第2次世界大戦前の1907年に四国から移民し、クボタ・ガーデニング・カンパニーを起業した造園家・窪田藤太郎氏がシアトルに開いた日本庭園 『窪田ガーデン』。開園当時の5エーカー(6,120坪)から20エーカー(約2万4,500坪)に拡張され、1987年からシアトル市が所有し管理しているこの歴史的建造物に本格的な石垣が完成したのは2015年。そのプロジェクトを発案し、完成まで携わった彫刻家・児嶋健太郎さんの実録エッセイ。
北海道から参加した石職人の田部さんはこんな細かいところまでちゃんと見ています。これを参考にどのように石を割るか、積むかを決めます。
アレンジメントが終わらない
ワークショップの現場で使うクレーンは決まっていたのだが、前日になってだめになり、ものすごく大きいのが代わりに来ることになった。
栗石(石垣のなかに詰めるこぶし大の石)の運搬に使うバケツ(バケツといっても人が何人も入れるような鉄製の大バケツ)の手配に手違いがあったとの連絡があった、ジョイ・オカザキ理事長がもう一つ手配した。紆余曲折の結果、バケツは2つ現場に現れた。
コンプレッサーのための発電機の手配、発電機の燃料、コンプレッサーの手配、コンプレッサーを使う空調ハンマーの手配、チェーン、ワイヤ、電線、ハツリ鑿、オフセット鑿、飛び矢、トレーサー、様々なサイズのハンマー、ホース、夜間に道具を入れておくための大きな鉄の箱、それの鍵・・・きりがないくらいいろいろ手配しておかなければならなかった。
その他に、毎日の昼食の手配、テント、テーブル、椅子、メディアが来たときの対応、ボランティアの人たちのアレンジメント、本当にきりがなかった。
ワークショップは炎天下で始まった。
シアトルにしては猛暑の摂氏30度を何回か超えた。この8月は記録的な暑さだったらしい。皆、自分のペースを見つけてがんばり過ぎないように願うしかなかった。
最初の数日間は粟田建設の純司会長がいらして、「15分でいいから、午前中に1回、午後に1回、休みをとらせなさい」とおっしゃったので、そうするようにした。細かい心遣いに感謝した。
確かにあの叩きつけるような日差しと重労働では、最初の数日はどうにかなるかもしれなかったが、2週間となると話が違う。やはりペースを考えて、「休みはいらない」と言われてもがんこに休みをとらせた。これは短距離走ではなく、ハーフマラソンだと考えることにした。
14歳のセス、庭師のロリンとデリック
参加者の大半は石工ではなかった。
最年少の少年はセスという14歳の男の子だった。僕の知人の富豪の孫で、どうしても、と頼まれて参加させた。やはりお坊ちゃんだったが、驚くほど礼儀正しかった。毎日の終わりには僕や純徳社長を見つけて挨拶してから帰っていく。やはり重労働、手作業、石など、彼にとって初めてのことばかりだったが、このワークショップに集まった人たちは皆、セスを弟か子のように扱ってくれた。鑿とハンマーの持ち方から、飛び矢を使って石を割る方法まで、誰かが手取り足取り教えてあげていた。セスもとても素直な子で、教えるほうも教えやすかったと思う。僕もワークショップ内外で何回もやり取りがあったが、なぜか少し寂しい感じの子だった印象がある。
セスは、スーパー石工のカイルに憧れたようで、真似をし始めた。なんとなくほほえましかった。カイルは手首に革製のかっこいいリストガードをつけていたが、セスもワークショップが始まった数日後にはそっくりのを持ってきた、お爺さんに頼んで作ってもらったそうだった。カイルのリストガードは「二つ目の皮膚」とでも言いたくなるほどの形と色になっていたのに対して、セスのはまだ真新しい色で硬そうだったがそれを大切に大切にしていた。
ロリンとデリックの本業は庭師であった。だから少し石に慣れていたものの、叩いたことはあまりなかったが、2人とも石の形作りに魅せられてしまった。
デリックはなかなか頑固な人で(石に向いている性格といえる)、どうしても自分の持ってきた道具を使って石を叩くんだ、と聞かなかった。彼の道具はあまり手入れをしていないのがはっきりわかるもので、鑿の先など丸くなっていて、見るからに疲れそうだった。だから、とても苦労して余分な労力を使って汗だくになっていた。しかし、ワークショップが始まって数日して、周りの人たちの使っている道具を観察することができたからであろうか、僕が貸し出していた道具使っていいか、と尋ねてきた。「もちろん!」と、ハツリ鑿(ポイント)とコケヤス(ハンド・セット)とハンマーを貸してあげた。ワークショップが終わるまでそれらの道具が貸しっぱなしになっていたところを見ると、役に立ったみたいだった。(終わったら今度は「この道具、売ってくれ!」ときた。)
ロリンは鑿とハンマーで石を叩いて積むのが面白くなってしまってワークショップが終わったら庭より石をやり始めた。ワークショップの後に彼が積んだ壁を見せてもらったが、単なる壁、というよりもなんとなく芸術作品を思わせる、とんでもなく手の込んだ、バッチリした壁だった。果たしてこんなことで(あんなに手間と時間をかけていたら)商売になるのかな?と思ったが、なににしてもとても楽しんで作ったというのがはっきり感じられる、見ていてうれしくなってしまう壁だった。確かにああいう壁が積めたら幸せになってしまうだろう。
ロリンによると、最初の一週間位は朝起きると左手(鑿を持つ方)が鑿を握ったままの形で固まっていて、「右手で指を一本一本伸ばさなければならなかった」と笑っていた。しかし、田部さんやカリフォルニアのスーパー石工達をよく観察すると、彼らはハンマーが鑿を叩く瞬間、ほんの刹那だが左手の握りを緩めているのがわかった。(もっと観察すると、ハンマーの握りも瞬時ゆるくなる。)
僕も、ロリンほどではなかったが、特に始めのうちは左手の指、特に人差し指と中指がパンパンに腫れ上がって、痛かった。しかし、僕も達人たちを観察して左手は本当に鑿の方向を決めてそこに軽く抑えておくために使うんだということがわかった(僕も彫刻で石を叩くことはあるから、一応そのことは知っているつもりだったが、あんなに力任せに朝から晩まで石を叩いた事などなかった。ちなみにアメリカの石工は石彫家のことを「趣味の石工」と呼ぶ)。
ワークショップも中盤になると少しずつ思ったように石が形ついてくるので楽しくなってしまうのである。上腕にものを言わせてガンガンハンマーを振り下ろして、その度に僕等の使っていたごま塩模様の花崗岩の欠片が飛んでいくのであった。やわらかい焼きごてのような日差しをもろに体中に感じながら、周りは埃っぽくて、あの、現場によくある整頓された混沌の雰囲気のなかで、思いっきり振ったハンマーがぴったりと、鑿の後ろに真っ直ぐ当たって、鑿にもそれを持つ手にも振動がなく、ハンマーにもハンマーを持つ手にも雑な振動はなく、それどころかハンマーが、振り下ろした軌道を逆にたどって勝手に跳ね返って来るようで、僕が発した運動エネルギーは(跳ね返された分以外)すべて石に移った、そう感じられる一撃が何回か立て続けに打てるようになった。
それで得意になってフンフンと鼻を鳴らしながら周りを見回すと、北海道から参加した石職人の田部さんが(彼特有のフックスイングで)カキーン、カキーンとゆっくりのどかそうに叩いている。彼の鑿先から飛ぶかけらは僕が力任せに叩いたのの数倍の大きさだった。僕は石を叩き崩している感じがするのに対して田部さんのやり方は鑿で石を剥がしているようなめくっているようで、あきれるくらい大きな石の欠片がパカッ、パカッと剥がれていくのであった。こういう熟練した技を見るのはなんともすがすがしいものである。思わず作業をやめて見とれてしまった。田部さんには石の選択から線引き(ここを割る、とかここを平らにする、とか決める)までやっていただいたので忙しかったと思う。しかし、彼が石を叩き始めると、じっと見つめる人たちが必ず何人かいた。
一度、田部さんが道具を置いてどこかに行ってしまった時、僕はロリンと田部さんのハンマーと鑿を見にいった。(別に彼が飛び抜けて上手いのは道具のせいだとか思ったわけではない。決して。)ハツリ鑿は近藤のトレードマークの紫のさび止めが塗ってある先がカーバイドの普通の鑿だった。しかし、ハンマーの柄が内側に曲がっていた。「ははー、自分のフックするスイングにあわせたんだな」と、微笑んでしまった。「ということは、ハンマーの片方しか使えないじゃないか」と考えながらハンマーの面を見ると、真ん中あたりだけ銀色にピカピカと光を反射していた。一円玉くらいの大きさだ。あごが地面に落ちてしまうほど驚いた。ハンマーの面が鑿に当たるのが必ず同じところなので、そこだけ摩滅したようになっているのである。田部さんのスイングはそこまで正確なのだ。他はまだオリジナルの塗装がついていた。まだ数十回に一度は手を叩いて、イテーッといって跳ね上がる僕やロリンには、本当にそんなことが可能なのか信じられなった。だが、目の前にその動かぬ証拠があった。驚いて顔を見合わせ、スゲーーとため息が出てしまった。
これは道具のせいじゃねーや。
ちなみに、このワークショップでロリンは人生が変わってしまったそうである。彼は今、石ばかりやっている。そして、シアトルの他の有能な石工たちに目をつけられて、一緒にいろいろとプロジェクトをしている。彼は今は左手の指が固まってしまうどころか、手袋さえしなくなってしまった。ハンマーの衝動が鑿を通して感じられるからだそうだ。打ったときの音も大切だ、音と手の感覚だけでかなりわかってしまう、と言っていた。
いつの間にそこまで差をつけられてしまったのだろう。
そして、デリックも、石の道具に目覚めた。今は、石用の鑿数種類とハンマー数個、それに空調ハンマー一式まで持っている。これは後日談であるが、窪田ガーデンの庭師長のドンはデリックが気に入り、「自分が引退する時に後任の庭師長にならないか」と何度も聞いていた。「まあー、確かに雇われ庭師だからそこまで自由じゃないけど、健康保険あるぜ。それも家族全員。後、安定だな。自分でやっているときは毎年当たり外れあるし、この前の不況みたいなときなんかどうなるかわからないじゃないか。市の仕事はいいぜー。特に庭師長なんか。最高だぜ。」と、ドンは言うのであった。デリックも揺れている様子だった。未来の窪田ガーデン庭師長が面白い巡り会わせで見つかるかもしれない。
筆者プロフィール:児嶋 健太郎
彫刻家。グアテマラで生まれ育ち、米国で大学を卒業した後、ニューヨークの彫刻関連のサプライ会社に就職。2005年、シアトルのマレナコス社に転職し、石を扱うさまざまな仕事を手がけている。2006年のインタビューはこちら。