34歳で始めたモダンダンスで舞台に立ち、振付師として舞台をもプロデュース、そして自宅では書道を教授する、太陽のように元気で溌剌とした村尾陽子さんにお話を伺いました。
交通事故のリハビリでモダンダンス教室へ
– ダンスを始められたのは随分後になってからですが、どういうきっかけがあったのですか?
モダンダンスを始めたのは、33歳の時に巻き込まれた交通事故がきっかけでした。正面衝突だったので、後部座席に座っていた私は上顎を強打してしまい、それから顔が腫れ、嘔吐が毎日続いた後、全身けいれんと言語障害が残りました。
もともと体を動かすのが好きで、中学の頃から走ったり、バレーボールをしたりしていたのに、体が動かなくなるといろいろな弊害が出てくるものですね。
そして、事故から約1年たったある日、ダンス教室でピアノ伴奏をやっている友人が、「右肩が上がらないと言ってダンスに来ていたおばあさんが、今では自由自在に腕を動かしている。ダンスにはリハビリ効果があるにちがいない」と言い、それならと始めました。
– 最初は大変だったのでは。
モダンダンスは初めてだったので、最初の3ヶ月は本当に苦しかったです。でも4ヶ月目からは慣れてきて、いつのまにかまた口がきけるようになったのです。そうするとだんだんおもしろくなってきて、ビル・エヴァンズ氏のダンス・スタジオへ移りました。そこはプロのダンサー養成所だったのですが、そんなこととは露知らず、もっときちんと教えてもらおうとビギナーのクラスから始めたのです。
モダンダンスのダンサーとして
– そこでプロに転向したわけですね。
ある日、先生が「君はプロになるためにダンスをやっているのか、それとも楽しみでやっているのか」と聞いてきたのです。「プロになるって?」と聞くと、「オーディションに行って仕事をとれば」と言います。私はオーディションなんて嫌だったので、ワークショップに行くことにしましたが、そこで偶然出会った振付師に出演を求められ、初めてダンサーとして舞台に立ちました。
– その頃のアジア人のダンサーは、特に重宝されたのでは。
ある程度の背があり、白人でないことが、メリットだったと思います。それから10年間は、踊ることが楽しくて…。でも、ダンスはチームワークですから、周りのダンサーと一緒に踊っていける人でないと。今ではもう20年になりますが、ここ7年間は振付師としても活動しています。
– 振付師とダンサーとでは、またまったく異なる職業ですね。
そうですね。振付師は自分がディレクターとして他の人にいろいろなことをお願いし、うまく動かしていかなければなりません。例えば、ダンサー達以外にも、コンポーザー、コスチューム・デザイナー、ライティング・デザイナー、ステージセット・デザイナーなどが、プロダクションに含まれます。
また、グラントの依頼などのビジネス面も関わってきます。依頼されて振り付けをすることもあり、これまで作品12本余りを振り付けしました。今度はバリ島で会った12歳の日本人の女の子に出演をお願いし、舞台をプロデュースします。
書道家としても活躍
– 村尾さんは書道家でもありますが、始められたきっかけは何だったのですか?
きっかけははっきりしていませんが、習い始めたのは小学校3年生の頃です。授業では週2回、そして、校長先生が日曜日に自宅を開放して書道を教えてくれました。それから欠かさず高校まで続け、展覧会にも出展し、賞をもらった時は両親が見に来てくれて。
それでも自分では上手だとは思っていなかったのですが、友達が「村尾さんは書道が上手なんだよ」と誉めてくださり、そこで初めて「あれ、私って上手なんだろうか」。そして、筆と硯をアメリカへ持ってきました。あちこちの先生のところに行きましたが、よい先生が見つからず、自分で教え始めました。
– 生徒さんはアメリカ人ばかりだとか。
そうです。アメリカ人のグラフィック・デザイナーやペインターばかり。グラフィックデザインはビジュアルアートですから、書道で書いたものをロゴやバックグラウンドのデザインに取り入れるというのです。また、ペインターは、筆使いにエネルギーを与えるために習うのです。
私の授業は個人レッスンのみで、それぞれの目的にあったやり方をします。手取り足取りの人もいれば、1人でやらせておいて、たまに見るだけの人もいます。現在教えている生徒の中には8歳の男の子がいますが、学校では問題児と言われているにも関わらず、大人のような会話ができる、本当に頭の良い子です。きっと彼の親はそれを知っていて、書道を習わせているのでしょう。
書道は、いつでもどこでも、紙と筆と墨さえあればできますが、山登りのように、自分の道を登る、精神世界です。つまり、自分と向き合うことなのです。そのために、よく旅にも出ます。
旅は1人で
– 村尾さんの旅はおもしろそうですね。
私の旅はもっぱら一人旅。買うものは往復チケットだけで、ホテルもその場で決めます。そして、必ず現地の人と仲良くなるのがポイント。タイに行った時は、象に乗ったり、筏下りをしたり、途中で合流した娘と2人でビルマの国境までトレッキングしたりしました。
でも、ある時、降るような星空が見える、この上なく美しい南の島のビーチリゾートに行ったのですが、何か物足りない。よくよく考えてみると、そこには文化がなかったのです。ただ美しいだけ。すぐバスに乗り、国境を越え、混雑した中華街に宿をとりました(笑)。
また、イタリアを列車で北上し、ベニスまで行ったときのこと。大変な洪水で、雨もやみそうになく、どこにも行きようがない。そんな私をかわいそうに思ったイタリア人の女の子が、明日は大学院の試験があるというのに、一緒にカフェで時間をつぶしてくれました。いつも本当にいい人達に出会います。また、先日はイタリアのアルプスで太極拳を学ぶというコースに参加しました。最初はなかなか難しかったのですが、少しずつ上達し、最後は参加者全員がアルプスの丘で太極拳。向かいの丘から眺めていた先生に、「陽子、君は上達したね」と言われたときは、本当に嬉しかったです。
– ユニークな旅ですね!
そうですか?でも、一人旅では、どんな場合でも自分に自信を持って行動することが必要です。また、常識を持つことが大事。なんだかおかしい、と思えるのは、常識があればこそ。また、旅では心をオープンにすると、出会いや進展があります。これは、日々の生活でも同じこと。人間はあくまでも自由を求めるものですから、「今、何をすべきか」と、自分の生活を常に見直し、再建するのです。自分があくまでも誠実で正直な人間であれば、道は開けると思っています。
– 最後に、これからの抱負を教えてください。
私ぐらいの年になってくると、自分の限界がわかってきます。自分のレベルがわかるとも言えるかもしれません。でも、書道はもちろん、中国書や太極拳、気孔、ハワイ大学のレクチャーなど、やりたいことはまだまだたくさんあります。人生が楽しい!(笑)
村尾陽子(むらお ようこ)略歴
1967年、初めてシアトルへ。1978年に交通事故でさまざまな後遺症を患ったことをきっかけに、翌年にリハビリ目的でモダンダンスの勉強を始める。さまざまなワークショップに参加してダンサーとなり、ダンサー・振付師として活躍。毎日書道展に7年連続入選するなど、書道家としても活躍。