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菅 洋二さん (古美術紙 スペシャリスト)

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“古美術紙” を求めて世界各地を飛び回る、古美術紙スペシャリストの菅洋二さんにお話しを伺いました。
※この記事は2001年11月に掲載されたものです。

菅 洋二 (かん・ようじ)

1949年 札幌に生まれる。

1973年 栃木県の益子で陶芸の修行を終えるが、見聞を広げるため渡米。

1974年 ユニバーシティ・オブ・ピュージェット・サウンドで陶芸について講義。

1975年 ノース・シアトル・コミュニティ・カレッジで約8年に渡り、陶芸について講義。

1983年 古美術紙スペシャリストとして活動を開始。現在に至る。

新しいものを求めてアメリカへ

現在のお仕事について教えてください。

古紙の古美術商として、昔日本で発行された絵葉書などを収集し、販売しています。

なぜアメリカに来られたのですか?

もともと陶芸家として栃木県の益子で修行をし、自分の窯元を開けるようにまでなったのですが、若い時にはやはりいろいろな国のものを吸収し、見聞を広げた方がいいと考えて渡米しました。当時24歳でした。まずアメリカの陶芸家のところを見学してまわりましたが、タコマにあるユニバーシティ・オブ・ピュージェット・サウンドで客員教授となり、焼き物を教えはじめました。そして1年が過ぎた頃、「好きなことができるのなら、別に日本に住む必要もない」と考え、アメリカに滞在し、陶芸の道を進むことに決めたのです。

陶芸家としての活動について教えてください。

タコマからシアトルに引越して自分の工房で制作をしながら、ノース・シアトル・コミュニティ・カレッジで7年から8年に渡り、パート・タイムで陶芸を教えていました。当時の生徒はすべてアメリカ人ばかり。70年代のはじめのころでしたから、アメリカ人にとっても陶芸が珍しかった時代です。また、ベトナム戦争の真っ最中でもありました。その頃のシアトルと言えば、和食レストランが5軒ほどしかなく、現在 Shiro’s を経営されている加柴さんが初めてシアトルに寿司を持ち込んだのもその頃です。当時、日本人はまだまだ差別されていましたから、それはとても画期的なことでしたね。

陶芸から古美術紙へ

陶芸から古紙の収集家になられたのには、どのような経緯があったのですか?

ノースゲートのカレッジでは約8年教えていましたが、体をこわし、そのうえ、腰を2回ほど手術するはめになりました。陶芸は肉体労働ですから、これではやっていられません。また、アメリカに来た当時から、日本や東南アジアで発売された絵葉書やポスターなどのような古紙を集めており、私の興味はそちらの方に移っていたのです。高校時代の修学旅行でも、同級生らが東京タワーだのに上っている時に骨董屋などを覗いてまわるという趣味がありました(笑)。今では1900年代に日本や東南アジアで発行された絵葉書に関しては私が世界で1番多くのコレクションを抱えるようになりました。

絵葉書のコレクションというのは世界的にどのような地位にあるのですか?

日本ではそれほど盛んではありませんが、アメリカ・イギリス・フランスではそれぞれ300人から400人のコレクターがフルタイムでその収集を行うほど、大きな業界があります。イギリスにはアンティーク・ポストカード・ギルドというものがあり、私が初のアジア人会員なのです。既会員の方が1人でも反対すると入会できないという厳しいものですから、入会できたときはとても嬉しかったですね。

現在のコレクションはどのぐらいありますか?

数えたことはありませんが・・・何万枚というぐらいです。

日本で盛んではないのはどうしてでしょう?

日本は湿気があるので、保存が難しいというのが1つ。もう1つは、戦争で燃えてしまったということがあります。しかし、官製はがきで5厘のものが販売価格では約20倍の10銭となっていたことを考えると、昔は日本でも絵葉書の人気は相当なものだったと考えられます。しかし、こういった絵葉書を購入していたのは、海外から日本へ来た人たちです。当時は今のようなコンパクト・カメラなどありませんから、日本各地の様子を伝えるものと言えば絵葉書でした。そんなふうに世界のあちこちに散らばった日本の絵葉書を探しにいくというわけです。

どのようにしてそこにあるとわかるのですか?

臭いです(笑)。まるでフーテンの寅さんのように、鞄1つでかき集めてくるのですが、もちろん、仲間との横のつながりからも情報が入ってきます。例えばニューヨークで年に2回、大規模なディーラー・ショーが土日にかけて開かれます。私も自分のブースを出して販売します。しかし、ニューヨークの土日と言えば、蚤の市が各地で開かれるときですね。そういうところに掘り出し物がある可能性があります。そこで午前5時ごろ、まだ暗いうちから懐中電灯を持ったコレクター達が、ぞくぞくとタクシーに乗り込み、蚤の市を目指します。たまに掘り出し物があるのですが、なかなか難しいものです。そして朝食も食べずにショーへ直行します。また、一昨年までは日本へ5回ほど行き、主に東京で展示会を開いてきました。ヨーロッパやアメリカでは毎週末にどこかで展示会が開かれているのですが・・・。日本はアジアの中でもこの分野では最も遅れているんですよ。シンガポールや韓国は特にクラブなどもあって、かなりすごいものになっています。

価格はどのようにして決まるのでしょうか?

それは需要と供給で決まります。芸術的価値があるものは需要が高いので、価格が高くなります。絵葉書は1875年にドイツで発行されたのが最初ですが、日本初の絵葉書が発行されたのは1900年のことでした。そしてすぐ日露戦争が始まりました。1910年まではすごいブームで、郵便局の外に絵葉書を買おうと行列ができたのです。それでたくさんの人が押しつぶされて亡くなったりしました。しかし、日露戦争が終わると同時にブームも下火になり、その状態が現在も続いています。

この絵葉書は手で色をつけてあるのですか?

そうです。当時は白黒写真に職人さんが手で色をつけていました。これを “手彩色” と呼びます。もともと浮世絵師だった人たちがこのような仕事についていたのですね。芸術として考えられていなかった浮世絵は徐々に廃れ、そのうち錦絵と呼ばれるものが出てきましたが、写真が出てくるとそんな人たちも職がなくなってしまいました。しかし、当時は白黒写真しかありませんでしたから、その色つけで仕事を得ることができたのです。当時、横浜だけでも2万種類の絵葉書が発行されていましたから、かなり仕事はあったものと思われます。

古美術紙のコレクター

人気が高いものはどういったものなのでしょう?

やはり日本人女性の着物姿ですね。逆に、人気がないのは日本人女性の水着姿。日本髪のままの女性たちが水着を着て写っているのですが、当時の女性のプロポーションが災いしました。芸術的価値が低いとされ、販売も思わしくなく、発行数もとても少なかったのです。

その他にもいろいろな古紙を集めています。例えば1940年には東京オリンピックの開催が決まりましたが、戦争のために中止となりました。そこで、日本国内にあったポスターなどはすべて燃やしてしまったのですが、私はそれを海外で発見し、スイスのオリンピック・ミュージアムに寄贈しました。また、日本とアメリカの野球史に関する資料も集めています。ベーブ・ルースはご存知ですね?1934年に彼がオールスターゲームで来日した際の資料も集めています。これは趣味と仕事の合体ですね。(笑)また、1908年にワシントン大学が来日し、慶応大学、そして明治大学と対戦したのですが、その時の写真や資料も収集しています。

菅さんのクライアントについて教えてください。

個人から博物館まで多種多様ですね。ワシントンDCのスミソニアン博物館に資料を卸したこともありますし、大学教授や会社社長などにも絵葉書などを購入し、コレクションしている方たちがいますよ。絵葉書が好きでたまらない人たちがいるのです。チェコスロバキアのテニス選手イバン・ランドさんも、博物館ができるぐらいの絵葉書コレクターとして有名です。

ライフワークにも力を注ぐ

菅さんはその他にも収集されているものがあると伺いましたが。

私がライフワークとして調査と収集を続けているのは紙の資料で、テーマはアメリカの日系人の歴史です。例えば1920年代にテキサス州でも日本人がたくさん働いていました。このハガキはオレンジ摘みをしている日本人です。またこちらの写真は、ワシントン州のブラック・ダイアモンドにあった日本人の牧場です。第2次世界大戦中に日系人を強制収容所へ送ることを通知する2枚組みのポスターや、強制収容所内で日系人が発行した新聞などもあります。この新聞はワイオミングのハートマウンテンにあった収容所で1944年9月30日に発行された “Heart Mountain Sentinel” という新聞です。また、オカナガンのインディアン居留地で写真館を営んでいたフランク・マツーラ(松浦がなまったもの)さんという日本人についても調べています。へき地の彼のところにも日露戦争への召集令状が届き、マツーラさんはスチーム・ボートでコロンビア川を下り、シアトルから日本行きの船に乗るところまで行きます。しかし、彼は直前に、日本へ帰らないことに決めます。召集令状に応じないということは、つまり日本人であることを捨てるということです。それでも彼はよかったわけですね。そのままオカノガンに戻り、最後は結核で亡くなりました。

また、もう1つのライフワークは、『唐ゆきさん』 と呼ばれる女性たちのことです。『唐ゆきさん』 とは、1900年代初期に両親の借金の肩代わりになったり、騙されたりしてベトナムやフィリピン、マレーシアなどへ娼婦として売られていった日本人女性のことをいいます。主に港町に売られ、客船の乗客や乗組員らの相手となりました。この資料がなかなかないのですよ。ここに何枚かその女性たちの写真がありますが、これらは貴重な資料の1つです。

これからの抱負をお聞かせください。

私はこれまでも好きなように、がむしゃらに生きてきました。たった1度の人生ですから、妥協はしたくない。常に自分をベストの状態に保っていたい。そして、ライフワークを続けていきたい。また、自分のコレクションを飾る博物館を作りたいですね。

掲載:2001年11月

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