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第8回:シアトル日本町の歴史とパナマ・ホテル その三

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パナマ・ホテル

パナマ・ホテル

日本人建築家・小笹三郎氏が設計を手掛けたホテル。1910年8月、日本から出稼ぎのため単身渡米した男性向け長期宿泊施設としてオープン。第二次世界大戦時に強制収容された日系アメリカ人の家財道具などを地下で保管し、ホテル1階に開店したカフェ『パナマ・ホテル・ティー&コーヒー』の床のガラス越しに、戦後になっても引き取り手が現れなかった荷物を見ることができる。パナマ・ホテルと日系人の強制収容を描いたジェイミー・フォードの小説『Hotel on the Corner of Bitter and Sweet(邦題:あの日パナマ・ホテルで)』(2009年出版)が、2010年にニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト入りし、その存在が米国で広く知られるようになった。2006年、米国史跡認定。2015年、米国国宝認定。2020年、日本政府より「令和二年度外務大臣表彰」受賞。

前々回前回に引き続き、今回もシアトル日本町の歴史などをご紹介します。

太平洋戦争開戦後

1941年12月7日、日本軍によるハワイの真珠湾攻撃がきっかけとなり、1942年2月19日にルーズベルト大統領が大統領令9066号を出したことで米国の西海岸が軍管理地域に指定されたため、西海岸に住む約12万人もの日本人や日系人が全米10か所に点在する強制収容所に収監されることになりました。

真珠湾攻撃前の1941年11月、日本政府は米国本土に住む日本人の引き上げのため氷川丸を出しますが、それに乗って帰国した人は定員(少なくとも1,000人)の僅か3分の1だったそうです。多くは米国籍を持つ子どもたちとともに、アメリカに留まることを決めました。

強制収容を命じる大統領令が街中に掲出され、収容所に向かうまでの猶予は48時間でした。大統領令に背くと最大1年の懲役、そして$5,000(2021年の金額では約$80,000以上)の罰金が科されました。また、収容所へ収監される前には銀行口座の凍結や、夜8時から翌朝6時まで外出禁止令、レストランの閉店時間の繰り上げなどの制約が課されました。

日本人は両手で運べる荷物のみ持ち込むことが許され、それ以外はすべて売却または譲渡するしかありませんでした。家、車、家財道具、経営していたビジネス、農場など、持ち込めないものはすべて諦めざるを得ませんでした。

パナマ・ホテルの堀氏の元に玉壷軒の夫婦(夫妻の肖像は「日本町の歴史とパナマ・ホテル②」参照)がやってきて、収容所に持っていくことのできない荷物をホテルの地下で保管できないかと尋ねました。堀氏は承諾し、その話がシアトル日本町中に広まり、ホテルの地下と銭湯『橋立湯』は収容所へ送られる日本人の荷物が天井に届くほどの高さまで積まれ、すぐにいっぱいになりました。また、日本町にあるお寺にも荷物を預けに多くの日本人が来たそうです。

送還当日の話には、雨が降る中、送還されるバスに乗るまでの間、近くの娼館の女性が雨宿りさせてくれたことや、収容される日系の友人を見送りにきたアメリカ人もいたという話が残っています。収監当時、前オーナーの堀隆氏は若干24歳で、2年前にワシントン大学を卒業したばかり。父親の三次郎氏は66歳でした。

パナマ・ホテル

ブックレット 『History of Panama Hotel』 より

戦時中の日本町、そして戦後、現在のパナマ・ホテル

強制収容所に送られた後の日本町には、アフリカ系アメリカ人の戦争労働者が住んでいました。中には日本人、日系人が収容所に収監されて留守にする間、友人たちが家や彼らの商店を管理してくれた人もいたといいます。パナマ・ホテルの場合は、管理してくれる会社を雇ったそうです。

戦後、掘隆氏は家族とともに再びシアトルのパナマ・ホテルに戻りました。

強制収容所から解放された後、収容されるまで生活していた場所に戻る人もいれば、別の州へ移る人、また、日本への帰国を選択する人もいました。パナマ・ホテルに預けた荷物も、引き取り手が現れる場合と、現れない場合があり、隆氏は荷物の持ち主に返そうと試みましたが、居場所がわからない人も多く、中には収容所で亡くなった人もいたそうです。持ち主が戻って来ない荷物は、捨てることができず、現在もそのまま保管してあります。

強制収容所から帰還後の約40年近くが経つ頃、堀氏はパナマ・ホテルを手放すことを考えました。現オーナーのジャン・ジョンソン氏はパナマ・ホテルが売りに出されることを聞き、誰かの手に渡ってしまうとことで取り壊されることを危惧し、堀氏からホテルを買い取ることを決断します。

ジャンは、購入してもいいと言われるまでの約10か月間、堀氏の元へ通い続けたそうです。最終的に、堀氏の妻のユリさんがジャンに売却することを承諾し、話がまとまりました。当初は白人であるジャンが白人からの差別による負の歴史を物語るパナマ・ホテルを買い取ることに多くの反発もあったそうです。しかし、堀氏はその熱意を感じ、ジャンは無事、1985年にオーナーとなりました。

ジャンに売却した際、堀氏は地下に残されたままの荷物をすべて片づけようとしましたが、ジャンが「できる限り保管しておきたい」と伝えたことで、現在もその荷物の一部をパナマ・ホテルで見ることができます。

次回はパナマ・カフェの店内へご案内します。ホテルの内部については第1話をご覧ください

参考文献:

(第9回へ続く)

文:疋田 弓莉(ひきた・ゆり)

東京出身。幼い頃から北米で生活してみたいという夢を抱く。日本で鉄道会社に勤務後、2018年から2020年の約2年間にわたり留学生としてシアトルに滞在。パナマ・ホテルと運命的な出逢いを果たし、1年にわたりOPTでパナマ・ホテル・ティー&コーヒーで働く。日本帰国後、東京のPR会社に就職。

掲載:2021年5月



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