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オリンピックから学ぶ、科学技術による人間能力の拡張

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今回の Seattle Watch では、アスリートの限界を突破させる最新テクノロジーに焦点を当てていきます。現代のオリンピックは、科学技術が人間の能力を拡張する壮大な実験場と化しています。先日まで開催されていたミラノ・コルティナ冬季五輪でも、さまざまなテクノロジーがアスリートたちの躍進を支えていました。

目次

ミラノ・コルティナ五輪に向けて採用された技術とは?

先月閉幕したミラノ・コルティナ五輪で、日本代表チームは目覚ましい活躍を見せました。日本は金メダル5個、銀メダル7個、銅メダル12個を獲得。合計メダル数は24個に達し、過去最多の記録を打ち立てました。こうしたアスリートたちの競い合いの裏側では、エンジニアや科学者たちによる「静かな技術戦」も繰り広げられています。

例えば、マサチューセッツ工科大学(MIT)のジェリー・ルー氏は、米国代表チームのフィギュアスケーターたちの技術向上を支援しており、AI を活用した光学トラッキングシステム「OOFSkate」を開発しています。これはフィギュアスケートのジャンプ映像を解析し、高さや回転数、着氷状況に基づいた具体的な改善案を提示するものです。

また、MIT Sports Lab の共同創設者であるアネット・ペコ・ホソイ教授は、MITHIC(MIT Human Insight Collaborative)と共同で、「AIがフィギュアスケートの美的表現をいかに評価するか」を探る新たな研究に着手しています。ホソイ教授は物理計算の観点から、前人未到の「5回転ジャンプ」についても、間違いなく実現可能な射程圏内にあると確信しています。

拡大するスポーツテック市場

スポーツテックは巨大な経済圏を形成しており、その市場規模は2024年時点で約188億ドル(約2兆8,000億円)と推定されています。

2030年には約617億ドル(約9兆2,000億円)に達する見通しで、2025年からの年平均成長率(CAGR)は21.9%という驚異的な数字が予測されています。

この急成長の背景には、データ解析などによる勝利の追求だけでなく、スマートスタジアムやファンエンゲージメントといった興行面での進化も大きく寄与しています。

ここからは、「睡眠」、「食事」、「ウェアラブル」という3つのカテゴリに分けて、アスリートのパフォーマンスを支える最先端の科学技術を紹介していきます。

アスリートの「眠り」を科学するスリープテック

多くのアスリートは、競技による過度なストレス、不規則な遠征スケジュール、そして時差ボケ(概日リズムの乱れ)といった、特有の睡眠障害リスクに常にさらされています。

驚くべきことに、ある調査ではオリンピアンの睡眠効率(就床時間のうち実際に眠っている時間の割合)は約80.6%にとどまり、一般人の平均(約88.7%)を下回る傾向にあることが示されています。

アスリートは個々に異なる体内時計(クロノタイプ)や競技特性を持っているため、睡眠の質を改善するには一律のルールではなく、個々の生体リズムやスケジュールに最適化されたテーラーメイドの戦略が不可欠です。

Rise Science

こうした切実なニーズに応えるべく、さまざまなソリューションが登場しています。例えば、Rise Science は、アスリートの「概日リズム(サーカディアン・リズム)」と「睡眠負債(本来必要な睡眠時間に対して不足している時間が、日々少しずつ借金のように積み重なっていく状態)」をモデル化し、一人ひとりに最適な就寝・トレーニング時間、さらには試合前の調整戦略を提示する睡眠最適化プラットフォームです。デジタルアプリと専門の睡眠コーチングを組み合わせることで、反応速度の向上、フライングや注意力欠落の減少、怪我のリスク低減といったパフォーマンスの改善を支援しています。既にNBAのシカゴ・ブルズやNFLのマイアミ・ドルフィンズといったプロチームが導入しており、選手の回復を優先した練習スケジュール調整にも活用されています。

Eight Sleep

また、環境面からアプローチするのが Eight Sleep です。同社が開発したスマート寝具「Pod」は、内蔵センサーで心拍数、HRV(心拍変動)、呼吸、体動をリアルタイムに測定します。そのデータに基づき、マットレスや枕、ブランケットの温度を自動調整するほか、内蔵スピーカーから最適なサウンドスケープを流すことで、入眠を促し深部睡眠を増加させます。これにより、反応速度の向上や、疲労回復をサポートします。同製品は、アルペンスキーのトリシア・マンガン選手、F1のシャルル・ルクレール選手、テニスのテイラー・フリッツ選手、NBA のクリス・ポール選手、NHL のシドニー・クロスビー選手などのトップアスリートたちに愛用されています。

アスリートの「食事」をハックするフードテック

アスリートにとって、食事はパフォーマンスを左右する最も重要な要素の一つです。特に遠征地で開催されるオリンピックにおいては、栄養バランスの担保はもちろん、「慣れ親しんだ味」にアクセスできるかどうかが、選手のメンタルとフィジカルの両面に大きな影響を与えます。なぜなら、食事は単なる栄養摂取の手段ではなく、心理的な安心感(Comfort)を提供するものと定義されているからです。

韓国代表チームの取り組み

今回のミラノ・コルティナ冬季五輪では、韓国代表チームは、選手村の近隣に専用の調理施設を設けることで、自国の食文化に基づいた最適な食事を提供しています。今大会では主要会場であるミラノ、コルティナ、リヴィニョの3拠点に拠点を確保し、1日2回、断熱バッグに収められた温かい食事を選手のもとへ届ける体制を構築しました。

この取り組みは選手からの強い要望により実現したもので、管理栄養士の監督下、130人の選手団に対し、3拠点合計で1日200食以上を提供しています。その準備は徹底しており、キムチなどの主要食材は前年10月から手配を開始。11月にコンテナ船で韓国を出発させ、1月にイタリアへ到着させるという緻密なスケジュールで進められました。一方で、肉や野菜などの生鮮食品は現地で調達する「2トラック制」を採用。さらに、極寒のリヴィニョで活動する選手のために「自己加熱式ランチボックス」を開発し、練習や競技で食事が遅れた際も、常に温かく美味しい状態で食べられるよう配慮されています。

テクノロジーによる個別最適化

一方で、テクノロジーによる個別最適化も進化しています。オランダのプロサッカーチームの PSV Women は、TNO(オランダ応用科学研究機構)、High Tech Campus Eindhoven、および BrabantSport と共同で、カスタム3Dプリントスナック「Nutri-Bites」を開発しています。Nutri-Bitesは、各選手のトレーニングスケジュール、身体組成、月経周期、日々の食事内容、さらには味の好みといった個人的な要因を考慮。一人ひとりのユニークなニーズに合わせて設計・出力される「究極のパーソナライズ・フード」です。

アスリートのコンディションを最適化する「ウエアラブル」

アスリートが着用するスポーツウェアは、単なる衣類の枠を超え、かつてないスピードで進化を遂げています。デザイン性やフィット感の追求だけでなく、周囲の環境や身体の状態に反応する「レスポンシブ(適応型)」の時代が到来しています。

Nike:新開発ジャケット『Therma-FIT Air Milano』

ミラノ・コルティナ冬季五輪の米国代表チームは、Nike が新たに開発した Therma-FIT Air Milano というジャケットを採用しています。一般的なジャケットは、ダウン素材(ガチョウやアヒルの羽毛)を使用していますが、このジャケットは、空気のみで防寒(断熱)を実現しています。具体的には、充電式専用ポンプを使って、ウエアの裏地にある注入口から空気を入れ、温かさを確保する衣服内のエアを随時調整することで、着用者の好みやコンディションに合わせて温度調整ができます。そのため、運動開始時は暖かく、体が温まれば空気を抜いて調整。アウターを脱いで腰に巻いたり、置き場に困ったりする煩わしさから解放されます。

Myant:テキスタイル・コンピューティング『SKIIN』

また、カナダのトロントに本拠を置く Myant は、日常の衣服や繊維に生体センサーとアクチュエータを組み込むことで、「テキスタイル・コンピューティング」(Textile Computing)プラットフォームを実現しています。SKIINと名付けられたこのプラットフォームは、心電図(ECG)、心房細動、血圧、服薬、睡眠の質、および転倒、体温・活動量を24時間体制で測定することが可能です。さらに、同製品は双方向性を備えており、単なるデータ計測に留まらず、熱刺激や電気刺激をウェアから体に伝達することも可能で、ヘルスケア、ウェルネス、運動パフォーマンス向上、さらには予防医療の新たな基盤を築こうとしています。

これらのスポーツテックは、一握りのトップアスリートだけの専売特許ではありません。今後は一般消費者向けへの展開が加速し、私たちのヘルスケアやウェルビーイング、そしてビジネスにおける生産性向上に示唆に富む解決策を提示してくれるでしょう。

昨今、AIエージェントの台頭により「いかに人間の仕事をAIに肩代わり(オフロード)させるか」という議論が盛んです。しかし、ビジネス現場の課題は、AI による自動化やロボットの導入だけで解決できるわけではありません。真に重要なのは、人間一人ひとりのポテンシャルをどこまで引き上げられるか。つまり、テクノロジーによって能力を増幅させる「人間拡張(Human Augmentation)」こそが、今後の中心テーマになると言えます。シビアな環境で常に結果を求められるアスリートの世界から、私たちのパフォーマンスをどう高められるか。そのヒントを学び、自らの可能性を広げてみてはいかがでしょうか?

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提供:Webrain Think Tank 社
【メール】 contact@webrainthinktank.com
【公式サイト】 https://ja.webrainthinktank.com/

田中秀弥:Webrain Think Tank社プロジェクトマネージャー。最先端のテクノロジーやビジネストレンドの調査を担当するとともに、新規事業創出の支援を目的としたBoot Camp Serviceや、グローバル人材の輩出を目的としたExecutive Retreat Serviceのプロジェクトマネジメントを行っている。著書に『図解ポケット 次世代インターネット Web3がよくわかる本』と『図解ポケット 画像生成AIがよくわかる本』(秀和システム)がある。


岩崎マサ:Webrain Think Tank 社 共同創業者。1999年にシアトルで創業。北米のテックトレンドや新しい市場動向調査、グローバル人材のトレーニングのほか、北米市場の調査、進出支援、マーケティング支援、PMI支援などを提供しています。企業のグローバル人材トレーニングや北米進出企業のサポートに関しては、直接ご相談ください。

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