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第6回:シアトル日本町の歴史とパナマ・ホテル その一

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パナマ・ホテル

パナマ・ホテル

日本人建築家・小笹三郎氏が設計を手掛けたホテル。1910年8月、日本から出稼ぎのため単身渡米した男性向け長期宿泊施設としてオープン。第二次世界大戦時に強制収容された日系アメリカ人の家財道具などを地下で保管し、ホテル1階に開店したカフェ『パナマ・ホテル・ティー&コーヒー』の床のガラス越しに、戦後になっても引き取り手が現れなかった荷物を見ることができる。パナマ・ホテルと日系人の強制収容を描いたジェイミー・フォードの小説『Hotel on the Corner of Bitter and Sweet(邦題:あの日パナマ・ホテルで)』(2009年出版)が、2010年にニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト入りし、その存在が米国で広く知られるようになった。2006年、米国史跡認定。2015年、米国国宝認定。2020年、日本政府より「令和二年度外務大臣表彰」受賞。

現在でも、12月7日にはパナマ・カフェに匿名で「パール・ハーバー」について批判的な電話がかかってくることがあります。

でも、ブックレットを製作する段階で最も配慮したことは、中立を保って歴史を伝えるということでした。戦時中の日系人に何があったのかを感情的に伝えるのではなく、あくまで事実だけを伝える博物館としての立場から、多くの人に人類史の一部である当時の人種差別について届けることが望ましいと考えたからです。

つまり、ブックレットの目的は、論争や軋轢を生むためではありません。今ある差別をなくすのは難しいという現実を認識し、どのようにアプローチするか意識し、差別について考えるきっかけにしたかったのです。

お客さんからよく聞かれる質問で、ブックレットには載せきれない情報もありました。それについてはカフェ内に展示されている戦前のシアトル日本町の様子を伝える写真に博物館のようにキャプションを作成することにしたので、写真の歴史(何年に撮影されたのか、写真に映っている建物がどのように使われ誰が経営していたのか、などなど)を新たに調査する必要があり、JCCCW(ワシントン州日本文化会館)、昔の登記簿が保管されているベルビュー・カレッジ、図書館などで情報収集しました。

また、スーザンがパナマ・ホテルに来てくれ、直接お話を伺ったことも、ブックレットと写真のキャプションの制作にとても役立ちました。

そこで、今回から、シアトル日本町、パナマ・ホテルや地下銭湯について、ブックレットに掲載できなかった情報をこちらでご紹介していきたいと思います。(ホテルの写真は第1話をご参照ください

ブックレットは売り切れてしまったので、現在別の方法で皆さんにお届けできるよう、只今準備中です。乞うご期待!

シアトル日本町ができるまで

パナマ・ホテルがオープンしたのは、1910年の夏。開業当時は、出稼ぎのため日本から単身で渡米した男性労働者が仕事のシーズンオフの時期に長期滞在するための宿泊施設だったので、ほとんどの部屋はシングルの大きさです。

アメリカ本土への日本人移民が増加するきっかけとなったのは、明治維新によって急速に近代化・都市化が進み、日本国内での社会的混乱や農業の衰退によって、庶民の仕事が減ったことと言われています。主に家業を継ぐことのできない次男などが、海外での一攫千金やよりよい生活を夢見てアメリカへ渡ったのです。

日本人がアメリカ本土に渡る前は、中国人が安価な労働者として、炭坑業、林業、鉄道事業などに従事していました。でも、中国人労働者の増加により仕事を奪われることにアメリカ人が反発し、1882年に中国人排斥法が成立したことで、中国人の向こう10年間の入国制限とアメリカへの帰化が禁止されました。

アジアから一番近いアメリカの西海岸では中国人労働者が多く、また当時の中国はイギリスとのアヘン戦争での敗北によって借金が多く、農民などに重税を課したりしたため、アメリカに移住する人が多かったそうです。その後、その中国人排斥法によって不足した労働力を補充するため、日本人が充てられました。

1880年代半ばの日本人出稼ぎ労働者は、ハワイの砂糖農園で働くことが主流でしたが、1900年に施行されたハワイ準州基本法制定によりハワイが米国の準州となったことで、アメリカ本土へ移る日本人が増加しました。本土へ渡った日本人の多くは、炭坑業、林業、鉄道事業、魚の缶詰工場などで仕事をしていました。

また、1909年にワシントン大学が会場となり開催された「アラスカ・ユーコン太平洋博覧会」に日本館が出展されたことが、ワシントン州と日本の友好関係に好影響を与えた可能性もあります。そして、日本からの移民が増え、シアトル日本町は発展していきました。

パナマ・ホテル

ブックレット 『History of Panama Hotel』より

パナマ・ホテル設計者・小笹三郎氏とパナマ・ホテルの由来

パナマ・ホテルを設計したのは、日本人として初めてシアトルで設計活動を行った長崎出身の小笹三郎氏です。

小笹氏は、ワシントン州の南のオレゴン州にあるオレゴン州立大学を卒業し、オレゴン鉄道株式会社へ入社。その後、ワシントン州でアジア系コミュニティの商業ビルや住宅を設計しました。パナマ・ホテルは小笹氏が設計した現存する希少な建築の一つです。

ホテルの名前を誰が付けたかはわかりませんが、ホテルが建設されていた当時、パナマ運河(1904-1913年建設、1914年開通)が建設されていたことに由来しているそうです。

パナマ・ホテルの新オーナー募集

ジャンは数年前からパナマ・ホテルの新しいオーナーを探し続けています。

このホテルは日本とワシントン州の交流が始まった時代に建設された歴史的遺産で、国宝に指定されています。日本人と日本の文化に関心があり、ワシントン州の日系人とホテルの歴史を尊重しながらパナマ・ホテルの経営を続けられる方や企業はぜひご連絡ください。

また建物の維持保存、そしてシアトル日系人の歴史を伝える博物館立ち上げに向けて、皆様から温かいご支援と寄付をお待ちしております!

興味のある方は以下にご連絡ください。

jamsarchives@gmail.com

(第7回へ続く)

文:疋田 弓莉(ひきた・ゆり)

東京出身。幼い頃から北米で生活してみたいという夢を抱く。日本で鉄道会社に勤務後、2018年から2020年の約2年間にわたり留学生としてシアトルに滞在。パナマ・ホテルと運命的な出逢いを果たし、1年にわたりOPTでパナマ・ホテル・ティー&コーヒーで働く。日本帰国後、東京のPR会社に就職。

掲載:2021年5月



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