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佐々木 孜さん (BBS International プリンシパル & ディレクター)

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佐々木 孜さん (BBS International プリンシパル & ディレクター)

シアトルの日本人コミュニティを初めとする各方面でご活躍の BBS International プリンシパル&ディレクター、佐々木 孜さんにお話を伺いました。
※この記事は2004年1月に掲載されたものです。

佐々木孜(ささき つとむ)

1963年 AFS 留学プログラムで渡米

1969年 上智大学外国語学部英語学科卒、安宅産業大阪本社機械本部入社

1976年 シーファースト銀行(現バンク・オブ・アメリカ)東京支店入行

1979年 シアトル本社へ転勤

1982年 東京支店へ転勤

1984年 シアトル本社へ転勤

1990年 銀行を退職、BBS International 社を設立、現在に至る

学生としての渡米

渡米のきっかけとなった出来事は何でしょうか?

高校留学プログラムを実施している財団法人エイ・エフ・エス日本協会(AFS: American Field Service)でオハイオ州に留学して、後にシアトル総領事で再会する杉内直敏先輩(現在ルーマニア大使)に薦められたのが、渡米のきっかけです。このプログラムの参加経験者には「ミスター円」と呼ばれた元大蔵省財務官で慶応大学教授の榊原英資さんなど有名な方々もおられますので、ご存知の方も多いかと思います。「男だったら受けろ!」なんてその先輩に言われたのですが(笑)、試験に合格してオレゴン州の南端にあるグランツパスに留学しました。

どのようなことを体験されましたか?

このプログラムは米国 AFS と日本の文部省の共同出資で運営されていたため、1年後の日本帰国前には全世界からの留学生がワシントンDCに集まり、ロバート・ケネディ司法長官やジョンソン大統領に面会したことなど貴重な経験ばかりさせていただいて、アメリカに憧れを抱くようになりました。しかし、あまりにも良い経験をしすぎたので、「そんないいところばかりの国が本当にあるのだろうか?」と疑問に思い、今度は大学時代に友人と貨物船に乗って再び渡米。3ヶ月間かけて西海岸をヒッチハイクした結果、いろいろな人に会うことができ、「やはりアメリカも普通だ」ということを実感するに至り、ますますアメリカが好きになることができました。

社会人としての渡米

その後、お仕事でアメリカに来られるまでの経緯を教えてください。

大学卒業後、当時は10大商社の1つだった大手総合商社・安宅産業に入社し、機械本部の繊維プラント輸出で韓国を担当しました。しかし、安宅産業が1975年末に巨額の負債を抱えて経営不振が表面化し、伊藤忠商事に吸収合併されることになった。そういった合併をたくさん見てきた私はどうせ再出発するなら一から新しいことをと心に誓っていた矢先、ひょんなことからシアトルに本社があったシーファースト銀行(現バンク・オブ・アメリカ銀行)に入行することになりました。当時、某銀行に勤めていた弟の上司に同銀行が東京支店を開設するにあたり、日本の銀行員らしくない人が求められていると伺ったのがきっかけです。「それなら私にも資格がありますね」なんて冗談を言っていたのですが、1976年に入行しました。

お仕事の内容を教えてください。

私はマーケティングや物の売買を専門にやってきましたから、まず銀行に慣れるために融資の審査を担当することになりました。日本の銀行は審査に主に点数制を採用していますが、アメリカの銀行は自分で膨大な調査をして10ページ以上の稟議書を、しかも当たり前ですが英文で提出しなければなりません。しかし、商社から銀行へ入るということは、私のような人間にとってはとても退屈でした。入った日からいつ辞めようかと思っていました(笑)。ついに「私にはあわないので、辞めさせてください」と言ったところ、日本人の副店長は「2~3年は下働きをして我慢するのが普通だ」と言いましたが、アメリカ人の支店長は「じゃあやらせてあげよう」と言い、香港・台湾・シンガポール・マレーシア・タイなどの東南アジアに支店を開設する準備チームに入れてくれ、1977年から1978年にかけてはアジア各地を飛び回りました。とても楽しかったですね。

お仕事で渡米することになったのはどういう背景があったのですか?

しかし、1978年の終わりには支店の開設も終わり、また東京支店での退屈な日々が始まりました。そんな時、私をマーケティング部に異動してくれた前支店長から電話がかかってきたのです。彼はもともとチェース・マンハッタン銀行でキャリアをスタートしたのですが、シーファースト銀行東京支店の支店長になり、その後はシーファースト銀行シアトル本店のアジア総支配人としてシアトルに戻っていました。どうしたんだと聞くと、「ここは大変なところだ。とにかく仕事の体をなしていない。転勤ということで3年ほど来てくれ」と言われ、1979年12月7日にシアトルに家族と引っ越して来ました。

シアトルでの生活

シアトルでのお仕事について教えてください。

当時のシーファースト銀行は、顧客サービスは悪い、担当者のターンオーバーは激しい、という、とても良くない状況でした。誰も融資を依頼してきませんから、融資という業務もなく、到着しても引継ぎする担当者もいない。渡米してからすぐ日本の商社や銀行をまわったのですが、「いつ辞めるんですか?」と聞かれ、「いえいえ、ずっとやりますよ」と答えると、「3ヶ月ぐらい続けばいいんじゃないの」と、まったく信用してもらえませんでした。最初の1年程は仕事らしい仕事ももらえず、とにかくネットワーキングのために日米協会に積極的に参加し、ボランティア活動をし、日本人の駐在員とその家族の到着・帰国・引越し・帰任中の家族の手伝いなどをしていました。

そのような状況に転機が訪れたのは何がきっかけとなったのでしょうか。

1980年になって金利が大幅に上昇し、銀行にとってはワシントン州金利上限法によりクレジット・カードを発行すれば損をするという時代になり、競争相手の他行はカードの発行を止め、シーファースト銀行でも、クレジット・レファレンスの無い日本からの駐在員には発行しないという時期がありました。「これからお客さんをとるにはこれしかない」と思い、とにかく行内で小さいクレジット枠でいいので、クレジット・カードの発行だけは継続できるようにしました。これにより、「クレジット・カードが欲しければシーファースト銀行の佐々木さんの所に行け」ということで、一挙に日本人の間で名前が知られることになったのです。そして、1年くらいたったある日、日系企業の方があまり儲からないことばかりで忙しくしている自分を見て同情してくれ、融資を依頼してくれた時に良い利率を出したところ、評判が口コミで広まり、他の企業からも融資の依頼が入り始め、それから1年もたたないうちに融資の総額は2億ドル近くに成長しました。これはうまくいった話の1つですが、その時助けてくださった方々のことは今でも忘れません。この経験から、若い人には必ず「最初から仕事があると思うな、ボランティアでやっていても、誠心誠意お客様のためにやっていれば、見ている人は見ているんだ」と言っています。

その後、いったん日本へ戻られたわけですね。

1982年に、シーファースト銀行がペンスクエアという石油関係の融資に手を出しすぎてつぶれそうになったのです。ビザで滞在していた私はいったん日本に戻され、シーファースト銀行はその直後バンク・オブ・アメリカに買収されました。私の東京での主な仕事は、表向きは営業部長でしたが、実質的には支店の売却と閉鎖の仕事で、結局支店はオランダのING銀行に売却することになり、私はバンク・オブ・アメリカに残ることになりました。この時期は日本人でありながらアメリカの本店の意向で閉鎖を遂行しなければならず、行員間との軋轢もあり、大変苦しい期間でしたが、労使関係の調整も含めて大変良い勉強の機会を得ることになりました。現在の会社でもアメリカ人スタッフの間で人事面のいざこざ問題が起こると、私が人事問題担当役員ということで、下手な英語を駆使しながらも、何とか職を全うしているのは、この時の経験があるからです。

再び渡米されたのは何がきっかけとなったのでしょう。

1984年春早々に当時の会長が東京に来て、「"Storm is over"(嵐は去った)だ、帰って来い」と言うわけです。当初は「そんなに行ったり来たりさせられたらかなわないよ、考えさせてくれ」と答えましたが、結局1984年5月にシアトルへ戻ってきました。しかし、シアトルを留守をしていた2年間弱でせっかく築き上げたクライアント・ベースも何もかもなくなってしまいましたから、一からやり直しです。しかし、今度は世の中が違っていました。日本でもバブル(当時はそういう名前では呼んでいませんでしたが)が始まりだしていましたから、融資のご相談をしても借りてくれるところがありません。その頃、1986年にレーガン大統領が実施した税制改正で、不動産に投資をするメリットがなくなりました。つまり、それまでのアメリカでは "Investment Tax Credit"(以下、ITC)といって金利・投資金額を含めた不動産に関する費用はすべて税金から控除できたのですが、この改革でその優遇措置がなくなったのです。

会社設立から独立まで

それが現在の会社の基盤を作るきっかけとなったのですね。

ある日、当時の銀行の不動産信託部長で現在のパートナーの1人、メルヴィン・ブレーディ君と出会い、彼は「ITC がなくなって不動産投資が減り、自分も首になるかな」と言い、私は「バブルで日本の会社は金余り状態で、融資を受けてもらえないんだ」という話をしました。そこで、「ちょっと待てよ」となったのです。彼は不動産投資に詳しく、私は資金の潤沢な日本企業や個人経営者達を知っている。そこで、バンク・オブ・アメリカ東京支店で私の後任でシーファースト銀行東京出張所の所長をしていたブレーク・ビーラー君と3人で、投資家の立場に立った信託投資をやろうじゃないかという話になりました。銀行も初めは「できるわけないだろうが、やってみれば」と言い、私たち3人は不動産投資信託を銀行内でチームを作って始めたのです。

その結果はどうでしたか。

その頃を境に日本のバブルの勢いが増し、ニューヨーク・ロサンゼルス・シカゴの良い物件は日本人が買収しつくしてしまったため、今度はシアトル・サンディエゴ・アトランタ・マイアミにまで日本人投資家が進出してきました。そして1987年から1989年は「シアトルに行くなら、シーファーストの佐々木のところへ行け」というぐらい仕事が激増し、地元の新聞や銀行内の新聞にも載り、自分たちもヒーロー気取りだったんです。しかし、しばらくすると銀行は「あまりやりすぎると危ない。もし間違って損でもし、銀行が訴訟に持ち込まれたらどうする」と言い出しました。そこで、3人でよく話し合い、「今となっては銀行の資金も名前もいらない、独立しよう」ということになり、1989年10月に BBS International の決起総会を開き、銀行に辞表を提出し、1990年4月に独立しました。もう14年前のことです。

バブルがはじけた時はどのような感じでしたか。

バブルがはじけたのは、1990年4月。ちょうど私たちが独立した時です。しかし、それが肌で感じられるようになったのは、同年9月ごろ。それまでは毎朝8時前には出勤し、翌朝3~4時まで仕事するような状態で、「後3年ぐらいしたら百万長者か過労死だな」と冗談を言うぐらい、超忙しく、収入も良かったんですよ。しかし、神様はうまく作ったもので、9月になるとパタッとお金が入らなくなった。銀行の経験が長かった我々は状況を冷静に見ることができましたが、「今回の不況は、今まで来ていた不況とはどうやら違うよ。10年ぐらいは続くんじゃないの」と言っていたのです。

その後の状況へはどう対応されたのでしょう。

それまでの儲けで2~3年は食いつなげましたが、それで会社がつぶれては困る。そこで、これからは一度に多額のコミッションが入る物件買収だけでなく、それまで余り利益を生まないと他社にまわしていた物件管理(Property Management)も自分たちでやろうということになりました。買収はできた時の収入は大きいですが、できなければ1~2年も収入がなく、物件管理は大金持ちにはなりませんが、支出をカバーし、給料は出るという安全な方法です。また、我々が買収から管理まで一手に引き受ければ、顧客の安心感も増します。そんなわけで、1992年ぐらいからアパートやオフィスビルなどの物件管理を始め、買収はほとんどやらなくなりました。

業務の多様化

現在のお仕事について教えてください。

しばらくしてから、専門家を雇ってしまえば、物件管理は自分たちでやることは余り無いということがわかりました。そして、このままではおもしろくないので、コーヒー豆や光ファイバーを販売する商社活動を少しやってみようということになり、現在も続けています。また、今は資産管理(Asset Management)や経営代行がもっとも大きな仕事で、それにかかわるコンサルティングが中心です。クライアントは日本・韓国・香港などですが、最も多いのは日本です。

毎日どのようにお仕事されていますか。

我々にとって重要なものは情報です。ですから、日本のニュースとアメリカのニュースは欠かせません。しかし、それよりも何よりも重要なのは、人間関係でしょう。技術的な問題よりも、人の信用が重要だと思います。人の信頼を得るには、人とこまめに会うことが大切です。我々ももう60歳に手の届く歳になりますので若者とはなかなか話が通じないところがあります。しかしそれではいけないと、ワシントン大学や各地のコミュニティ・カレッジからインターンを採用してきたことが自慢です。もうかれこれ20人近くなりますが、今でもここを故郷のように思ってくれ、手紙をくださることもあります。これは笑い話なのですが、インターンをしてくれた方が、インターネットならぬ、『インターン・ネット』 というニュースレターを最後のプロジェクトとして作ることになっています。年齢に関係なく、いろいろな人とおつきあいすれば、お互いに学ぶところが多いですね。それがなければよくないと思いますよ。

今後の展開

今後はどのような展開を考えておられますか。

1)アメリカで一旗上げたい人をサポートする。私は安宅産業で8年、銀行で14年、自分の会社で14年と働いてきました。金を稼ぐことに徹するという意味での仕事は後3~4年で卒業する予定ですが、自分としては完全にリタイアするつもりはありません。これからは、アメリカで一旗あげたい方のお手伝いをしていくことができればと考えています。なぜなら、ひいてはそれが自分がここにいる価値の1つになるのではと思うからです。

2) 日本人の中小企業を代表する団体を作る。現在、日本企業のための商工会、日本企業と米国企業のための日米協会、日系アメリカ人のための商工会議所などさまざまな団体が運営されていますが、アメリカに来て1人で会社を始めた日本人、特に中小企業の方々を代表してくれる団体はありません。また、今の人は独立心が強いがために、そういう団体を欲してもいません。自分の仕事をキープするのに必死な状態です。しかし、誰の助けも借りずに仕事をすることはできないはずです。今は誰も気がついていませんが、そういった中小企業の声を多少なりとも世間に伝える団体を作らなければ、20年~30年たっても自分たちを代表してくれるところがないままの状態が続くと思います。これからそういった団体を作り、共通した悩みや問題点を世間にも理解してもらいながら、他の人に協力できるところは協力することが必要です。

3) 自分の意見を伝える。失敗を恐れない。成功するために努力する。私は日本の大企業、アメリカの大企業、そして自分がアメリカ人との共同経営者としての会社という場でのやり方を経験してきました。日本とアメリカを一般化しすぎることは好きではないのですが、アメリカではとにかく自分で考え、間違っていてもいいから自分の意見を伝えることが大切です。その結果、ボスと意見が対立することになってもかまわない。最終的にボスに従う必要はあるかもしれませんが、自分の意見は必ず伝えるべきだと思います。アメリカのいいところは、1回失敗しても、そこから立ち直ればヒーローになること。そういう気概がなければ、アメリカでは成功していかないと思います。ですから、私のところで働いている人は、失敗を恐れては困ります。我々がフォローしますから、失敗しても次にがんばってくれたらいいと常に言っています。一方、日本では1回失敗してしまうと、2回目のトライは許されないという悪習があります。そんなことでは、失敗することを恐れるあまりに、何もしなくなってしまいます。むちゃくちゃなことをされては困りますが、ちゃんとやろうとして失敗するマイナスより、何もやらない場合のマイナスの方が大きいのです。

4) 自分に投資する。 また、私はいつも「自分に投資しなさい」と言い聞かせています。若い時は、損だとか得だとかはあまり考えてはいけません。例えば、ちょっと高くついても、そこに行くことで良いチャンスに恵まれたり、何かを学ぶことができるかもしれない。小さくまとまるのではなく、自分の金を自分のために使うことは必要なのです。自分を成長させるためには自分のためにも、人のためにも使わなくてはいけないお金があるのです。

今後の抱負をお聞かせください。

前述のような団体を作ろうとする時に考えなくてはならないのは、我々が平和ボケしているということです。「アメリカは自由な国だから、自分も好きなことを好きなふうにやっていい」と勘違いしている上に、何もかも自分の力でやっていると思いこんでいる。ところが、現実は違うのです。日系人の方々とお話しするとわかりますが、みなさんとても苦労されてきました。外国人土地法が撤廃されて、日系人や日本人がワシントン州で土地・建物を建てたり買ったりできるようになったのは、1962年のことでした。ですから、日本人が自由な形で好きなことができるようになってから、まだ30~40年しかたっていないのです。私が高校生の時にオレゴン州の田舎に来た時(1963年~1964年)は、日本人であるがために嫌な思いをしたこともありましたし、私がシアトルに来た1980年代初頭でも、多少なりとも日本人に対する偏見がありました。現時点で最も感謝し、将来も絶対に守らなくてはならないのは、日本とアメリカの友好関係です。これがなくては自分たちの自由も何もないのです。では、空気のように思っている友好関係を守るために自分たちが何をしなくてはならないかと言うと、自分たちだけのことを考えるのではなく、それを犯すものには断固として反対しなければなりませんし、それを守ろうとしているところは少しでもサポートしていかなければならないのです。

掲載:2004年1月



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