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One Reel 日本部門部長 若滝流ニ代目家元 瀧 りえさん

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シアトルの夏は、独立記念日の花火大会で始まり、音楽・ダンスの祭典 WOMAD や、ウォーターフロントのサマー・ナイツ・アット・ザ・ピアを経て、シアトル芸術祭バンバーシュートでしめくくられます。今月は、そんなシアトルの名物イベントを手がける非営利団体 One Reel の日本プロジェクト部マネジャー、瀧りえさんにお話を伺いました。
※この記事は2000年12月に掲載されたものです。

瀧 りえ (たき・りえ)

1968年 千葉に生まれる。

1974年 6歳で祖母若滝左京に日本舞踊を師事。

1986年 若滝流創流と供に若滝京となる。

1992年 早稲田大学卒業。シアトル大学入学。

1994年 若滝流2代目を襲名。

1995年6月 シアトル大学卒業。Japan America Societyに勤務。『Japan in The Suitcase』 を担当。

1996年10月 ヨーヨーマの日本公演に通訳として参加。公演中に就労ビザがおり、現在勤務しているOne Reelに就職した。現在に至る。

幼少時代

イベント団体に入社されるということは、小さい頃からイベントがお好きだったのですか?

小学校では子供会、中学校では生徒会、高校では文化祭、そして体育祭などで、さまざまな企画や応援合戦などに携わっていましたから、昔からかなりのイベント好きだったようです。もっとも、中学時代には、生徒会長でありながら、マンガやアイドルの写真を学校に持ってきたりして先生に怒られたこともありますが・・・。また、大学時代には所属していたスキーサークルの資金集めで森高千里のコンサートを企画・実行し、かなりの収益金を集めました。その頃から、みんなで何か1つの物に向かって努力し、当日に爆発!というイベントにかなり傾いていたようです。

初めての渡米

アメリカに来られたのはいつですか。

日本の大学時代に1ヶ月の語学留学でサンディエゴに滞在したのが最初でした。ツアーではなく、「1人で行きたい、何でも自分でやってみたい」と思い、業者にはホストファミリーの斡旋だけしてもらい、渡米しました。

アメリカに到着したときの印象はどうでしたか。

英語もろくに話せず、何がなんだかわからない状態だったので、ロサンゼルスの空港がとてつもなく広く感じられたのを覚えています。しかも、ロサンゼルスの移民局が混雑していたため、予定していたサンディエゴ行きのフライトに乗ることができなかったのです。今なら「フライトに遅れるから先に手続きさせてくれ」と主張できますが、その時は黙って順番を待っていただけでした。ようやく移民局・税関を通りぬけ、新しいフライトの手続きをした後、今度は国内線カウンターがどこにあるのかわからず、また、道順を聞いても理解することができず、また2回目の飛行機も逃してしまいました。やっと国内線カウンターにたどりついた時には、もう半日ぐらい過ぎていたと思います。でも、ホストファミリーには無事合流。大変でしたが、これで「どうにかなるもんだ」という度胸がつきましたよ。

アメリカ生活はどうでしたか。

アメリカ自体は好きになりました。でも、英語を書けても話せないという現実を目の当たりにし、無力な自分を思い知らされました。「いつか戻ってきたい」と思いながらアメリカを後にしましたが、それ以後、大学の交換留学プログラムに参加しようと考えつつも、小さいころから続けている日本舞踊にものめりこみ、タイミングがつかめないまま就職活動に突入していきました。

日本舞踊の家元

瀧さんは日本舞踊の家元ということですが。

幼い頃から音楽がなると所かまわず、ちゃぶ台やデパートのエスカレーターの前で人目をはばからず踊ってしまうぐらい踊りが好きで、日本舞踊をやっていた祖母若滝左京の影響を受け、6歳の頃に初めて手ほどきを受けました。日本での大学時代には週4日の稽古もこなすなど本格的に踊りに集中。しかし、過度の稽古とサークル活動で行っていたスキーのトレーニングがたたって、大学3回生で生まれつきの膝蓋骨亜脱臼症候群(*1)のため膝を痛めてしまいました。踊りを続けるためには手術が必要と言われ、もちろん手術を決行。手術は成功し、その後も無事に踊りを続けています。そして、祖母が独立して起こした若滝流の2代目家元を襲名。現在は、”表現者” として、ジャンルにこだわることなく古典はもちろん、コンテンポラリーな音楽や動きを取り入れた踊りも創作しています。祖母も、私なりのスタイルでやればいいと理解してくれていますし、お弟子さんたちも私のこちらでの活動を楽しみにしています。お転婆な2代目ということで(笑)。

シアトルのあちこちで舞踊を披露されているそうですね。

シアトルに来た翌年の1993年から3年連続で年に1回、キャピトル・ヒルのコーニッシュ・カレッジ・オブ・アーツのシアターで、舞踏ダンサーのジョン・ラギと共同で、能・狂言、日本舞踊の歴史や動き、そして白塗りの舞台化粧(これには自分でビデオも作成)をレクチャー。地元の日本祭りでの古典舞踊や、音楽グループとの共同創作舞踊、シアトル・アート・ミュージアムでの舞踊やレクチャーなどもしましたね。また、1999年は、アジアン・ミュージアムのジャパン・ウィークで、古典舞踊と創作舞踊を披露したり、シアター・オブ・ジャクソンのアジアン・アーティスト・シリーズで、『つるの恩返し』をモチーフとしたコンテンポラリー・ダンスの作品でつる役も演じたり、さらにジャンルは広がっています。そして、今年の夏に行われたシアトルの日本庭園40周年記念イベントでは、ノース・アジアン・アメリカン・シアターのプロデュースによる 『FANTASTICS』 というブロードウェイ・ミュージカルでミュート役を「黒子」として担当。これは、明治時代の日本を舞台に特別アレンジされたものです。当日は、パフォーマンスの一部で即興の日本舞踊を披露しました。

留学とは

そして、2度目の留学を決意されたのはなぜですか。

4回生になって、テレビ番組制作会社を対象にした就職活動を始めました。なにしろ何かを作り上げることが好きなものですから、自分にうってつけの仕事だと考えたのです。しかし、またアメリカに行きたいという思いもありました。その理由の1つは、英語が好きだったこと。中学時代に英語を教えてくれた山口友子先生のおかげで、今の私があると言ってもいいぐらいです。もう1つの理由は、日本文化を海外に紹介すること。というわけで、通訳になり、日本文化を広めることができればいいなと、漠然と考えていました。

いろいろ悩んだわけですね。

結局、就職活動は実を結ばず、私は悩みながらも留学することを決意しました。そして、通訳として修士が取得できるモントレー・インスティチュートの大学院レベルに願書を出しましたが、TOEFLの点数が足らないことから聴講生としての受け入れしか許されず、またいろいろ悩みました。しかし、最も大きな悩みは、自分がアメリカで何をしたいのかが漠然としていたことです。通訳になりたい、日本文化を広めたい、と思いながら、これというはっきりしたものがなく、不安にかられました。今から考えると、私は「英語を話す」ということに憧れていたのです。

しかしそこで転機が訪れた。

そんな時、栄陽子さんという方が書かれた留学体験記を読んだのです。とてもおもしろくて勇気づけられたので、彼女のカウンセリングを受けることにしました。栄さんは、とてもサバサバしていておもしろい方で、「通訳になりたい」 と言う私に、「あなた、バカじゃないの」 と答えました(笑)。 そして、「どんなにがんばっても、英語は帰国子女やネイティブにはかなわない。通訳は、自分の意見を主張せず、影になる役目。あなたには向いてない。それよりも、これだけは負けないというスペシャリティを作るべき」とおっしゃったのです。まさに “目からウロコ” でした。そして、これが本当のカウンセリングだと思いました。つまり、相手の人生を考えたアドバイスを与えることによって、その人の中にあるものを呼び覚ますのです。こんなことができる人は、そういるものではありません。そして、私は迷うことなく、コミュニケーションを専攻することに決め、シアトル・ユニバーシティに留学しました。

シアトル・ユニバーシティでは、何を勉強されたのですか。

専攻はコミュニケーション。言葉遣いで人をひきつける方法や、スピーチの仕方、組織内のコミュニケーション方法、マスメディアでのライティング及び記事執筆、プレス・リリースの書き方、ケース・スタディ、理論を学びました。また、グループ・プロジェクトでは、エイズにかかった子供たちの施設 Rise N’ Shine の地域広報を行い、寄付金を集め、PRの方法を習得。また、個人的には、1994年9月から1年間、大学内のジャパン・クラブ会長として日本語のチューター・プログラムをコーディネートや1995年の阪神大震災の被災者への募金活動を実行。校内で日本人学生達が作ったカードやクッキー、いらなくなった服を販売したり、大学のステューデント・アソシエーションでプレゼンテーションを行って大学から寄付金をいただいたりと、1週間足らずで合計1,500ドルを被災者団体に寄付することができました。また、ジャパン・クラブの仲間と共に、敬老という老人ホームへ2年間毎週金曜日通い続け、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に歌を歌ったり、日本舞踊を披露したりして、「生きてて良かった」と涙を流して喜ばれました。良い経験ばかりでした。

卒業、しかし・・・

今現在お勤めのOne Reelでは、最初にインターンとして始められたと伺いましたが。

One Reel では、卒業の数ヶ月前からインターンシップをしていました。特に夏のバンバーシュートは猫の手も借りたいぐらいの忙しさなんですよ。そして、夏が終わり、インターンシップも終わった後、プラクティカル・トレーニング・パーミッション(労働許可証)で、今度は Japan-America Society で約9ヶ月勤務しました。ここでは “Japan in The Suitcase” というプログラムを担当。これは、小学校や高校で日本文化を教えるというもので、小学校ではスーツケースからランドセルや給食係が着る白衣、黄色い帽子、教科書などを出し、「健太郎君と学校に行く」という設定で、小学生の生活を通して日本文化について学んでもらいます。高校では、初めて日本人の家に行った時のマナーや、買物のノウハウなどを教えます。この実演をするボランティアの育成や、学校とのスケジュール調整、資金集めなども担当しました。

それでまた One Reel に戻られたのはどういうわけですか?

Japan-America Society が移民局に就労ビザを申請してくれ、発行を今か今かと待っていたのですが、労働許可証が切れる2ヶ月前の4月に、非営利団体の宿命からか、「来年は予算不足で雇えない」と言われたのです。せっかくビザを申請していたのに、すべてが水の泡になりました。しかし、ちょうどその時 One Reel から夏の一連のイベントでの仕事が舞い込み、なんとOne Reel が就労ビザもスポンサーしてくれることになったのです。現在の上司ジェーン・コードリや社長のノーム・ランジルには足を向けて眠れませんよ(笑)。しかし、すべての書類を揃え、申請を完了したのは9月のこと。年々、就労ビザの発行が厳しくなっている中、この先アメリカに残って仕事ができるかどうか、ビザが確定するまで不安な毎日を過ごしました。

ヨーヨーマのツアーに参加

そこで、ヨーヨーマですか。

One Reel でビザを申請してもらったのは良かったのですが、プラクティカル・トレーニング許可証も切れてしまい、ビザがおりるまで米国で合法的に就労することができず、発行の知らせを今か今かと待っていた時のことです。あのチェロ奏者のヨーヨーマが、演奏とお芝居が1つになった舞台の日本公演を行うことになりました。これは、ヨーヨーマと、アメリカ・イギリス・日本のバイオリニスト、バス、ビオラ、フルート奏者達が音楽、アメリカ人のピエロ役者のロレンゾ・ピクルさんと日本の女優の毬谷友子さんがお芝居を担当するという劇中劇と、宮沢賢治生誕100周年を記念した彼の作品の朗読と音楽演奏という内容でした。そして、この公演に通訳として参加するという仕事が舞い込んできたのです。しかし、ビザの申請中に出国すると、ビザがおりない限り再入国は難しいかもしれない。悩んでいるところに、私の弁護士の「ヨーヨーマのツアーに参加するなんてチャンスは2度と訪れないかもしれない。ビザがおりなくても再入国はなんとかなる」という言葉で決心し、最悪の事態を考え、飼っていたネコと共に日本に帰りました。

ヨーヨーマはどういう方でしたか。

恥ずかしい話ですが、その時はヨーヨーマについてまったく知識が無く、最初に仕事の話を聞いた時は、「誰それ?」なんて言っていました(笑)。 でも、彼の演奏を聴いた時の感動は、今でも覚えています。彼が奏でるすべての音が心に染みわたってくるのです。また、実物のヨーヨーマは、特別なオーラを発しているような人でしたが、冗談を言ったり、何かおもしろいことをしたりして、みんなをハッピーにしようという気遣いのある、本当に魅力的な人でした。また、移動中の新幹線の中でも、「何か必要なものはないか」と、いつも周りに気を配っていました。肩もみまでしてもらったんですよ(笑)。ツアーは10日間で、東京・京都・大阪、宮沢賢治の故郷である花巻を廻りました。

そしてビザがおりたわけですね。

ツアー中にビザがおりたという連絡が入り、本当にホッとしました。そして、ツアーが終了すると同時に、One Reel での仕事が始まったのです。

One Reelとは

One Reelは、主にイベントを手がける非営利団体なのですか。

最初にご紹介いただいた、独立記念日の花火やWOMAD、サマーナイツ、バンバーシュートなどのイベントが中心ですが、その他にも、私が手がけているワイルド・サーモン・プロジェクトといった教育関係の大小さまざまなプロジェクトも行っています。国際色が強い活動が多く、特に日本文化には力を入れていて、過去には大歌舞伎や狂言のツアーを行ったり、日本の劇団ふるさときゃらばんと共に、米をテーマにした日米合作ミュージカルを、アメリカ、日本、そしてバルセロナ・オリンピック芸術祭で公演しました。

そのワイルド・サーモン・プロジェクトについて教えてください。

このプロジェクトは、1996年から手がけているもので、北太平洋沿岸に住む大人や子供を、サーモンを通して結びつけようというものです。元々は、チンパンジー学者として知られ、現在は環境をテーマとした国際教育プロジェクト「ルーツ&シューツ」も推進しているジェーン・グドール女史が、1994年にOne Reel を訪れた際、当団体の国際的なネットワークを利用して、サーモンをテーマに教育プロジェクトを行ってはどうかと提案したことが発端となっています。第1段階は 『First Fish / First People』 という、サーモンをテーマとしたアンソロジーの出版です。日本のアイヌ、ロシアのシベリア、サハリン、そしてアラスカ、カナダのブリティッシュ・コロンビア、そしてここ米国北西部の先住民族の文化的または政治的リーダー13名に、サーモンに関する思い出、または、エッセイ、詩を執筆していただきました。日本のアイヌからは、当時参議員だった萱野茂先生とその息子の志朗さん、そして、チカップ・美恵子さん、小田イトさんにご登場いただきました。

そういう方々を、どのように探し出すのですか。

アラスカやカナダ、米国北西部は、One Reel の出版物担当者がリサーチしました。ロシアは、日本のアイヌの方々にご紹介していただきましたが、日本のアイヌの方々は、日本で広いネットワークを持つ劇団ふるさときゃらばんにご紹介いただいたり、独自に調査したりしました。ふるさときゃらばんと One Reel は、日米合作ミュージカル制作以来深いつながりがあるんですよ。そして、萱野先生や他の方々に手紙でプロジェクトの説明をし、実際にお会いして、執筆を承諾していただきました。アイヌの方々の原稿は、私のボスで日本語も堪能なジェーン・コードリとともに翻訳し、他の作品と共に1998年9月に University of Washington Press と共同出版され、同月に行われたバンバーシュートでデビュー。その際には、執筆を御願いした方々全員をシアトルにお招きし、バンバーシュートでそれぞれのお話を朗読していただり、サーモンと先住民族文化をテーマにパネルディスカッションを行ったりしました。その他にも、萱野先生のご協力を得てアイヌの伝統的な住居の再現や、サーモンをモチーフにした現代アートの作品展を行いました。

第2段階は子供が中心だそうですね。

前述の本の出版の準備と同時に、第2段階を開始。今度は、サーモンに関連する文化を持つ地域に住んでいる子供たちを、サーモンを通して交流させる目的で、新潟県村上市の村上小学校と、シアトルのエバーグリーン・スクールが選ばれました。村上市には日本最古の鮭の孵化場があることから、鮭の食文化が非常に発達しており、現在でも100種類以上の料理があります。

どのように交流させたのですか。

まず、それぞれの小学校の児童達が、『Never Ending Salmon Tale』 というお話を書きました。自分達の町の歴史をもとに、100年前に生まれたサーモンになった気分で、自分たちで調べた町の歴史を元に、どんな体験をしながら川を下っていったかを想像して書くのです。そして、最後に、村上市からやって来た5名の児童代表とエバーグリーン・スクールの児童とが、オリンピック半島でのサーモン・キャンプを通じてサーモンについての情報を交換、できあがったものを、バンバーシュートで共同発表しました。この発表の編集も、もちろん子供たちが行ったのですよ。

現在は第3段階に入っているそうですね。

今度は、『I Am Salmon / われは鮭の子』 というカリキュラムを作るため、昨年5月に環太平洋地域から教育関係者を招き、自然について学び、自然と人間の関係を考えることについて、さまざまなアイデアをいただきました。その後、ハードコピーで教材資料を作成し、すでに日本、カムチャッカ、アラスカ、ブリティッシュ・コロンビア、パシフィック・ノースウェストのパイロット校に配布。現在、この英語・日本語・ロシア語によるカリキュラム教材とパイロット校の学習成果をウェブサイトで公開するための資金を集めています。構成としては、

  • 序文:冒険の始まり
  • パート1:卵から仔魚へ
  • パート2:稚魚から未成魚へ
  • パート3:大海原への冒険
  • パート4:故郷への道

となっています。人間とサーモンの人生を照らし合わせ、アクティビティを通して、人間の社会と自然の関わり合いを理解します。さらに、違いや共通点、そして、自分の住んでいる地域や世界について学ぶことで、世界的な視野を持つ大人になってもらいたいというのが、この段階の目的です。また、夏に行われた 『Words for Salmon』 という活動では、サーモンを現すあだ名、科学用語、部族語などを、環太平洋地域から集めました。そして、全長9メートルにも及ぶ巨大マスコットのサーモン “Salmon I Am” 君が、サーモン・プロジェクトのイメージ・キャラクターとして、今年の独立記念日にガスワークス・パークに登場し、WOMAD やバンバーシュートでもパレード。ちなみに、この “Salmon I Am” 君の体は、アラスカや日本の子供達、そして、地元の子供や大人が描いた『Words for Salmon』のウロコ3,000枚以上で覆われています。今年のバンバーシュートでは、なんと30カ国語もの 『Salmon』が集まりました。こういうイベントを通じて皆のサーモンに対する意識が高まればいいなと思います。

これからの抱負をお聞かせください。

これから、サーモン、花火、アーティスト関連のイベントを、もっと手がけたいと思います。また、もっとたくさんの人に日本舞踊を見てもらいたいですね。物を作る仕事では、言葉や文化を越えて分かち合える物があります。花火、音楽、踊りなど、自分を表現する方法は人それぞれですが、心は言葉や文化を越えて伝わるのです。そんな自己表現のお手伝いをし、たくさんの方々にご覧いただくことで、皆さんを勇気づけたり、ハッピーにすることができたりすればいいなと思います。これを読んでくださった方からも、面白いアイディアを受け付けています!

【関連サイト】
One Reel

掲載:2000年12月

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