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第31回 自転車を降りるとき

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著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

恵美須町駅を出て、その塔を仰ぎ見る。「わあっ、何あれ。野暮ったい。」思わず、そんな言葉が口をつく。「ずん胴だね。」「カッコ悪いよね。」 息子と娘も同調する。ここは、大阪・ミナミ。夏休みを利用して、東京から遊びに来た。目の前にそびえるのは、この界隈の見所として名を馳せる展望塔、通天閣だ。確かに、東京タワーに比べれば、絵になる光景とは言い難い。「やっぱり、大阪ってこんなもんよね。どう背伸びしても、東京には、かないっこないか。」商店街をぶらつきながら、心で呟く。1,900円の札を付けたジーンズが店先のラックにぶらさがる。マロンみつ豆やオムそばの見本が、ガラスケースの中で埃を被る。屋台を出した易者のおばさんにOLらしき女性たちが群がる。それらの店を通り過ぎると、通天閣に辿り着く。大阪市街を一望できる展望台では、幸運の神様・ビリケンさんの像の前に、縁起を担ぐ人たちが列を成す。像の足の裏を撫でると、幸せになれるそうだ。若いカップルが、ビリケンさんを背景に寄り添い、カメラに向かってピースサインを掲げる。「めっちゃ、ええやん。」写真を撮った茶髪の女性が嬌声をあげる。

夏休みに家族で訪れた通天閣。

夏休みに家族で訪れた通天閣。

「通天閣が、立っている。何してても、ええですがな。そんな風に、いつまでも、いつまでもそこに立っている。」(西加奈子著、『通天閣』)

大阪湾。四天王寺。ジングルベルが流れるシアトルの寒空の下、7月の通天閣から見下ろした風景を思い描きながら、小説をひもとく。その名も『通天閣』、大阪・ミナミを舞台に展開する人間ドラマだ。第24回織田作之助賞の受賞作品でもある。主人公の一人である「俺」は、町工場で働く40代。通天閣を中心に広がる歓楽街・新世界を湿度の高い街と呼び、そこで独り暮らす。別れた妻や子への想いを封印するかのごとく、二度と家庭は持たないと決め、一切の人間関係を断つ。夢を喪失し、明日を心待ちにすることもなく、ただ「死ぬまでの時間を、飲み下すように」、投げやりな日常に身を沈めている。一方、もう一人の主人公、「私」は、勤め先のスナックで客の相手をする日々に辟易する20代。ニューヨークにわたった映像作家志望の恋人と別れ、泣きながら、のろのろと自転車を漕ぎ職場へと向かう。夕焼けのオレンジに照らし出され明日の楽しい予感に胸を弾ませながらペダルを踏んでいた日は、どこへ行ったのだろう。そう自問自答を繰り返しながら。八方塞がりともいえる生き方に閉じ込められた男と女の物語は、交差することもなく交互に語られる。ひとつ間違えれば演歌調になりかねない小説だが、不思議と重さはない。むしろポップ風の軽快なリズムさえ感じられるのは、著者が若い女性だからだろうか。「泣いたら、あかん。」「兄ちゃん、ええど! わし感動したわっ!」「大盛りでっしゃろ? 50円足りまへんがなっ!」ポンポンと勢いのいい関西弁で物語は紡がれていく。通天閣の灯に映える新世界の匂いが、行間から滴り出るかのように。それは串かつやドテ焼きが放つ匂いでもあり、この下町に根を張る人々の息づかいでもある。

エリートには程遠い。美男美女とも言い難い。社会の底辺を這いつくばるかに見える「俺」と「私」は、「前向きに生きる」ことも、「自分を磨く」こともないまま、昨日と代わり映えしない今日を生きる。いわば労働者階級のささやかな日常が描かれている訳だが、私はこういうのが苦手ではない。森瑤子の小説なども幾つか読んできたが、『通天閣』を彼女の作品と比較してみると面白い。西洋志向の森氏は、エキゾチックなリゾート地や横文字のグルメ料理などを作中に登場させ、華やかな非日常を創り上げるのに長けていた。彼女は、カナダに島を購入し別荘でパーティを開くという自身のライフスタイルをエッセイで豪語していた。そのお洒落な生き方が、小説にも反映されていたといえる。だが、島や別荘とは何の接点も持たない庶民にとって、森瑤子が描く世界はあまりにも遠過ぎる。彼女の恋愛小説を読み終えて、晩御飯の味噌汁に入れる油揚げの湯通しをしたり、洗濯物をたたんだりする黄昏時には、「こんなものよ、現実なんて」と、ため息をつきたくもなる。その点、『通天閣』に登場するのは、無愛想な店員がカップラーメンを棚に並べるコンビニだったり、頑固者の老人が「挨拶せい」と怒鳴る銭湯だったりするから、どこかホッとし、笑みがこぼれるのだ。夕闇の中、「俺」は、3,900円で買ったユニクロの「粋な」上着を得意げに羽織り、行きつけの店・大将で650円の塩やきそばを注文する。(イカや海老、そら豆などが盛られた塩やきそばは、おいしそうだ。私まで暖簾をくぐり、湯気の中で目を細めながら、「おじさん、いつものね」とオーダーをしたくなる。店の片隅のラジオからは昭和の歌謡曲が流れているに違いない、と勝手な想像を膨らませる。)登場人物が「前向きに生きていない」のもいい。「朝5時起きで資格の勉強をしましょう。」「きちんと時間管理をして、多くのことを成し遂げましょう。」「国際社会で生き残れるように、英語力を伸ばしましょう」。書店に足を運べば、この手のアドバイスが詰まった本が山積みにされている。あんた、もっとシャキッとしなさいよ!そう背を押されるようで、のんべんだらりと生きる私などはバツが悪くなり、苛立ちもする。自己表現だの社会貢献だのと崇高な目標を掲げて生きることは素晴らしい。だが、皆がこぞって颯爽とした生き方ができる訳ではないし、する必要もないだろう。「夢に向かって頑張っていないと駄目なのか。何かを作っていないと駄目なのか。きらきらと輝いていないと駄目なのか。」今日も自転車をのろのろと漕ぐ女は、問いかける。この問いかけは、幾多の人々の内なる声でもあるように思えてならない。

通天閣付近にある串かつの店。

通天閣付近にある串かつの店。

『通天閣』は、男と女の凡庸な日々をとりとめもなく描く小説ではない。さりげなく散りばめられた描写や会話が読者の心をわしづかみにし、切なくも、泣きたくもなる。たとえば、こんなシーン。臨月の妻がいる小山内君という青年が、「俺」の働く町工場にやって来る。彼を名前ではなく「新入り」と呼ぶ「俺」は、兄貴のような気遣いをひそかに覗かせながらも、照れが先立ち、ぶっきらぼうに突き放してみせたりする。ある朝、小山内君の妻が出産したという伝言が工場に届く。「新入りの子が、産まれた。」形容詞や感嘆詞はなく、無機質にも見える一文。だが私は、この短い文章を咀嚼するたび、泣けて仕方がない。産まれた。産まれた。産まれた。私は、心で叫び続ける。混沌と澱んだ大人たちの世界をつんざくように響き渡る産声が、行間から聞こえてくるような気がする。「俺」は、新入りの掌に自転車の鍵を投げ込む。「俺のチャリで行けっ。お前のんやったらラチあかんっ!」赤子と妻が待つ病院へと全速力で自転車を漕ぐ小山内君の背がほのみえるようで、私は声援を送らずにいられない。

私の心を揺さぶる、もう一人の脇役が、スナックの雇われママだ。恋人に去られた「私」がうちひしがれているのを知った彼女は、「通天閣に上ろう」と誘う。弱みを見せまいと懸命に表情を繕う「私」を見透かすように、ママは淡々と語る。「しんどいときは、自転車降りて歩こうな。」「立ち漕ぎしようが押して歩こうが、坂は坂や。はよ上ってもええけど、そらええけど、自転車降りてゆっくり歩かんかったら、あんな綺麗な通天閣は見えへん。」そして、彼女は涙声で言う。

「うちもな、当時のうちに言ってやりたい。あの坂道を、必死で上ってる、借金まみれのうちに、言ってやりたい。あともう少し頑張りや。あともう少し頑張ったら、朝日浴びた綺麗な通天閣を、見ることが出来る。ほんでその通天閣の中から、未来のあんたが、ちょっとだけ幸せになった未来のあんたが、よう頑張ったなぁ、て、じっとあんたのことを、見てるから。」

7月の光にさらされた通天閣が脳裏に映る。ああ、私だって、躍起になってペダルを踏んでいるじゃないか。あの人も、この人も立ち漕ぎをして、私を追い抜かしていく。そんな風に焦燥にかられ、時には、「あんた、ノロマじゃない」と自分に愛想をつかしながら。私は肩で息をしている。もう、いいよ。自転車を降りてみよう。のろのろと押しながら歩いてみよう。新しい視界の中から何かが生まれるかもしれないから。

大阪・ミナミで賑わう食い倒れの街・道頓堀。

大阪・ミナミで賑わう食い倒れの街・道頓堀。

小説の結末には、思いがけないクライマックスが待ち受ける。詳細は、あえて書かない。「阿呆のように人を愛そう。」そんなフレーズが心に染みる結末は、新しい物語の予感に満ちている。愛なんて言葉は照れくさくて、「なにさ」と斜に構えてみたくもなるけれど、そんなものに賭けてみるのも悪くない。そう、思えてくる。心に北風が吹く師走の夜、『通天閣』のページを繰り、大阪・ミナミへの雑踏へと旅してみるのもいいかもしれない。辛いこともぎょうさんあるけど、人生、捨てたもんやないで。ネオンの下、串かつソースの香ばしい匂いに混じって届く人情の街の温もりが、ほっこりと心を温めてくれるかもしれない。

掲載:2011年12月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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