開国後、大きな変化が次々と起きていた1890年代の日本から、看護の勉強のためにシアトルへ渡った一人の女性がいました。その名は、佐久間安子さん(1865-1944)。佐久間さんが出会った人たちのメッセージがしたためられた革張りのサイン帳を携えてシアトルを訪れた佐久間さんの孫にあたる中西拓子(なかにし・せきこ)さん、中西さんの娘の稲村玲子さん、孫の有香(あるか)さんにお話を伺いました。
佐久間さんが遺した革張りのサイン帳に書かれたメッセージのほとんどに1896年の日付が入っており、この地に最初に入植したデニー一行(Denny Party)の一人だったデビッド・トーマス・デニー氏や、その娘エミリー・デニー氏のメッセージもあります。約120年前に高い志を持ってシアトルの土を踏んだ一人の日本人女性がシアトルの歴史に名を残す人々と交流を持ち、温かく迎えられていたことを示す貴重な資料です。
江戸南町奉行所の与力頭をしていた佐久間長敬(弥太吉)が新しく設置された神奈川奉行所に赴任していた際、その次女として1865年(慶応元年)に生まれた佐久間安子さんは、開国後の大変革の時代に宣教師婦人が開いた女子のための英語塾(後の築地大学)に6歳で寄宿生として入学。25歳だった1890年(明治23年)頃に看護の勉強のためにシアトルに渡ったのは、宣教師が設立した女学校を経て看護養成所で学んでいたことがきっかけとなったのではないかと考えられています。
シアトルで6年を過ごした後、31歳だった1896年(明治29年)に再渡米する予定で日本に一時帰国し、2年後に結婚。再渡米は実現しませんでしたが、嫁ぎ先でさまざまな福祉活動を展開したことを、中西さんは佐久間さんの娘にあたる母親から聞いて育ちました。そして、そのサイン帳と、幼い頃に祖母と過ごした記憶、そしてわずかな手がかりをもとに、たくさんの研究者や資料、親戚をあたって祖母の一生を調べ、2002年に『開国の時代を生きた女からのメッセージ』(碧天舎/現在絶版)を出版。
「みずみずしい感性、人とつながりたいとの希求が、自然に流れる路をもう一度甦らせたい。そんな生活の姿勢をとることを、私は祖母・安子からメッセージとして受け取った」と著書に書いた中西さんの母親は、茶道の師範としての活動や教会活動に熱心に参加し、「家庭の人の前に社会の人という意識がある人」だったとのこと。
中西さん自身も生きづらさを抱える子どもたちを支える相談窓口を設立して活動されてきたことを伺い、開国時代を生きた祖母から母へ、母から娘へと、社会に自ら参加していこうとする精神が受け継がれていることを強く感じました。
掲載:2019年2月