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シアトル・シンフォニー トロンボニスト・山本浩一郎さん & バイオリニスト・蒲生彩子さん

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山本浩一郎さん (トロンボーン奏者)、蒲生彩子さん (バイオリン奏者)

今シーズンからシアトル・シンフォニーの正式楽団員として活躍されているトロンボーン奏者の山本浩一郎さんとバイオリン奏者の蒲生彩子さんにお話を伺いました。
※この記事は2005年12月に掲載されたものです。

山本 浩一郎(やまもと こういちろう)

1971年 東京生まれ
1983年 トロンボーンの勉強を開始
1987年 東京音楽大学付属高校入学
1990年 ハンガリーのリスト音楽院に入学
1991年 日本金管打楽器コンクール1位および大賞受賞
1992年 チェコスロバキア・プラハの春音楽祭でディプロマ賞受賞、ビテオ音楽祭で最優秀ソロイスト賞受賞
1994年 ジュリアード音楽院入学
1996年 メトロポリタン歌劇場オーケストラに入団
2001年 ソロ・デビューアルバム 『Proof』 を発売
2005年 シアトル・シンフォニーにプリンシパル・トロンボーンとして入団

蒲生彩子(がもう あやこ)

4歳の頃にバイオリンを習い始め、8歳で桐朋学園大学の音楽教室へ。桐朋女子高等学校音楽科、桐朋学園大学を経て渡米
1998年 ボストンのニューイングランド音楽院学士課程に編入
2000年 全校コンチェルト・コンペティションで優勝、オーケストラと初競演を果たす
2001年 ニューイングランド音楽院を優等で卒業、同年にジュリアード音楽院の修士課程に入学
2003年 ジュリアード音楽院を卒業後、オレゴン・シンフォニーに第1バイオリニストとして入団
2005年 シアトル・シンフォニーに第1バイオリニストとして入団

【公式サイト】www.seattlesymphony.org

音楽家になるまで

音楽家になられるまでの道のりを教えてください。

山本:
母親がバイオリン奏者で、父親が日本フィルハーモニーのトロンボーン奏者という、音楽をたしなむ両親を持ったことに大きな影響を受けたと思います。幼い頃はサッカーや水泳などもしましたが、中学生になったある日突然、トロンボーンに興味が湧いて、その時からトロンボーン一筋。ピアノもやりましたがすぐにやめ、バイオリンはさわったのも覚えていないぐらいです。東京音楽大学の付属高校に入学してから、ハンガリーのブタペストにあるリスト音楽院でも2年半にわたって勉強したのですが、ちょうどニューヨーク・フィルハーモニックがブタペストにやって来たことがきっかけで、尊敬するトロンボーン奏者で教授のジョセフ・アレッシー氏に「ジュリアード音楽院に来ないか」というお誘いを受けました。そして1994年から2年にわたってニューヨークのジュリアード音楽院で学び、1996年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場オーケストラのオーディションに合格し、今年春まで同オーケストラで演奏していました。

蒲生:
私の場合は母が趣味でエレクトーンやピアノを教えていたので、幼い頃から音楽が周りにあったのですが、NHK交響楽団の演奏を 『N響アワー』 というテレビ番組で見て、「バイオリンをやりたい」と思いました。親の仕事の関係で引越しが多かったのですが、小学校3年生の時に桐朋学園大学付属の音楽教室に入り、音楽中心の生活に。そして、桐朋女子高等学校音楽科に入り、そのまま迷うことなく桐朋学園大学に入学。最初はヨーロッパで勉強したいと思っていたのですが、当時師事していた先生にボストンのニューイングランド音楽院で後進の指導にあたっていた名バイオリニスト、ミシェル・オークレール氏(1924-2005)を紹介していただき、同音楽院に編入することになったのです。そして同氏について3年間学び、2001年に同音楽院を卒業したのですが、「やはりもっと勉強したい」と思い、全額奨学金を提供してくれたジュリアード音楽院修士課程へ。当初の希望通り、ジュリアード弦楽四重奏団の第1バイオリン奏者でもある、ジョエル・スミルノフ氏に師事することができ、とても充実していました。

海外に出て、カルチャーショックや大変だったことはありませんでしたか。

蒲生:
アメリカに初めて来た時は、英語も大変でしたけど、何が大変だったかと言って楽器の実技以上に大変なことはありませんでした。毎日とにかく練習練習。カルチャーショックなどと言ってるひまはなく、とにかく上手になりたいという一心でした。音楽家は孤独ですよね。結局、自分しか頼ることができませんし。

山本:
確かにそうです。高校ぐらいから習い始めた躾のなっていない若手の金管楽器奏者よりも自分の技術が下だったり音が良くなかったりした時は、大変なカルチャー・ショックを受けました。ものすごく冷たくされたりして、「今に見てろよ」と思ったことが何度もあります。また、アメリカに来たばかりの時は、「良くない」と言われているのはわかっても、「何が良くないのか」がわからないほど自分のレベルが低いことにもカルチャー・ショックを受けました。時間がたつにつれてだんだん細かいこともわかってきましたが、それと同時に「どうしよう、どうしたらいいんだ」という気持ちがありました。もう忘れていたことですが、確かに最初は大変でしたね。よくここまで来たと思います。

蒲生:
しかも、日本から来た日本人はもともと気が小さいし、外交的というよりは内向的だし、人より一歩下がるタイプが多いでしょう。でも、気がつけば私も変わって来ましたね。あの頃の苦労があっての今です。感慨深いです。私、シアトル・シンフォニーに受かった時は、嬉し泣きしました。メジャーなオーケストラにずっと入りたくて、ずっとがんばってきましたから。オーディションはオリンピックに例えられたりするんですよね。日々の練習を怠ってはいけませんし、本番は1度しかなく、そこで失敗したら後がないですから。そういう意味で、精神的にも体力的にもきついですね。

山本:
オーディションは、金の卵を見つけるためではなく、落とすために聴いていますからね。取り返しがつかないし、やり直しがきかない。メトロポリタン歌劇場のオーディションではセカンド・トロンボーンに220人、シアトルのオーディションではプリンシパル・トロンボーンに80~120人ぐらい来たと聞きました。まず、レジュメを見て、録音を聴いて絞り込んでいき、実技の生演奏をする人が残ります。シアトルではオーディションが長かった。通常の最終審査は20分ぐらいですが、僕はその2~3倍の40~50分にわたってステージにいて、言われるままに吹いていました。

蒲生:
オーディションは第1次、第2次などがあり、数日にわたることがありますので、体力勝負ですね。さらにトロンボーンは音が目立つので、厳しかったのではないでしょうか。

山本:
働きながらオーディションを受けるのも大変。受けられる日を確保し、準備するのも大変でしたよ。

シアトル・シンフォニーへ

シアトル・シンフォニーへ来られることになったきっかけを教えてください。

シアトル・シンフォニーの拠点、ベナロヤ・ホール

©Lara Swimmer
シアトル・シンフォニーの拠点、ベナロヤ・ホール

蒲生:
オーケストラの仕事というのは滅多に空きが出ませんので、どこかに空席が出たら応募するというのがパターンですよね。

山本:
そうですね。音楽学校を出ても仕事がないのが当たり前。毎年、オーケストラでは千何人、トロンボーンだけで何百人が、全米各地の音楽学校を卒業しますが、僕のプリンシパル・トロンボーンや、蒲生さんのファースト・バイオリンなどというポジションは20年~25年に1度ぐらいしかあかないのです。野球のチームのようですが、シンフォニーにもメジャーとマイナーという位置づけがあり、サンフランシスコ、シアトル、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、クリーブランド、フィラデルフィア、ロサンゼルスがメジャーで、そういったところのオーディションでは1つのポジションに200人ほどが応募します。シアトル・シンフォニーでトランペットやチューバなどを担当しているジュリアード時代の友人から、シアトルは住みやすい町で、コンサート・ホールが新しくなり、これから若手演奏家をどんどんいれて、経済的・技術的・環境的にもとても将来性がある・・・といったことを聞いていましたから、プリンシパル・トロンボーンのポジションがあくと知った時はすぐに応募を決めましたよ。シアトルに来る前に務めていたメトロポリタン歌劇場のオーケストラではセカンド・トロンボーンでしたが、プリンシパルはリーダーで、責任もやりがいもある。そして1回オーディションを受けて合格し、正式にオファーを受け入れる前の6月に3週間ほどトライアルで来てみたところ、とても演奏しやすかったので入団を決心しました。オーケストラもホールも良く、空気も食べ物もビールもおいしくて、気に入りました。今も、とても快適です。

蒲生:
私は在学中にオレゴン・シンフォニーのファースト・バイオリンに合格し、すぐにオレゴンへ。オレゴンはどんなところか知らなかったのですが、ノースウェストはアジア人にとってとても住みやすくて気に入ってしまいました。オレゴンにいた2年間も各地でメジャーなオーケストラのオーディションを受けていましたが、シアトルにあきが出ると聞いて、「これは受けるしかない」と。オレゴン・シンフォニー時代にこのベナロヤ・ホールを見学したことがあり、「すばらしいホールだな」と思っていましたから。

通常はどのようにして空きが出ることを知るのですか。

山本:
演奏家用の新聞などに掲載されるので、みんながレジュメを送ります。

蒲生:
空席になるだいたい3ヶ月前に広告も出ますね。

山本:
トロンボーンをやっている人にとって、メジャーなオーケストラのトロンボーン奏者はヒーロー的存在なので、シカゴは誰、ニューヨークは誰、と、みんなが知っています。さらに、トロンボーンは空きが少ないので、「あそこが空くんじゃないか」と、噂でまわってきますね。

実際に楽団員として演奏されてどのような感じですか。

シアトル・シンフォニーのパフォーマンス

©Craig Richmond
シアトル・シンフォニーのパフォーマンス

蒲生:
バイオリンでは私が最年少だと思いますが、年齢層も幅広く、国籍もさまざま。女性も男性もいます。そんな私たちが1つの音楽を作り出し、その中に私がいると思うと嬉しいです。シアトル・シンフォニーは演奏水準も高いので、さらに大きな満足感が得られますね。

山本:
メトロポリタン歌劇場のオーケストラはレベルも給与もシアトル・シンフォニーより上とされていますが、トロンボーンのようにあまり目立たない楽器は余計に虐げられているように感じていました。でも、シアトル・シンフォニーに来てみて、すばらしい指揮者とすばらしいシンフォニーに恵まれたことを実感し、「しっかりやらないと」というテンションを感じました。また、シアトルはお客さんのマナーがとてもいいことにびっくりしました。ニューヨークでは開演から最初の30分は携帯電話が鳴りっぱなしです。

蒲生:
シアトルはお客さんがあたたかい感じで、なんというか、音楽に集中しやすいですね。

忙しい1日というのはどのような感じですか。

蒲生:
楽器を弾くのは体を使う仕事でもありますし、集中力が必要な仕事ですから、リハーサルとコンサートをあわせた時間が1日何時間までと決まっています。

山本:
それでも1日に8時間ぐらいは楽器をさわっていると思います。シアトルは人口のわりに音楽が盛んで、この近隣にもたくさんオーケストラがありますし、ユース・オーケストラが4つもあります。そして、オーケストラの楽団員がシンフォニーとオペラの両方を手がけ、オペラが始まったらそちらでも演奏します。僕は今年からいきなりワシントン大学でトロンボーンの生徒6人を教えることになり、若い生徒たちにエネルギーを吸い取られて大変(笑)。ですから、忙しい日は午前8時半ぐらいに自宅を出て、午前9時にはホールに来て午前中のリハーサルをやり、それからワシントン大学で3~4時間教え、夜はコンサート。それが最も忙しい日で、家に帰る時はクタクタです。

蒲生:
私はオレゴンにいた2年間、仕事に出ていない時間もずっと家で練習していました。その反動で、今はオーケストラに専念できるのを楽しみたいです。

シアトルで気に入っていることは。

蒲生:
都会と自然のバランスが取れていること。アウトドア好きにはもってこいですね。またアウトドア・スポーツを始めようと思っています。また、シアトルはオーガニック・フードにとても力を入れていますよね。いろいろな食材が簡単に手に入るのは嬉しいです。

山本:
僕もまったく一緒です。田舎すぎるところに住んでしまうと、人間的にさびついてしまう部分もあるかもしれませんが、シアトルにはいろいろな文化もあるし、車を1時間も走らせば雪山があります。さらに、空気もビールもコーヒーも魚もおいしいのも嬉しいです。

今後の抱負についてお聞かせ下さい。

蒲生:
オーケストラの演奏に少しでも貢献できればと思っています。細く長くやっていきたいですね。

山本:
プリンシパルのメンバーとして、1人でも多くのお客さんがベナロヤ・ホール、そしてオペラ・ハウスに来てくだされば嬉しいです。そしてそのお客さんが満足してくれるようにがんばろうと思っています。個人的には少しでもいい音を1日でも長く出せれば幸せです。

【関連サイト】
Seattle Symphony
山本浩一郎公式サイト
東京音楽大学付属高校

Franz Liszt Music Academy
桐朋学園大学音楽部門
The Julliard School

掲載:2005年12月

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