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堀剛さん (ソフトウェア開発エンジニア)

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インターネット上のストリーミングメディア配信で知られるリアル・ネットワークス社。今月は、そのシアトル本社で、ウェブを利用したオーディオやビデオなどのマルチメディアサービスの送受信に使うソフトウェアとサービスの開発に携わっている堀剛さんにお話を伺いました。
※この記事は2001年2月に掲載されたものです。

堀剛(ほり ごう)

1971年 東京に生まれる

1991年6月 サンフランシスコの英語学校入学

1991年12月 SCCC の英語学校編入

1992年9月 SSCC 入学

1994年1月 University of Washington で心理学専攻

1995年9月 コンピュータ・サイエンスの学位コース開始

1997年6月 WRQ で6ヶ月間のインターンシップ

1998年3月 心理学とコンピュータ・サイエンスで2つの学位取得、首席で卒業

1998年6月 Real Networks 入社、現在に至る

学校をさぼってばかりの少年時代

幼い頃からコンピュータ関係に進みたいと考えていましたか。

まったくそういうことは考えていませんでした。子供の頃は合唱団やスイミング、トランペット、アイスホッケーなどをやり、いろいろなことに興味を持ちましたが、とにかく落ち着きがなく、いたずら好き。先生にも「やる気はあるようですが」とよく言われていました。今でもいたずら好きで落ち着きがないという点では、あまり変わっていません。中学校も卒業はしましたが、よくさぼっていました。理由は・・・学校が自宅から遠かったからです(笑)。自転車で30分もかかるので、途中で友人の家に遊びに行ったりしてはさぼっていました。でも、高校に入るのは当たり前のように思っていたので、「このままでも絶対に受かるところを教えてくれ」と先生に頼み、無事、高校入学を果たしました。

高校時代にアメリカへ来ることを考えたわけですか。

高校を卒業したらアメリカに行くと決めたのは、中学2年生の時の重要な出会いのおかげです。カナダとシアトルに住んでいた帰国子女の友達ができ、彼からアメリカのいろいろな話を聞きました。と言っても中学生ですから、ボロボロの車が走っているなどの街の様子や、漫画・テレビ・音楽についてなどで、小難しい話ではありません。でも、憧れを芽生えさせるには十分でした。また、アメリカの大学は勉強する環境が整っているので、誰でも大学に入ることができ、一生懸命勉強すれば良い結果が出せると言われたことが、アメリカに行こうという気持ちにつながったとも言えます。

でも本当に勉強をしたのは、アメリカに来てからなのですね。

勉強したかったのですが、大学に行ってから勉強しようという言い訳があったので、それまではほとんど勉強する気になりませんでした。高校入学後はなんだか少し落ち込み気味で、高校1年生も留年。その後、1年生と2年生の時に生徒会長をやりましたが、ほとんど学校に行かなかったので、「いつも学校にいない生徒会長」と言われていました。全校集会での挨拶でも、「校長先生の話が長かったので、これで終わりにします」と一言で終えたりして、ふざけていました(笑)。

ついにアメリカ・シアトルへ

そしてアメリカ行きを実行する。

3年生になって、進路指導の先生が「就職先を紹介してやろうか」と話したのを覚えています。先生も進路を決めるのが仕事ですから、早く決めてくれという感じでした。でも、「いや、オレはアメリカに行きますから」と言って、留学斡旋機関に紹介してもらった、サンフランシスコの郊外にあるドミニカン・カレッジの英語学校に入学。でもそこでもイタズラ小僧で、寮から追い出されたりしていました。

シアトルに来られたのはそれからですか。

そうです。このままではいけないと一念発起して。「留学は2度目が本番」というのをモットーに、運転免許を取って車を買い、サンフランシスコを離れてシアトルへ来ました。シアトルを選んだのは、ちょうどグランジやニルヴァーナでシアトルを知っていたのと、前述の帰国子女の友達から、「小さくて静かな街」という話を聞いていたので、勉強にぴったりだと思ったからです。シアトルに到着してから、英語学校を片端から周り、ついにシアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジで入学手続きを開始。手続きを待っている時、それまで2週間も車中生活だったので、とりあえずシャワーを浴びたいと考えていると、ちょうどその前に並んでいた人の中に、ふと、自分と合いそうな人を見つけました。そして「1日でいいから泊めてくれ」と頼み込み、結局そのまま居候。これがまた運命の出会いとなりました。

2度目の転機ですね。

その人がとにかく賢くて、話をするといつも負かされました。知識のレベルがまったく違っていたのです。そこで初めて、物を知っているということの楽しさを痛感し、ついに、本当に勉強したいと思いました。その後、英語学校を終えてサウス・シアトル・コミュニティ・カレッジに移ってからは、必死で勉強しました。最初の成績は低かったのですが、それから徐々に要領がわかってきて、すべてを吸収していったと言えるでしょう。1年半で4年制大学に編入するための学位 Associate of Arts Degree(準学士号)を取得し、授業料が比較的安い University of Washington に編入の申請をしました。

ついにアメリカ・シアトルへ

そこでまた一波乱あったそうですが。

不合格通知が来たのです。でもへこたれませんでした。コミュニティ・カレッジの教授陣から推薦状をいくつかもらい、「私を入学させないと、大学にとってひどい損失になる」というエッセイも提出して、University of Washington の Dean of Administration と交渉したのです。「最初は成績が悪かったが、その後の成長を見てくれ」と、グラフも描いてアピールしました。その後、分厚い封筒が届きました。合格の通知です。嬉しかったですね。

ここでコンピュータと初めて出会うわけですね。

最初の1年半は心理学専攻でした。高校時代に少し落ち込み気味だったこともあり、人間の心理に興味があったからです。しかし、卒業まで半年という時に、選択科目を取ることになりました。そこで、どうせならコンピュータをただ使えるようになるのではなく、コンピュータが何であるのかを知りたかったので、とりあえずコンピュータの原点のようなプログラミングのクラスにチャレンジ。もしあわなかったらそのまま心理学で卒業し、好きだったらダブル・ディグリー(Double Degree: 学位を2つ取得すること)にしようという軽い考えでした。しかし、そこでハマったんです(笑)。このクラスではプログラミングしかやりませんでしたが、パズルを解いているようにおもしろくてたまりませんでした。そして、これはダブル・ディグリーにするしかないと(心理学とは必修がまったく異なる学部なので)、数学や物理を3クォーター(学期)かけて取り直し、Computer Science の学部に合格。それから1年半、データ・ストラクチャーやコンピュータ・ランゲージ、オペレーティング・システム、グラフィックス、ネットワークなどを勉強し、ティーチング・アシスタントもこなして、summa cum laude(首席)で卒業しました。

リアル・ネットワークスに就職

それからリアル・ネットワークスに就職されたのですか。

そうです。University of Washington のキャリア・フェアにリアル・ネットワークス(以下、リアル)が来たのがきっかけとなりました。卒業前の約6ヶ月間インターンシップをしたWRQ(ソフトウェア製作会社)にいた凄腕のディベロッパーがリアルに移ると聞いていたので、「これはおもしろいことになるのでは」と応募し、採用されました。

入社の面接はどのような感じでしたか。

まず Human Resources(人事部)の担当者との面接に合格すると、別の担当者と約30分間に渡る Phone Interview(電話インタビュー)。合格すると、会社に出向き、6人の人と1時間ずつ別々に面接があります。合計6時間になりますが、プログラミングに関する質問がビシビシ与えられました。そして無事に就職。後に、面接をしてくれた人と話した際、「すべての質問に答えられたわけではないが、”知りたい” という探究心を持っていたのがポイント」だったそうです。

現在の仕事について教えてください。

ストリーミングメディア用の RTSP、RDT、RTP などのプロトコールを使った、サーバとクライエントの間のコミュニケーションを主に担当しています。また、プロトコールをデザインしている IETF(The Internet Engineering Task Force)に参加し、世界中のプロトコール・デザイナーと会議をしたりしています。それでオーストラリアやノルウェー、日本にも行きました。普段の仕事では、製品を出荷する前のインテンスな雰囲気が好きです。一つのことだけを考えて生活するということはあまりないでしょうが、出荷前がまさにそれ。普段からマジメに仕事をしていれば、そういうこともないのかもしれませんが(笑)。そして、この仕事の良いところは、最先端のテクノロジーに携わることができ、また、最先端のテクノロジーを作り上げることができるという点で、とても満足感があること。そして、労働環境の面でも、リアルではかなり恵まれています。というのも、一緒に働いている人たちが、好きでやっている人ばかり。いや、好きでなくてはできないでしょう。常に新しいものを求めて、新しいことを考えている - つまり、学び続ける職業ですから。

ご両親も喜ばれたのでは。

就職してから初めて日本に帰国した時、母親にストリーミングを見せてあげたら、「あらまぁ」。でもそれで、やっと何をしているのかわかってもらえたようです。

これから堀さんのような仕事をしたいと思っている人たちにアドバイスをお願いします。

「死ぬほどプログラムをしなさい」

これにつきますね。学校のクラスは基本のルールを学ぶところで、どこの学校でも同じです。面接をする側としては、やはり実践をやって来た人に目を向けます。つまり、チェスと同じで、ルールがわかっていても、プレーしないと話にならない。ですから在学中はまずホームワークを一生懸命やることです。そして、インターンシップははずせません。私の場合は University of Washington のクレジット(単位)と時給がもらえる Co-op というプログラムで、卒業前の6ヶ月間は学校に行かず、週に40時間のフルタイム・インターンシップをしました。インターンシップでは実践ができることが大きなメリットですが、フィールド全体、そして製作の流れを知るというメリットもあります。一つの製品の出荷には、プログラマーだけでなく、QA(品質管理)や PGM(プロジェクト・マネジャー)といった、製作に関わる人たちすべてとコミュニケーションが必要ですから、本当にいろいろなことを学べます。また、昼ご飯を一緒に食べたりすれば、人を知ることもできます。また、自分に自信をつけるという意味でも、インターンシップは重要ですよ。「アメリカでディベロッパーとしてやって行きたいけれど、英語に自信がない」と言う人がたくさんいますが、ボスや同僚とコミュニケーションをとることができ、実際にプログラミングができ、好奇心旺盛で、ロジカルであれば大丈夫。しかし、開発という仕事に携わると、忙しい時はずっと仕事をしていますし、会社での寝泊りも当然。そんな状況で長期間に渡っていい仕事をするには、労働環境が自由だとか、給料が高いとかいうことではなく、本当に好きであることが重要ですね。

これからの抱負をお聞かせください。

今の仕事も十分楽しいですが、これからまた何か新しいことをしたいですね。それが何かはまだわかりませんが・・・。まだまだこれからです。

掲載:2001年2月

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