第2次世界大戦前の1907年に四国から移民し、クボタ・ガーデニング・カンパニーを起業した造園家・窪田藤太郎氏がシアトルに開いた日本庭園 『窪田ガーデン』。開園当時の5エーカー(6,120坪)から20エーカー(約2万4,500坪)に拡張され、1987年からシアトル市が所有し管理しているこの歴史的建造物に本格的な石垣が完成したのは2015年。そのプロジェクトを発案し、完成まで携わった彫刻家・児嶋健太郎さんの実録エッセイ。
意気込みと現実のギャップ
これはこのプロジェクトで何回も経験することになるのだが、意気込みと現実がなかなかうまく噛み合ってくれない。
僕とドンはぜひとも2011年の夏に石垣を作るワークショップをしようと意気込んだのだが、やはりそれは資金面等から見ても多分無理だろうから2012年の夏にしよう、そう決めて窪田ガーデンの理事会にプレゼンした。窪田ガーデンはシアトル市のものなので、市の公園局のお偉方にもプレゼンした。
しかし、理事会と公園局の反応は思ったよりかんばしくなかった。これは後でわかったことなのだが、理事会と公園局の数人は、僕がなぜこんなに一所懸命なのか怪しく思ったらしい。そして、誰ともなく、僕が石屋で働いているから、つまり石を窪田に売りつけたいからこういうことをしているんだ、という結論を出したらしかった。悲しい考え方である。
またもや壁にぶつかってしまった。
しかし、僕は石垣のことをもっと人に知ってもらおうと、一時間のものすごく稚拙なプレゼンを書いて、機会があるごとに発表した。
すると、偶然にもこの発表会に来ていた誰かがワシントン大学の建築課のルアン・スミスという上級専任講師に僕のことを話したらしかった。彼女は折りしも生徒に窪田ガーデンのデザインをさせていたところだったので、僕に「生徒達に石垣の説明をしてくれないか」と依頼してきた。僕は喜んでまたおぼつかない日本史と建築史をひっくり返して、一時間のクラスを用意した。
このクラスは思いがけなく生徒達の印象に強く残ったらしく、クラス全員の最終デザインに石垣が含まれていた。石垣は単に一つのデザインエレメントであって、別に含まなくても良かったのに、「みんな、デザインに取り組んだのよ」と、ルアンは言ってくれた。
学年の終わりも近づいてきて、建築学科の期末テストの時期になった。ルアンは「今度は生徒達が発表するデザインの批評に参加してくれないか」と誘ってくれた。しかし、他に招かれている人たちの顔ぶれを見て驚いてしまった。建築科の学科長、公園局の中堅、その他、OB で自分で建設会社とかデザイン会社を経営している人達などが並んでいたからだ。
ワシントン大学の建築科の建物に入ると、僕はいったいここで何をしているのであろうか、と考えてしまった。白鳥の群れに紛れ込んでしまった亀のようではないか。しかし、ルアンはなんのためらいもなく僕を公園局の人、学科長、デザイナーと組ませると、発表会を始めた。
なんとも面白いデザインが多く(それが現実的であるかはともかく)、楽しかった。いろいろ意見が出て、僕も思わずいろいろ言ってしまった。
これはずっと後になって知るのだが、僕と組んだ公園局の人が、実は前述の悲しい発想をした一人だったと判明した。彼女は、僕がその発表会に招かれて偉そうにいろいろ発言していたのにものすごく驚いたそうであった。そして、考えを改めたらしかった。
僕はといえば、その後も窪田ガーデン運営理事会に誘われて何度か参加しているうちに、理事会に推薦され、理事の一人になってしまった。
理事会の内側から見る風景は外から見るのでは想像できない程複雑でものすごく面倒だった。書類の種類、その書き方、法的な色々な気の遠くなってくるようなしがらみ、果ては公園局内部の縄張り争いまで、煩瑣で、これ程面倒なことはなかった。
しかし、僕はやりたいことがはっきりしていたし、それにかけている情熱だけは誰にも負けないつもりだったので、とにかく石垣を作るという計画を推した。
「やるかやらないか」ではなく、「いつ、やるか」
それにほだされたのか、数人が石垣計画に耳を貸し始め、そのうち議題が「やるかやらないか」ではなく、「いつ、やるか」に変わってきた。
日系の建築家のボブ・ホシデという、聖人のような、とんでもなくいい人が「面白い」と後押ししてくれたのも大いに助かった。
最初は石垣はそれのみの目玉アトラクションにしようと考えていたのだが、理事の人たちも僕もどうもしっくり来なかった。そこで、ボブが前から計画していた見晴台の土台として石垣を使おうじゃないかと提案してくれ、石垣の場所も用途も一気に決まった。ボブは寡黙で、目立つことと手柄を主張することを極力避ける頼りになる人で、知れば知るほど尊敬してしまう。(ボブにはこの後ずっとお世話になってしまうのである。それも、自分ではなにも言わないし、陰で活躍してくれるので後にならないとわからないことばかり。なので、知らないでお世話になっている事も多々あると思われる)
僕は結構早くから自分の役割は「情熱馬鹿(Passionate fool)」であることに気がついて、それに専念した。これはそうしようと思ってやったのではないのだが、どうも僕が情熱的に人に石垣プロジェクトの事を話すと、「ああ、頼りなくて見てらんないから、いいよ。じゃあ、これは私がやっといてあげるよ」とか、「能力が情熱についていっていないね、明らかに。しょうがない、このことはまかせておいて」というふうに誰かが手伝ってくれるのだ。能力がないから得した珍しい例ではなかろうか。
窪田ガーデンのジョイ・オカザキ理事長も、資金集めなどで「情熱馬鹿」が必要なときは連絡してきて、「ほれ、お前の得意なあれやれ」と、僕に話をさせてくれるのであった。
おかげで、いろいろな人たちに会ったし、いろいろな集まりやパーティにも行った。シアトルの市長にも会ったし、日本領事ともお話したし、有名無名の資産家達にも会った。ともかく話を聞いてくれそうな人がいると訪ねていって話しをした。
日本の伝統的な石割の道具である「飛び矢」という鉄製の楔を使って一トンの石を割ってみた。他にもっと簡単で手間がかからない石の割り方があるのだが「飛び矢」はワークショップで使うので、慣れておかなければならなかった。ビギナーズラックで初めて試したときに上手くいき、興奮して有頂天になって割った写真を沢山撮ると、いろいろな人に送った。
その写真とうなされたかのような僕の熱い文章がシアトル・タイムズのアラン・バーナーという記者のデスクにたどり着いた。アランはすぐに電話してきて、取材していった。それがローカル欄の一面に載った。載ったその日に招かれていたパーティに行ったら、知らない人から知らない人に紹介されるというなんともシュールな経験をした。それは、朝、新聞を見た人が僕に気がついて自分の奥さんや知人にこう紹介するのだ。
「ほら、この人が新聞に載ってたさ、ローカルアーティストだよ。ああ、こんにちわ、これがうちの家内のジェーンです。よろしく」
といった具合に。
日系の小柄なおじいさんがすすっと寄ってきて、
「もう声聞いた?彼らもう話してきたかい?」
と、いきなり聞いてきたこともあった。
「はっ?誰ですか?」
「彼らだよ。やっぱりアメリカの石だから英語で話すの?」
これは僕が新聞のインタビューのときに、
「粟田家の人たちぐらいになると、石の声が聞こえるそうですよ。」
とか何とか言ったのを覚えていたらしかった。
「ああ、まさか、僕にはまだまだ話してきてくれないですよ。何語でも。」
小柄なおじいさんと二人で大笑いしてしまった。
そこにいたのは高齢の方々ばかりだったが、「ははー、まだ新聞を読んでいる人たちがこんなにいるんだな」と感心したのを覚えている。
ゲリー・トンプセンというドキュメンタリー・メーカーの人も知人の伝でこのワークショップのことを知り、ドキュメンタリー用のビデオを撮ってくれることになった。まだそれ用の資金のことはまったく考えてもいなかったのだが(当前、まだあてもなかった)、ゲリーは、「いいよ、お金はできたときで」と言ってくれ(ワークショップから十ヵ月後に資金が手に入る事になる。それまでゲリーはただ働きだった)、資金集めなどで見せる短いプロモーションビデオを何本か撮ってくれた。もちろん、言いだしっぺの僕がメインに登場するビデオなのである。僕も人前で宣伝とかあまり得意ではないのだが、この際、それは構わなかった。自分の切り売りでも身売りでもなんでもドンと来い、そういう感じだった。
そんなことを続けながら、2年近くがたった。
筆者プロフィール:児嶋 健太郎
彫刻家。グアテマラで生まれ育ち、米国で大学を卒業した後、ニューヨークの彫刻関連のサプライ会社に就職。2005年、シアトルのマレナコス社に転職し、石を扱うさまざまな仕事を手がけている。2006年のインタビューはこちら。