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第61回 “自分” に就職 – 芸術家が歩む道

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音楽のある風景

私は、音楽評論家と暮らしている。

と言っても、夫のことではない。息子のことである。

「芸術性がない」

ブリティッシュロックに耳を傾ける母親を横目に、高校生の息子が、したり顔で講釈をたれる。彼はオペラの愛好者でもある。17歳にして達観したかのように振る舞う評論家は、のたまう。

「お母さん、ロックは芸術性に欠けるんだ」

「ふーん、ゲイジュツセイって、そもそも何なのさ? 響きがカッコいいだけの思考停止ワードだよね?」私はティーンの「講釈もどき」に苛立ち、心で悪態をつく。

「生意気言うよ、まったく」

だが、実を言えば、私はジャンルへのこだわりはない。クラシックにも陶酔しており、「バッハが恋人」なる題名の新聞記事を執筆したほど、バッハが大好きだ。ロックだろうが、クラシックだろうが、音楽はいい、音楽は。大学教員のハシクレとしても、「音楽と法」なる講義に取り組み、ロックやオペラを導入した模擬裁判のシナリオを書こうとワクワクしているところだ。

我が家にはいつも音符が溢れている。17歳のヒョーロンカは、東大の某管弦楽団でバイオリンを演奏するようになり、初秋の公演と駒場祭に備え嬉々として練習に通う。中学生の娘もまた区主催のオーケストラに入団し、手ぐすねを引いて夏季の演奏旅行を待ち構えている。

シアトルの日々

アメリカ在住時は、シアトル交響楽団のシーズンチケットを購入し、ベナロヤホールに頻繁に足を運んだものだ。毎年8月が来ると、市内の大学のキャンパスで開催される弦楽器のサマースクールに欠かさず参加していた。清々しい夏空の下、近所の公園で開催される無料コンサートに家族で出かけ、芝生の上でサンドイッチを頬張りつつモーツァルトを満喫した黄昏時もあった。

アメリカ西海岸の生活が、懐かしい色彩を帯びて記憶に蘇る。一抹の寂しさを味わいながら、高層ビルの狭間にある水無月の空を仰ぎ見る。バッハやモーツァルトの旋律が日常の風景にさりげなく織り込まれていた日々が恋しい。シアトルでは弦楽器やピアノを演奏する子が周囲に多く、小都市にしてはジュニアオーケストラの内容も充実していた。息子がいっぱしの音楽評論家(もどき)になったのも、そのような環境で育ったせいかもしれない。

コンクリートの街で

東京都心のコンクリートジャングルで展開する風景は、心なしか精彩を欠く。「医学部へ」「東大へ」そんなゴールを掲げ、小学3、4年生が大手の進学塾に通い始めると同時に、習い事を中断し楽器を手放す例がひきもきらない。一人、また一人。我が家の周辺でも、受験勉強に埋没する子らが次々とバイオリンやピアノを離れていった。一流校の合格通知を掴み取るには、音楽やスポーツに別れを告げることも必須の通過点となるのだろうか。

もっとも、医者なり会社員なり公務員なり、まっとうな職に就くことを社会的に課されるのが日本である。芸術では「食べていけない」現実が立ちはだかる。医学部なり東大なりを見据えた教育投資の方が、庶民にしてみれば、はるかに「元を取る」可能性が高いという事実は否定できない。

今回、そして次回のコラムでは、私の新たな研究分野である「音楽と法」、それぞれの分野で最高峰を極めた東京藝術大学音楽学部と東京大学法学部の卒業生そして現役学生に、歩んできた道を語ってもらおう。それはまた、際立つ才能や個性に欠け凡庸な世界に安住する私のような人間にとって、眩しい異空間を覗き見る愉しみにも繋がる。

(ちなみに、東京藝術大学には音楽学部と美術学部があり、カラーや学生のライフスタイルもまったく異なるらしい。当コラムで取り上げるのは前者である。)

「チャリ」で駆け抜けるバイオリニスト・相川麻里子さん

相川麻里子さん

バイオリニストとして国内外で活躍する相川麻里子さん

待ち合わせをしていた紀尾井町のホテルに、彼女は「チャリ」で現れた。

「よくバイオリンを背負って自転車で移動するんですよ」

そう言って笑う。ニューオータニやガーデンテラス(元赤坂プリンスホテル)。瀟洒な建物に彩られる紀尾井町でペダルを踏み、初夏の匂いを含んだ風を切って走る相川さんの姿を脳裏に浮かべ、どこか微笑ましさを感じた。

あれは、昨年の晩秋だったと記憶する。ネオンが滲む街にツリーが登場する華やいだ季節、ロングドレスをまとった相川さんは渋谷のホールで舞台に立ち、ピアニストとチェリストの男性とトリオでショスタコーヴィチを奏でていた。その淑女のようなイメージを裏切るかのごとくチャリで颯爽と移動する彼女。イメージのギャップが素敵だな、と思った。

相川さんのプロフィール:
ヴァイオリンのソリストとして活躍する相川麻里子さんは、東京藝術大学付属高校を経て東京藝術大学を卒業した。藝大在学中、パリ国立高等音楽院に首席入学を果たし、フランス政府給費生として留学。同音楽院を満場一致の1位で卒業した。留学中は、Orchestre International de Parisとベートーヴェンの協奏曲を協演したり、パリで初のリサイタルを開催したり、ひいては、ガロワ=モンブランのANDANTEを世界初演したりと活躍。コンクールでの業績は、以下を含む。全日本学生音楽コンクール小学生の部第1位。第4回ヴィニアフスキー国際コンクールジュニアの部第5位。第62回日本音楽コンクール第3位。

少女時代の想い出

相川麻里子さん

霧島国際音楽祭で、W. マルシュナー氏と。パリ留学中に悩んでいたバッハの弾き方について、イタリアでのコンクールに審査員として来ていたマルシュナー氏からアドバイスを受けたことが忘れられず、霧島まで追いかけてレッスンを受けた。穏やかで理論的なレッスンに新鮮な喜びを感じた。

相川さんが見せてくれた2冊の厚いスクラップブックのページを繰ると、彼女が幼少時から積み重ねてきた歴史の断面が顔を覗かせる。最初の方のページには、ワンピースを着てバイオリンを奏でる少女の姿が登場する。

相川さんは3歳の時、バイオリンを始めた。彼女にとり一つの転機となったのが、早々にして幼稚園を退園したことだ。

「入園したものの、自分に合わなかったので1~2か月でやめてしまいました。母は無理に通園させようとはしませんでした。時間があったので、日がな一日バイオリンを弾いていたんです」

教育家・鈴木慎一氏により開発されアメリカでも名高いスズキ・メソード(才能教育研究会)でレッスンを始め、6歳にして全10巻の教本をマスターするという異例のスピードだった。

彼女の成功の影には、一種の異端児でもあった我が子の通園拒否を寛大に受け止めた母親の価値観が見え隠れする。皆と同じ。足並み揃えることを暗黙のうちに求められがちな日本。昔も今も、それは変わらない。ホームスクーリングを始め多様な選択肢が受容されるアメリカとは異なる、そんな社会にあって、相川さんの母親は、「行きたくないなら、それで構わない」と、通園を強要しなかった。夫が経営する建設会社を手伝ったり、その事務所の片隅で結婚相談所を運営したりと、いわゆる「日本の母」とは一線を画し、我が道を行くタイプだという。

相川麻里子さん

同上のマルシュナー氏と、霧島のレセプションにて。

しかし、いくら時間があろうとも、学齢にも達しない子が、楽器の練習という地道な作業を投げ出しもせずに日がな一日、そして連日、続けられるものだろうか。ゲーム好きの子でさえも、ゲーム三昧の毎日には飽きてしまうのではないか。

「当時のバイオリンを見ると、涙の跡がついていたりします。嫌がっていた時もあったのでしょうね」

相川さんはさりげなく言ってのけるが、それでもバイオリン三昧の日々に終止符を打つことはなかった。

「練習を休んだ日がありますか?」と尋ねると、即座に答えが返ってきた。

「いいえ、(習い始めてから)一日も休んだことはありません」

学校の宿泊行事や球技大会などにも参加せず練習時間を捻出してきた。コンクールでの受賞など実績を積み、5年生では全国一の快挙を成し遂げたから、学校側も行事不参加をあっさりと承認してくれた。箱根での宿泊行事があった時には、車で迎えに来た親と家に帰った。

相川麻里子さん

ザルツブルク音楽祭でI.ギトリス氏と。レッスンを切り上げて近くの山に登った際の写真。
ギトリス氏からは、音楽を楽しむことの大切さを教わった。

音楽家になるという意思は、幼少時から一貫して変わることがなかったという。

「その軸が一度もぶれることがなかったとは、珍しいですよね」

そう私が言うと、「(コンクール準備などで)いつも忙しくて、それ以外のことを考える時間がなかったからかもしれません」とのことだった。塾通いの小学生について冒頭に書いたが、皮肉なことに、相川さんがやってみたかったことのひとつが「塾に通うこと」である。塾でこんなことがあったという会話を耳に挟むと、羨ましく感じたという。

藝大への進学

相川さんの母校・東京藝術大学は、旧制の「東京音楽学校」と「東京美術学校」が1949年に統合した芸術界の最高学府だ。藝大の競争率は、東大のそれを超える時もある。

「東大は努力で入れるが、藝大は天才でないと入れない」

そんな一説も生まれる程だ。

相川さんに聞いてみた。

「東大を目指すような受験生は、例えば、世間がクリスマスだのお正月だのと騒ぎ立てるのにも背を向けて、北風が吹きすさぶ中、塾の冬期講習に通ったりしますよね。それだけ自分のコントロールに長けた人といえるかもしれませんが、藝大に入るような人にも、そのようなところが見られますか?」 

どうやら、そうではないらしい。藝大生は「純粋に音楽が好きな人たち」だからだ。

「廊下を歩きながらも楽器を弾き続け、挙句の果てには、『やめろ』と先生から注意される程なんです」 

彼らにとり、音楽はさながら呼吸と同じように体に密着したものなのだろう。努力を努力と思わないことも才能の一部に違いない(もっとも、東大生について私が抱くイメージも固定観念に過ぎず、心から勉強を楽しいと思える人たちなのかもしれない)。

お洒落な音楽学部(「音校」)と、「もっさり」派の美術学部(「美校」)。同じ藝大生でも二学部のカラーは対照的である。相川さんは、「肉(にく=29)部」に所属、毎月29日に文字通り肉を食べに行くというサークルでの活動を通じ、美術専攻の学生とも交流の機会を持ったそうだ。双方の学部が協力しあって独特の巨大神輿を創作し、それを担いで上野公園を練り歩く。毎年9月に行われる「藝祭」のエピソードも新鮮だった。

音楽で「食べる」

相川麻里子さん

フランス留学2年目の夏休みに両親と、旅行先の北海道にて。
留学中に腱鞘炎となり、パリの手専門の病院での受診を繰り返していた頃。
痛みが続き、南仏での夏のフェスティバルも途中で断念し、帰国。

受験勉強を皮切りに音楽を諦め、塾通いに明け暮れる小中学生たち。

「もったいないと思うことがあります」

ソリストとして演奏を続ける傍ら教室を運営し次世代育成にも携わる相川さんは語る。我が子を音楽から引き離し受験勉強に追い立てる母親に、「音楽では食べていけませんよね」と、面と向かって言われると、返す言葉を失うそうだ。

食べていく。それは、高い競争率を潜り抜けて晴れの藝大生になった後も逃れることができないテーマである。藝大には神童と称賛された人々が全国各地から集まるため、入学後に自信を喪失し挫折を味わう学生も少なくない。ソリストを目指すか、オーケストラの一員となるか、はたまた音楽を諦め、別の仕事に就くか。そして女性の場合は、結婚するか。それぞれが自問自答を繰り返し、選択を迫られることになる。競争が激しいバイオリンの世界に見切りをつけビオラに転向する人、やりたいことが決まらないまま海外に出る人、看護師や弁護士などの資格を取る人など、多種多様らしい。

3歳でレッスンを始めて以来、音楽の道一筋で生きてきた相川さんは、「好きなことで食べていける」喜びを抱きつつも、他の道への漠然とした憧れがあるという。たとえば、会社に勤めた経験は皆無なので、「コピーとりなどの事務的作業を経験してみたかった」と考えることもある。塾通いをしてみたかったという淡い願望と、根底を流れるものは同じだろう。その反面、会社員になったらなったで務まらなかっただろうと思うそうだ。

スーツ姿で闊歩する企業戦士に溢れ返る会社王国ニッポン。そこでは、芸術家どころかフリーランスとして生きるのさえもたやすくはない。その日本において、ともすれば道楽として一蹴されがちな音楽に人生を賭けることを選ぶ藝大生たち。彼らの生き方は、通勤電車で揉まれる株式会社経理部長だの人事課長だのといった面々の心の片隅に小さな羨望を植えつけるのか、それとも、逆に優越心を抱かせるのか。どちらだろう。

女性の武器

音楽関連の職業は、一家の担い手としての責任を期待されない女性の享楽として片付けられることも多い。そのような社会的側面も反映するのだろうか、藝大には女性が圧倒的に多い。「じゃあ、男性はモテますよね」と私が茶化すと、「そうなんですよ。藝大の女子学生は気が強いので、『私は〇〇君が好き』『彼は、私のものだから、とらないで』とハッキリ意志表示をすることが多いんです」とのことだった。

音楽家としてのキャリアを諦める藝大の女性たちは、時として結婚相手探しに躍起になり、「東大の学食に通ったり、東大とのサークルに入ったり」するらしい。そのあたりも、日本は変わらないままである。反対に、男子学生が経済的自立を放棄し、依存できる結婚相手を探し求めて東大キャンパスに足を運ぶということは聞かない。

いわゆるエリート男性の妻となり、週に2、3回ピアノ教室でも開いてお小遣い稼ぎができるのなら、それは優雅で素敵。第一、「ピアノのセンセイ」なんて、フツーの事務員よりは素敵な響きよね。そう思う女性も少なくないだろう。もっとも、男性の側から見ても、「妻はピアノを教えてるんだ」というのは一種のステータスになるに違いない。

音楽を専攻して海外に出た女性は、滞在期間が図らずも長くなり、やがては日本国内での人脈を喪失するため、帰国しようにも帰国できない事態に直面することがある(人脈無しで音楽のキャリアを築くことは至難の業だそうだ)。外国の永住権目的で国際結婚をする人もいるという。シアトルでも聞く話じゃないか。いつの時代も、女にとって結婚は武器になるのだろうか。

芸術と人生

「アジア色が濃過ぎる」 

フランス留学中、相川さんはフランス人の指揮者からそのような批判を受け、基本からのやり直しを執拗に要求された。アジア色とは、「ひとつひとつの音に情感がこもること」だという。同じ欧米でも、多様性を重視するアメリカではむしろアジア色を活かすことを期待されるが、ヨーロッパはもっと保守的だ(もっとも、ヨーロッパでも、フランスやドイツなど国による違いはある)。

相川麻里子さん

フランス留学中2年目頃、パリ音楽院での師匠、G.プーレ氏と。
氏とは衝突も多くあったが、「出す音全てに責任を持つ」ということを教えられた。

門外漢の私にはまったくピンとこないのだが、音色には演奏者の人となりが顕著に表れるらしい。出身国についてもしかり、ジェンダーについてもしかり(男性の方が「安定した」音色だそうだ)。「音を聞けば、『この人の部屋は汚れているな』といったことまでが見えてきます」と、相川さんは事もなげに言う。だからこそ、小手先のテクニックを磨くだけではなく、自らの生き方を見直し、時として襟を正すことも必要になる。芸術とは、人生そのものなのだろう。

相川さんとの話は、音楽や美術の才能など微塵たりとも持ち合わせない私が、芸術なるものの意味を考えさせられる機会となった。

「藝大生は、"自分" に就職するんです」 

藝大前学長の宮田亮平氏(第22代文化庁長官)がそう言ったと別の卒業生が記事に書いていた。Japan, Inc.なる大樹に身を寄せることに馴れた、いや馴れ過ぎた企業人にとっては、良くも悪くも噛み締めずにいられない奥行きの深い言葉と言えるのではないだろうか。

追記:

安田講堂が揺れた、とその瞬間思った。拍手の渦が大きなうねりとなって拡がるのを感じた。指揮棒が下がり、東大オーケストラの演奏が終わった。映画の背景を流れる曲としても馴染みのある「亡き王女のパヴァーヌ」。打楽器がハンマー代わりに音を奏でる「鍛冶屋のポルカ」。そして極めつけは「エーデルワイス」。何とも楽しい、そして良い意味で敷居の低い選曲ではないか。

お年寄りから小学生まで観客が一体となり手拍子を打った東大の演奏会の数日後、相川さんに聞いてみた。

「あのう、藝大の学祭では、あの手の曲は弾かないんですか?」

いともあっさりと返ってきた答えは、予想通りのものだった。

「そのような曲は、(藝大では)やりませんね」

言うまでもなく、藝大生が披露するのは、普通の人には馴染みがなく、プロとしての技巧を見せつけるような曲である。玄人の誇りとも言えるだろう。

「よーし、今年は絶対に藝祭に行こう」

未来の芸術家が切磋琢磨し合う上野の異空間で繰り広げられる「藝祭」を、親子で今から楽しみにしている。

次回の最終回では、我が家の音楽評論家に駒場祭での演奏のチャンスを寛大にも与えてくれた東大について書きたいと思う。

掲載:2018年7月

神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で "on behalf of oneself" という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

お断り:筆者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

このコラムの内容は執筆者の個人的な意見・見解に基づいたものであり、junglecity.com の公式見解を表明しているものではありません。

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