日本人建築家・小笹三郎氏が設計を手掛けたホテル。1910年8月、日本から出稼ぎのため単身渡米した男性向け長期宿泊施設としてオープン。第二次世界大戦時に強制収容された日系アメリカ人の家財道具などを地下で保管し、ホテル1階に開店したカフェ『パナマ・ホテル・ティー&コーヒー』の床のガラス越しに、戦後になっても引き取り手が現れなかった荷物を見ることができる。パナマ・ホテルと日系人の強制収容を描いたジェイミー・フォードの小説『Hotel on the Corner of Bitter and Sweet(邦題:あの日パナマ・ホテルで)』(2009年出版)が、2010年にニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト入りし、その存在が米国で広く知られるようになった。2006年、米国史跡認定。2015年、米国国宝認定。2020年、日本政府より「令和二年度外務大臣表彰」受賞。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。
連載の最後は『橋立湯(はしだてゆ)』について。
1910年代にパナマ・ホテルの地下に開業した銭湯で、北米で完全な形で現存する日本式公衆浴場の姿を今に残しています。パナマ・ホテルが史跡や国宝に認定されることに大きく貢献しました。
パナマ・ホテルの西側を6th Avenue 沿いに歩くと、橋立湯の入口のゲートがあります。普段は施錠されているので見ることはできませんが、ジャンが不定期で開催している銭湯案内ツアーに参加すれば、見ることができます。でも、今日は特別に内部をお見せします!また自由に旅行ができるようになったときに、ぜひ参加してみてください。
まずは銭湯内の平面図をご覧ください。
こちらは、私の記憶を頼りに作っているので、多少の誤差はご容赦ください。ご覧のとおり、女性用の浴室に比べて男性の浴室は広く、3倍の大きさがあると言われています。当時の銭湯を経営していた佐野氏の話にも、林業や鉄道、炭坑などの重労働や人種差別に苦しむ中で、異国の地で暮らす日本人移民が銭湯に入って日々の辛さを分かち合い、疲れを流し、故郷を思い出す時間として、言及しています。
それでは銭湯内へどうぞ!
上の写真は、男湯の浴室と浴槽です。この浴槽、結構深いです。なので栓を抜く際には手が届かないので、鉄製のスティックを使っていたそうで、それもこの銭湯ミュージアムに残っています。
こちらは男湯の浴槽から脱衣所を眺めたときの様子。浴室と脱衣所には段差があるので、脱衣所と浴室を隔てるドアがなくても、浸水する心配はないですね。左手にはドアがあり女湯につながっています。
写真に向かって右手奥には、ドリンクカウンターが備えられており、日系2世の方の幼い頃の思い出には、お風呂上がりの冷たい炭酸飲料を飲むのが至福のひと時だったという話がありました。カウンターのところにはカーペットが敷いてあり、そこで湯上りの一杯を楽しんだのでしょう。また、ここではタオルを有料で借りることができました。飲み物の営業は、銭湯の経営とは別の人が行っていたそうです。
正面のロッカーには長椅子があります。
浴室には椅子も置いてあり、そこで体を洗ってから浴槽に浸かっていました。このルールは日本と同じですね。また、男湯には洗面台とシャワーもありました。
こちらは女湯の浴槽。男湯と比べて小さいことがわかります。
こちらは浴室の床で、男湯も女湯も同じデザインになっています。花模様がきれいです。
『橋立湯』は英語では宣伝されず、日本語だけで宣伝されていました。なぜなら、銭湯は日頃のきつい仕事や人種差別を受ける辛い日常から解放される日本人にとっての憩いの場となっていたからです。
朝10時にオープンし、親に連れてこられた子どもなどで夕方は混み、そして夜の10時30分から11時は、お店のオーナーや遅くまで働いていた人が、帰宅前に寄って疲れを癒したそうです。
最初にボイラーを点けてお風呂を温めます。そして熱い湯と冷たい水を混ぜて、浸かるのに適切な温度を作っていたそうです。「一番風呂」が好きな常連客は、いつも一番熱いお風呂のお湯を混ぜて、その後のお客さんのためにお湯を柔らかくするのが決まりでした。
多くは食後の午後6時以降に来て、そして午後8時をすぎるとさらにに忙しくなりました。子どもは親と来て、お年寄りの中には一人で来て楽しんでいた人もいたそうです。
最盛期にはシアトルの日本町に10軒ほど銭湯があったと言われています。パナマ・ホテルは当時の日本町の中心に位置していたので、『橋立湯』は宿泊客だけでなく近所に住む日本人にも利用されていました。しかし戦後は、住宅に浴室が設置されたこと、また水道代の高騰などが原因で公衆浴場が衰退し、1963年に 『橋立湯』は廃業しました。
11回にわたってパナマ・ホテルの歴史や、私のOPTの体験談をシェアさせていただきました!
いかがでしたか?
私にとってパナマでの1年間は本当に貴重な時間でした。日本人にとっても、そしてアメリカの歴史にとっても重要な場所で働けたことをとても光栄に思っています。
スーザンさん、ジャン、友人たちや姉の協力のもと作成したパナマ・カフェで販売されていた公式ブックレット(AmazonKindle にて発売予定!)は、パナマ・ホテルが令和二年度外務大臣表彰受賞の過程で、シアトル領事館によって表彰案件として推薦される際に大きく貢献しました。また、シアトルの地元の小学校や図書館にも寄贈されました。
この連載がきっかけで、シアトルのパナマ・ホテルに訪れてみたいという人が一人でも増え、実際に歴史を感じて頂きたいと思います。そして、何年も前から都市伝説的に囁かれている(数年前、シアトルのテレビ局 KOMO でパナマが取り上げられた時にキャスターがこの話をしていたので、本当かも・・・)『あの日、パナマ・ホテルで』の映画化・ミュージカル化が実現したときは、ぜひパナマに来てシアトルの日系人の歴史を見て、感じてみてください。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました!
最後に:
このエッセイを執筆し始めたのは2020年12月でした。その後、公の場で新型コロナウィルスを "Chinese Virus" と呼ぶ政治家などの影響もあり、アジア人の外見をしている人が無差別に襲われる事件がアメリカで発生しています。多い時は前年同時期を150%も上回る頻度でアジア人が被害に遭う事件が報告されているそうですが、全員が被害を報告するわけではないことから、実際はそれよりも多いかもしれません。
太平洋戦争時にアメリカの日本人や日系人が収容所に収容されたことも、情報不足や情報の錯綜が引き起こす恐怖心や疑心が人種差別に発展し引き起こした人類史の一部だと、私は思っています。現代の新型コロナウィルスを理由にした "Anti-Asian" の動きも、当時と同様に人間の心理的サイクルによって発生した事件ではないでしょうか。「恐れ」は人々に恐ろしく非人道的な決断やアクションを実行させます。そして残念ながらその歴史は繰り返されてしまうこともあります。大切なのは、ただ歴史を学ぶのでなく、その歴史を現在の私たちを取り巻く環境にあてはめて考え、何が起きているのか、その原因は何か、そして同じ悲劇を繰り返さないために何をすべきかを話し合い、行動を起こすことではないでしょうか。
この連載やパナマ・ホテルのブックレットが、誰かにとって、身近なな問題を考える小さなきっかけになることを願って・・・。
ありがとうございました!
参考文献:
Dubrow, G. with Graves, D. (2004). "Sento At Six and Main," Smithsonian Books
パナマ・ホテル、カフェの最新情報は公式 Facebook ページをご覧ください。
文:疋田 弓莉(ひきた・ゆり)
東京出身。幼い頃から北米で生活してみたいという夢を抱く。日本で鉄道会社に勤務後、2018年から2020年の約2年間にわたり留学生としてシアトルに滞在。パナマ・ホテルと運命的な出逢いを果たし、1年にわたりOPTでパナマ・ホテル・ティー&コーヒーで働く。日本帰国後、東京のPR会社に就職。
掲載:2021年6月