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児嶋健太郎さん(彫刻家)

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児嶋健太郎さん(彫刻家)

グアテマラで生まれ育ち、米国で大学を卒業した後、ニューヨークでの勤務を経て、石を扱うマレナコス社に勤務している児嶋健太郎さんにお話を伺いました。
※この記事は2006年2月に掲載されたものです。

児嶋健太郎(こじま けんたろう)

1975年 グアテマラに生まれ、日本人学校、アメリカン・スクールで学ぶ
1997年 バージニア州のCollege of William and Mary でファイン・アーツと彫刻を学び、卒業
1998年-2004年 ニューヨークの彫刻関連のサプライ会社で勤務
2005年 Marenakos Seattle Stonearium に転職し、現在に至る

【公式サイト】www.marenakos.com

グアテマラでの幼少時代

グアテマラ共和国(以下、グアテマラ)で生まれ育ったということですが、その経緯を教えてください。

1960年代に日本からグアテマラに移った新潟出身の父・東京出身の母の次男として生まれました。父の児嶋英雄は在グアテマラの歴史民族学研究家・染織研究家として執筆や講演などさまざまなことを手がけています。母の児嶋桂子は歴史・考古・民族関連の翻訳を手がけるほか、グアテマラの伝統的な織物を復興させ、現在は現地の人々に教えています。兄も妹もクリエイティブ関係の仕事をしています。父は多摩美術大学卒業後に染物や民俗学研究のために、母は上智大学卒業後にスペイン語習得のために、とそれぞれ別々の経路で行ったグアテマラで出会い、結婚しました。当時は誰でも海外渡航ができる時代ではなかったので、父は同郷の政治家に書面で許可を求めて手配してもらい、出国する前にはテレビにまで出たそうです。母は当時、在日本エル・サルバドル大使だった大学の同級生の父親を通してエル・サルバドル行きの準備をしていたそうですが、エル・サルバドルでの戦争のために、行き先を隣国のグアテマラに変更。母の両親、つまり僕の祖父母は「20代そこそこの独身女性がグアテマラなんて聞いたこともないようなところに行くなんて!」と反対しましたが、意志の強い母は家庭教師などをして旅費を貯め、最終的には祖父も協力して渡航が実現したと聞いています。

児嶋さんは日本に住んだ経験がないと伺いましたが、日本語や文化をどのように習得されたのですか。

「何語を学ぶにしても、自分の母国語以上にうまくはならない、だから母国語を大切にしなさい」というのが、両親の言葉に対する哲学です。ですから、「外国語がうまくなりたければ、まず母国語である日本語をそのレベルまで持っていかなければだめ」と、叩き込まれました。幼稚園の時から自宅にテレビはなく、本を読むことがあたりまえのように仕込まれていきました。本はすべて日本語。古典落語も好きですし、歌舞伎なども好きです。学校の夏休みなどに日本の親戚を訪ねた時は、玄関で靴を脱ぐという習慣を頭ではわかっていたのに土足で上がって怒られたり(笑)、「歌舞伎が見たい」というと「外国人だね」と言われたり、奈良や京都では寺や庭ばかり見て回って変だと言われたりしましたが、日本に住んだことはなくても、僕は日本の文化をとても誇りに思っています。

日本語・スペイン語・英語を習得されるのは大変だったのでは。

自分で努力して3ヶ国語を習得したというわけではなく、自宅では日本語、そして中学生までは日本人学校、高校はアメリカン・スクールという環境が自然にそうさせたと思っています。英語の場合は、両親が突然「アメリカにはサマー・キャンプというものがあるらしい。行ってみなさい」と、兄を送り出したのが始まりでした。父は「この二言さえできれば大丈夫」と、”I’m hungry” と “bathroom” を教えてくれただけ(笑)。兄は特に大変だったと思います。日本人学校もサマー・キャンプもアメリカン・スクールもすべて長男である彼が開拓者。僕が14歳になった時もペンシルバニアのサマー・キャンプに3ヶ月も送られましたが、それは兄が既に体験したサマー・キャンプでしたし、アメリカン・スクールにも先に兄が入学していましたから、僕は比較的楽だったと思います。サマー・キャンプは、間違っていようが正しかろうが、とにかくコミュニケーションしなくてはならない状況に置かれたために英語にもすぐに慣れることができ、貴重な体験でした。また、グアテマラで通ったアメリカン・スクールは、1クラスの生徒14人それぞれが異なる重国籍を持ち、中国大使やエジプト大使、国連機関中南米事務局長の子女などさまざまな子供たちが入り混じり、それぞれが3ヶ国語をしゃべるという、非常に国際色豊かな学校。僕たちはスペイン語と英語を混ぜて話していたので、両方の言語がわからなければ、話が通じなかったものです。そして、両親から「言葉を大切に」と言われ続けたおかげで、日常生活レベルでも仕事レベルでも日本語・英語・スペイン語において読み書き・会話は問題なくできるようになりました。

グァテマラという日本人にとってはなじみの薄い国で活躍されているご両親ならではの教育ですね。

児嶋健太郎さん(彫刻家)

手前は児嶋さんの彫刻、奥は児嶋さんのお母様が制作されたグアテマラの伝統織物

とは言え、両親は「サポートはするが、リードはしない」という哲学で僕らを育ててくれたと思っています。つまり、手取り足取り助けるのではなく、助けが必要になった時に助けてくれるということですね。僕が中学生の時のことですが、まったく勉強したくない時期がありました。結果的に成績は低迷しましたが、両親は何も言いませんでした。ある日、居間で読書をし終えて自室に戻ろうとすると、腕組みをした父が、テーブルの上に置かれた僕のひどい成績表を見つめているのです。「あ、これは部屋に戻ってはいけない雰囲気だな」と察して父の反対側にすわりましたが、父はじっと黙ったまま。どのぐらいその状態が続いたのかわかりませんが、だんだんいたたまれなくなってきた僕は、じっとり汗までかき始め、「何か言ってほしい、何でもいいから言ってくれ!」と思いながら、ひたすらそのまま待ちました。するとようやく父親が「もうこんなことはないよな」というようなことを言ったのです。そこで僕は呪縛が解けたように、「はい」と答え、それからは積極的に勉強するようになりました。そもそも両親は「勉強するのは自分のため。親のためじゃない」と繰り返していましたから、僕も将来自分がやりたいことをやるためにいろいろなことを勉強しなくてはという考えになっていきましたね。

大学進学のため渡米

米国の大学に行くことになったきっかけはなんですか。

高校を卒業してすぐに大学に進学するつもりはなかったので、進学カウンセラーに「ずっと勉強してきたから1年間は休みを取りたい、学費も問題だし」と言ったところ、「この大学を試してみろ、奨学金もくれるだろう」と、自分が卒業したニューヨーク州北部の大学をすすめられました。素直に願書を送ってみると、奨学金をいただくことができたので、両親は「じゃあ、行ってきなさい」と。入学してから知ったのですが、この大学は宗教色の濃い大学で、そのころはとても興味があった宗教や聖書を1年間みっちり勉強することができました。でも僕にとってそれは1年で十分でしたし、大学の時代錯誤なシステムが肌にあわなかったので、バージニア州に住む叔父に勧められた College of William and Mary に編入し、ファイン・アーツと彫刻を勉強して卒業しました。

どのようなことを勉強されましたか。

小学生のころから絵を描くのが好きでしたから、自分は2次元アートに進むと決め、大学でも1年間は2次元に集中し、3次元をずっと拒否していました。しかし、2年目になるともう3次元以外に履修するクラスがなく、ようやく Sculpture 101 を履修したのです。が、そこで「これじゃないか!これしかない!」と大きなショックを受け、人生が変わってしまいましたね。そして、まずは3次元の基礎から始め、造形などをやり、木・ブロンズ・粘土・石など異なる材料のクラスを履修しました。大学によって異なると思いますが、僕の場合は1~3年は課題があり、それほどエキサイティングではなかったものの、4年生になると課題を自分で作ることができるようになりました。

就職、そして転職

大学卒業後はスカルプチャー・サプライ・ストアに就職。

この仕事は、ある間違いがきっかけで見つけたものです。大学卒業時に預金が30数ドルしかなかったので、社会人としてバリバリ働いていたニューヨークの兄のところへ転がり込みました。兄とはそれから8年間も一緒に住みましたよ。とても仲がいいんですよね。ケンカもしないし、する必要もない。しかし、アート専攻となると、何の仕事をするのでしょうか。自分の行く方向を決めたのは、H1Bビザの「専攻と関係した仕事でなくてはならない」という大前提でした。本当は鋳造所で働きたくて、あちこちあたってみましたが、彼らが必要としていたのは、安い賃金で働いてくれる人です。僕のように、ビザをスポンサーしないといけない、そのためには給料が政府の決めた額以上でないといけない、税金も払わないといけない、となると、「冗談じゃない!」と。そこで、同じ大学出身の彫刻家が勧めてくれた “鋳造所” に行ってみたら、結局そこは彫刻などの道具を専門的に扱っているスカルプチャー・サプライ・ストアだったのです。「今は採用していないが、レジュメを置いていきなさい」と言われ、しばらくしてから採用されました。仕事の内容は幅広く、キャッシャーからテクニカル・コンサルタント、ストア・マネジャー、最後のタイトルはシニア・テクニカル・アドバイザーでした。「自分の体の型を取り、最終完成品は透明な素材がいい」「ブティックの内装を変えたいが、壁は白いカーテンがなびいているようで、さらに鉄分がさびている感じがほしい」「シリコンで作った物にプレッシャー・センサーをつけて、さわると何かが起こるようにしたい」といったお客様のアイデアを実現するために、何をどう使うか、どれだけの時間と費用がかかるか、という見積もりを提案するのが主な仕事。見積もりが間違っていたら会社が損をすることになりますので、責任は重大でしたね。また、会社を代表して全米各地のシンポジウムに出席したり、造形や鋳造のクラスを開催したりしました。

児嶋健太郎さん(彫刻家)

石の上から水が湧き出る作品が設置された、マレナコス社のショールーム

しかし、数年後には、自分がなんとなく落ち着いた、よどんだ状態になってきていることに気づいたのです。それが自分のいたいところであれば問題ありませんが、僕の場合はそうではなかった。一生、いや、こういうことは今この瞬間でもやっていたくないということがはっきりわかっていました。上司の考え方にもあまり同意できないところが多かったのがその理由です。そんな時、2004年の夏にコロラドで開催されたシンポジウムで、現在の勤務先であるマレナコス社の経営者スコットの友人で彫刻家のアレグザンドラに出会いました。スコットは石のショールームをシアトルに設置することを計画し、「ショールームのマネジメントをする人は、アメリカ人ではなく、5ヶ国語を話せる、腰ぐらいまでの長髪の外国人であるべき」と語っていたそうで、アレグザンドラはそのシンポジウムで僕に会い、スコットに「見つけた!」と電話したらしいのです。そして、3ヶ国語しかできなくてもいいことになったらしく、彼らは僕に慎重にアプローチをしてきました。アレグザンドラに誘われてシアトルに来た時も、なぜだかわからないままスコットに引き合わされ、しばらくしてから仕事の話を受けたのです。僕は前述のような状況でしたから、二つ返事で承諾し、2005年3月にシアトルへ来て現在に至ります。

今のお仕事について教えてください。

セールス・チームに所属していますが、セールスもしながら、コンサルティングもし、週の半分ぐらいはこのショールームで、残りはシアトルの東にあるプレストンの本社で勤務しています。建築家やインテリア・デザイナーの相談も受けますが、個人的な造園の相談を受けることもありますね。本社の方にはさまざまな石を揃えていますので、そちらを訪ねることも必ずおすすめします。このショールームの奥の部屋にはアーティストの作品を展示していますが、アーティスト自身との細かな交渉、アーティストや作品の選択も担当しています。また、毎年2月にシアトルで開催されるフラワー&ガーデン・ショーでは、我が社がすべての石を提供していますので、その前後はとても忙しいです。我が社は「宣伝はしない、クチコミが唯一の宣伝だ」というポリシーなので、大きく表に出るのはこのフラワー&ガーデン・ショーだけ。

仕事で楽しいことは、この仕事に限ったことではないと思いますが、人と仕事をすること。人が好きだから、それが楽しいのです。また、我が社は、これと思ったら先行投資をすることにも抵抗がない会社です。ビジョンがかなり大きく、先を見ているんですね。さらに、人間関係をきちっとしていれば物事はうまくいくと信じていますので、そういうところが僕とうまくあいます。特に経営者であるスコットと働くのはとても楽しいんですよ。「上司のことをこんなふうに言えたらいいな」と思ってきましたが、ここに来てようやく心からそう言うことができます。

その他には、やはり石がとても好きであること。幼いころは鉱物のコレクションをしていたぐらいです。「なぜ石に惹かれるのか、魅せられるのか」という説明を言葉でするのは難しいですが、我が社の人たちは言葉がなくてもわかってくれます。まだシアトルに来て間もないので自分のスタジオはありませんが、この店舗の裏にスコットがこれから作ろうとしている大規模なスタジオで、大きな作品を制作していきたいと考えています。

掲載:2006年2月

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