 X 日

晴れ上がった昼下がり、PC のスクリーンから目を離し、自らに問いかけた。私は今まで何を見ていたのだろう、と。人権問題についての記事の執筆を編集者から依頼され、「日本社会におけるワーキングプア」というテーマを選んだ。だがリサーチをすればする程、この問題の重みがずしりと心にのしかかる。日本経済が低迷する中、いわゆる派遣切り(非正規社員の解雇)やリストラの憂き目に遭い、果てには家族崩壊にまで直面した人達。ワンコールワーカーなる日雇い労働者として、行き場を失ったまま社会の漂流を続ける若者。インターネット・カフェで借りる一畳の部屋を唯一の私的空間として、数時間の安堵を求める「カフェ難民」。特に同じ母親として胸がつまったのが、幼い子を抱えるシングルマザーだ。倹約のため、食事は一日一食だったり、夕食はテーブル代わりのダンボール箱の上でふかした芋だけだったりする。

貧困は難しい問題だ。日本は自己責任の国だと声高に叫び、経済的自立は本人の努力次第だと力説する人もいる。それにも一理あるのは否めない。たとえば、生活保護を受けつつ、お酒やギャンブルに溺れる人がいる。働けるのに、働かない。そんな人がいるのは事実だろう。その一方で、どん底から這い上がろうと歯を食いしばりながらも一筋の光さえ届かず、もがき続ける人もいる。「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり。」 石川啄木が詠んだ歌が蘇る。貧困とは、どこまでが個人の責任であり、どこまでが行政により手を差し伸べる領域となるのか。その境界線は、決して明確ではない。「自己責任こそ全て」という考えは、シングルマザーに注がれる冷ややかな視線にも反映される。「離婚という失敗をしでかしたのは、本人ではないか。」「夫の家庭内暴力などを訴えるのであれば、そんな男性を伴侶に選ぶこと自体が間違いではないか。」 離婚した女性に対して、そのような罵声が投げかけられる。日本はひとたび道を外れた人に厳しい国だ。就職市場はその典型例といえよう。こぞって新卒を大量採用する反面、30過ぎの求職者を年寄り扱いし拒む企業社会に、離婚やリストラなど痛手を受けた人間が居場所を確保するのは至難の業だ。シングルマザーに対しては、自治体により自立支援プログラムも組まれているが、肝心の企業に受け皿が無ければ、絵に描いた餅に終わりかねない。その点、アメリカ社会は、試行錯誤を繰り返しながらも、「敗者復活」のサポートを提供する制度を作り上げてきた。私がロースクール在学中、奨学金を受けるシングルマザーが同学年に何人かいた。彼女たちは何ら特別視されることもなく、ごく自然に学校生活に溶け込んでいたように思う。困った時には幼い娘同伴で登校し、隣で塗り絵などをさせながら、民事訴訟法の授業で熱弁をふるう級友もいた。彼女達も今は弁護士として、それぞれの分野で活躍している。家庭内暴力が原因で離婚、親権争いを体験したことが契機となり法曹界を志した女性は、子育てをしながら優秀な成績でロースクールを卒業、今や家族法の専門家として名を馳せる。このような喪失と再生のエピソードが、アメリカには溢れている。むろん、アメリカ社会のアプローチとて完璧には程遠い。それでも、この国が辿った道が日本に示唆するものは大きいだろう。

6月 X 日

夏の色を帯び始めたパイク・プレース・マーケット。

夏の色を帯び始めたパイク・プレース・マーケット。

夏が薫り立つ。降り注ぐ蝉しぐれの中、勇ましい掛け声や軽快な祭囃子が耳に届くような錯覚をおぼえる。永田町駅で通勤電車から吐き出される人の波を背に掲示板の前に佇み、私はそのポスターを凝視していた。2年前のゴールデンウィークの頃だ。「そして、東京に夏が来る。」 特大ポスターを彩るフレーズの背景に、法被姿で神輿を担ぐ人たちの写真がある。そのコピーが好きで、私はよく駅で足を止めては、掲示板の前に立った。「夏が来る。」 修飾語など無いシンプルな一文が、物語を紡ぎ出す。「来る」という未来形もいい。「来た」という現在完了形よりも、さらに胸を高鳴らせるから。そして今、風に水無月の懐かしい匂いを感じとりながら、心で呟く。「シアトルに夏が来る。」 いや、もう「来た」のだろうか。ジャケットを羽織らずにいられない日も続くが、確実に日が長くなってきた。まばたきをすれば、見えてくるものがある。それは、ダウンタウンにそびえる高層ビルを背景に、エリオット湾の水面を勢いよく滑り出すフェリーが放つ水しぶきかもしれない。観光客がおしよせ一層活気を帯びたパイク・プレイス・マーケットの名物魚屋で、空中を飛ぶ魚を目の当たりに声をあげる観衆の輪かもしれない。バーベキューやピクニック。シアトルっ子は、短編小説を慈しむかのように北国の夏を堪能する。まさにエメラルド・シティとしてシアトルが煌き出す季節の到来だ。シャカ、シャカ、シャカ。鼻歌を歌いながら、今日もまた「お母さんのアイスクリーム屋さん」は木べらを動かす。「来る」から「来た」へ。未来形から現在完了形へと駆け出した季節。さあ、今年の短編小説はどう展開していくだろうか。ボウル一杯のバニラアイスを小分けしながら、心の中で夏休みの計画を練った。

掲載:2012年6月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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