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えりか・ヴェルヘル・デ・ディオスさん (プロダクション・アーティスト)

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ファッション雑誌 『流行通信』 創刊時の製作スタッフとしてデザインのキャリアをスタートし、『an・an』 編集部、渡米、結婚、就職を経て、長女の出産をきっかけにフリーランサーとして独立。そして、昨年で約24年間にわたるフリーランサーとしての生活に終止符を打ち、正社員として再就職された、えりか・ヴェルヘル・デ・ディオスさんにお話を伺いました。
※この記事は2004年5月に掲載されたものです。

えりか・ヴェルヘル・デ・ディオス

1967年 デザイン専門学校に入学

1969年 卒業後、森英恵が創刊した 『流行通信』 編集部へ

1971年 雑誌アンアン製作デザイン会社へ

1973年 シアトルへ

1974年 結婚

1975年 ブルークロス保険会社グラフィック部に就職

1979年 長女出産を機に退職し、フリーランサーに

1981年 次女出産、フリーランサーとして仕事を継続

2003年 ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社に就職し、現在に至る

最初の就職

デザインの道に進むことになったきっかけはなんでしょう?

絵本作家の父が仕事場で一生懸命に絵を描いている姿を見ながら育ちましたので、高校を卒業する頃にはアート関係に進みたいと考えていました。父は自分の苦労などを考えたのか「やめたほうがいいよ」と言っていましたが、デザイン専門学校に入学しました。

卒業後の進路を教えてください。

当時、世界的なデザイナーの森英恵さんが 『流行通信』 という新聞を文化出版に委託して発行されていました。それを森さんご自身の会社で雑誌として出版することになり、私ともう1人の新卒者2人が採用され、何も知らないところから月刊ファッション雑誌の製作に携わることになったのです。今から見ればすごい雑誌なのですが(笑)、これは森さんの製品のカタログ雑誌のような感じで始まりました。森さんがデザインされた洋服を掲載する他、ヨーロッパの最新情報などを紹介しました。「メンズ」というページを企画して有名人につぎつぎにインタビューしたこともありました。とにかく、2人ですべての作業を担当していました。例えば、その頃はスタイリストなんていうしゃれた職名はなく、私が靴やアクセサリーなどを借りてロケ場所を探し、フォトグラファーやモデルを雇って撮影に立ち会って、できあがったページをデザインし、国文科卒だった同期生がコピーライターとなって文章を書く、といったように、2人だけで仕事をしていたのです。また、この雑誌はシーズンごとに開催されるファッション・ショーで購入できるものでしたので、来場する直営店などに一口50冊という感じで販売したり、全国にいる購読者の皆さんに発送する宛名書きから郵便局からの発送など、何から何までやりましたね。今でもこの時の雑誌作りという経験が生きていると思います。でも、働く環境としてはものすごく辛かったんです。入社してから2年後に過労になってしまい、「これ以上働けない」と退社。貴重な経験でした。その時の同期の数人とは、今でもおつき合いがあります。

それが渡米のきっかけとなったのでしょうか。

そこではまだ本格的な渡米は考えていませんでしたが、退職して初めての海外旅行でハワイに行ったのです。今ではハワイなんて珍しくありませんが、その時の私にとっては 『外国』という感じでした。「日本ではないところに来た」という感じでしょうか。もちろん、当時からハワイは観光地ではありましたが、「新宿の小さなビルの5階にあった汚いオフィスでコツコツと自分は働いていたというのに、もっと広いところがあるんだ」ということを発見した感じがしました。そして、日本では日本での人生があるけれど、私は違うところに行ってみたいなと思うようになったのです。

再就職

それから日本でまた再就職されるのですね。

ひょんなことから、ファッション雑誌 “an・an” (アンアン)の製作会社に入社することになりました。今ではいろいろな雑誌が出版されていますが、このアンアンはその元祖的な存在で、週刊誌より大きいサイズもアンアンが最初だったと思います。元々そのアート・ディレクターをなさっていた方が所有されていたデザイン会社がアンアンの製作全体を請け負うことになり、私はそのデザイン会社に就職し、それから約2年間アンアンの製作に携わりました。でも、アンアンが出版されてからしばらくして “Non・No”(ノンノ)が発売され、若い読者には先進的すぎたアンアンは、かわいさを押し出したノンノに押され気味になってしまったのです。そこでアンアンをこれからどうするかという検討会議が開かれて、結局スタイルを変えることが決定し、アート・ディレクターが担当を辞めたのをきっかけに、私も退社しました。

渡米

それが渡米につながったわけですね。

これから何をしようかと考えた時に、アメリカに行こうかなと思いました。最初は「ハワイに行きたい」と親に言いましたが、母親に「英語もできないのに、どうやって生活するの」と言われ、ワシントン州中央部のケネウィック(Kennewick)に住む母の友人のところに行くことになりました。私はそこがどういうところかも知らないままに、「ケネウィックに行くということは、アメリカに行くということなんだ」と喜んでいましたが、ちょうど日本に遊びに来ていたシアトルに住む親戚に、「ケネウィックよりシアトルにおいで」と言われ、急遽シアトルに来ることが決定。そのようなわけで、「まずシアトルで英語で勉強し、それから自分の行きたいところへ行こう」と、シアトルにやって来ました。結局そのままいついてしまいましたが(笑)。

アメリカでの就職について教えてください。

シアトルに来てすぐ今の夫と知り合い、約1年後に結婚。今年で結婚30周年になります。英語ができるようになったら、日本でやっていた仕事をアメリカでやってみたいと思い、コミュニティ・カレッジでビジュアル・コミュニケーションのクラスを履修してから、保険会社ブルークロスのグラフィック部に就職。でも、雑誌を作っていた頃とはやり方がまったく違うのです。日本ではデザインを版下屋・写植屋用に指定すればよかったのですが、その当時のアメリカでは製図用ペンを使って細い線を描くことから、タイプしたものを切って貼り付けるなどの版下作りも仕事のうちでした。そんな感じで、長女が出産するまで2年ほど働きました。

えりかさんには娘さんが2人おられるそうですが、子育てと仕事をどのような形で両立されたのでしょうか。

1979年に長女を出産し、幼稚園に入るまでは母親がいた方がいいと思い、子育てに専念しようと決めて会社を退職。そういう環境を与えられたのはとても幸せだったと感謝しています。その後、しばらくしてから無理のないようにフリーランスで仕事をするようになりました。写植屋や印刷屋にまだ幼児だった長女も連れて行きましたね。お店の方々も娘に紙のサンプルをくれたりするなど、フレンドリーでしたね。そして2年半後には次女を出産し、最初の出産から約8年間は子供を中心にしながらのフリーランサーとして働きました。そして、1987年から当時フリーランスをしていた事務所を通して日本語の季刊誌シアトル・コンパス(当時の名前はパシフィック・コンパニオン)のプロダクションを手がけることになりました。子供も大きくなってきていましたが、会社に再就職するのではなく、自分の時間を選んで使うことができるフリーランサーとして仕事を続ける方がその時はあっていたのです。フリーランサーであるゆえに子供達の学校活動にも、ボランティアとして参加する機会にもめぐまれました。その後、1987年から2003年までの16年間、フリーランサーとしてジャパン・パシフィック社で多種の印刷媒体製作の仕事をさせていただきました。

現在の仕事

現在のウィザーズ・オブ・ザ・コーストに入社されることになったきっかけを教えてください。

一昨年、ウィザーズで2週間の約束で仕事をいただきました。それが6ヶ月に延長され、いったん辞めてからまたウィザーズから正社員として戻ってきてくれという声がかかり、入社。長い間フリーランサーでやってきましたので、就職すること、毎日通勤しなければならないことに抵抗はありましたが、これまでいろいろなことをやってきましたし、子供も独立しているので、今からは落ち着いて仕事をするのもいいかなと思って決心しました。長女は歌手の道を選びイギリスのレコード会社との契約でイギリスに住んでいます。次女は今春大学卒業でイラストレーターの道を選んでいます。娘たちの将来は多難と思いますが、2人は高校生の時から「こういうことがしたい」と言っていました。自分の夢があるというのはすばらしいです。私の中では「安定した職業に就いてくれたら」という気持ちが少しはありましたが、自分の夢に向かって一生懸命の子供達を、親として止めてはいけないのですね。逆に、子供が夢を実現できていることは、親として嬉しいことです。もし何か問題に直面しても、「自分で選んだ道なんだし、ここまでがんばってきたんだから、夢が達成できなくってもそこから今度違う道に行ってもいいじゃない?」と思うのです。

現在のお仕事の内容を教えてください。

ウィザーズという会社はマジックやデュエル・マスターズといったトレイディングカードを作っている会社です。私が所属しているプロダクションの部署は、デザインの部署が作った英語のデザインをもとにカードやパッケージ、ゲームのルールブックなどのローカライズ化する事が主な仕事。私はこれまで雑誌をやってきましたので、1枚のものよりも、ページがある方が好きですね。現在は英語で64ページのルールブックを製作しています。大変と言えば大変ですが、バラエティがあり、楽しい仕事です。現在ウィザーズには10人ぐらい日本人がいますが、プロダクションの部署では日本人は2人います。みなさんとてもよい方たちで、ラッキーだと思っています。

同じような仕事をしたいと考えている方へのアドバイスはありますか?

私は写植や版下といった旧式なやり方から始めましたので、特にコンピュータは仕事を通しての独学でした。でも、インデザイン・イラストレーター・フォトショップ・フリーハンドなどさまざまなソフトウェアを一通り使えることが必須ですね。私の場合はどんどん聞いてしまう性格なので、人に教えてもらうことも多いです。また、仕事ではメールでのやり取りが多いですから、スペルや文法には気をつけますね。仕事自体は自分でスキルさえあればできますが、90%はアメリカ人というアメリカの職場で働くということは、コミュニケーション能力が必要とされます。やはりアメリカ人は言わなくてもわかってくれるということはしませんので、言いたいことがあればはっきり言い、わかりやすくきちんと話すことができる必要があります。こういったことは今の会社で学んだことではなく、長年アメリカに住んでいてそう思うということですね。でも、私は日本語を忘れている部分がありますので、コミュニケーションに関してはあまり偉そうなことは言えません(笑)。夫がアメリカ人ですから、日常の生活でもコミュニケーションをきちんとしていないといけませんので、英語での方がかえってスムーズにコミュニケーションができるかもしれません。

これからの抱負を教えてください。

振り返って見ると、私の人生はいいタイミングで好きな仕事をさせてもらいながら、子育もし、自分の環境をその時その時のしたいことを曲げずに来られたのはとてもラッキーだったと思います。私の父は85歳になった今も絵を描く仕事を続け、とても元気にやっています。その姿を見ていると、私自身も足腰が立たなくなるまで、今の仕事を一生懸命やっていきたいですね。

【関連サイト】
Wizards of the Coast

掲載:2004年5月

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