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シアトルで日系アメリカ人の歴史を訪ねる 「日系アメリカ人 ゆかりの地ガイド」

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アメリカのワシントン州シアトルに、太平洋戦争の勃発まで『日本町』が栄えていたのをご存知ですか。日本から移民した日本人と、アメリカで生まれた子どもや孫などの日系アメリカ人の歴史を辿ってみると、また違ったシアトルが見えてきます。

日系アメリカ人の歴史を伝える無料ウォーキングマップ
もくじ

太平洋戦争の勃発まで栄えていた日本町

日本から移住した村上家が建設し、一階で日用品を販売する店『Higo』を経営していた
ジャクソン・ビルディング裏にある 『Chiyo’s Garden』

現在のインターナショナル・ディストリクト、セントラル・ディストリクト、パイオニア・スクエアという、3つのネイバーフッドで、日本から最初の移民が移住した1880年代から、日本がハワイの真珠湾を攻撃した約2カ月後の1942年2月19日にルーズベルト大統領が日本人と日系アメリカ人の強制収容を命じるまで、「日本町」が栄えていたのをご存知ですか?

その歴史をもっとたくさんの人に知ってもらおうと、シアトルのウィング・ルーク博物館とクロンダイク・ゴールドラッシュ国立歴史公園が共同で企画し、ワシントン州日本文化会館に勤務するグラフィック・デザイナーの中村有理沙さんが半年以上の期間をかけてデザインと翻訳を行って2018年に完成したのが、このウォーキングマップ『日系アメリカ人 ゆかりの地ガイド』です。

中村有理沙さんは、2013年に渡米し、ワシントン大学大学院のランドスケープ修士課程で学ぶうち、日本・中国・フィリピン・ベトナムなどの移民がインターナショナル・ディストリクトという一つの地域を150年以上にわたり共有していることに興味を持ったそう。修士論文を移民の帰属意識について書くことに決め、それぞれの移民グループにとって大切な場所を探るうち、他の移民グループとの社交の場もあれば、自分の移民グループだけで社交する場もあったことが、「社会との接点」と「自分の居場所」の両方を持つことにつながり、複数の移民グループが共存できたのだと考えました。

強制収容された日系人が置いていった所持品が
今も保管されているパナマ・ホテル

「その時に集めたさまざまな情報もこのプロジェクトに役立ちましたが、地図を制作していた時は毎日が新しい発見の連続でした」と、中村さん。「例えば、強制収容された日系人が置いていった所持品が今も保管されているパナマ・ホテルには、日系人の方々がかつて学校やディナーなどの帰りに利用し、米国内で唯一、当時の状態のまま保存されている公衆浴場・橋立湯があります。歴史を知ることで、その光景が浮かんできます」

身近にある、日系人ゆかりの場所

ウィング・ルーク博物館

この地図で中村さんがおすすめする「訪れて楽しいところ」は、当時の日本町で営業していた商店などの広告や、現存する建物の一つである日本館で使われていた緞帳が展示されているウィング・ルーク博物館。

また、現在は120人以上のアーティストのスタジオ兼住居として再利用されている旧 INS(米国移民帰化局)の建物は、1932年から2004年まで移民の入国や拘留、強制退去、米国籍を取得した移民の宣誓式やグリーンカード(永住権)取得のための面接などが行われていたところ。1941年の真珠湾攻撃後には、日系社会やビジネス界のリーダーを含む日系一世が拘束され尋問を受けたのもこの建物でした。中村さんは、「宇和島屋から2ブロックしか離れていないところに、そんな歴史があったとはと、ショックを受けました」と話してくれました。

ワシントン州日本文化会館(JCCCW)
Photo: Arisa Nakamura

また、ワシントン州日本文化会館では、日系人の歴史を伝える芸術品、遺物、展示を見ることもできます。

その一方で、例えば1913年から1925年まで開業し日系移民患者が多数を占めたシアトルで唯一かつ最初の病院「リライアンス病院(日本病院)」や、無声映画の時代に弁士(映画説明者)の語りと共に日本映画を楽しむ映画館として1918年に開業した国際劇場(開業当初は Atlas Theater という名称)など、今はもうなくなっているものもたくさんあります。

国際劇場の場合は、強制収容を生き延びたキタムラ一家が経営を引き継ぎ、1960年代に「国際劇場」と改名しましたが、1980年代後半にキタムラ夫人が亡くなった直後に閉館しました。その後、国際劇場は取り壊され、今は Seattle Chinese Post(西華報)のオフィスビルとなっています。1913年に開業し、1942年まで営業していた「キャディラックホテル」は現在はクロンダイク・ゴールドラッシュ国立歴史公園になっており、建物が残っていても中身が変わっているものもあります。

日系アメリカ人、フランク・ヒロユキ・ニシムラさんの生涯

この地図にある「ヒロの散歩ルート」について中村さんに尋ねてみたところ、シアトルの日系社会で多くの人に慕われた「フランク・ヒロユキ・ニシムラさん」が散歩していたルートとのこと。インターネットで調べてみると、ニシムラさんは1919年にシアトルで生まれ、今年1月にお亡くなりになった日系2世の方でした。

日本からシアトルに移住したニシムラさんの両親はビジネスで成功し、戦争勃発時は444の客室があったシアトルで2番目に大きいホテルだった「ピュージェット・サウンド・ホテル」を経営していたそうです。このホテルはワシントン州法で日系移民による土地購入が禁止されていた時代にユダヤ系弁護士がニシムラさん一家のために購入した不動産で、ニシムラさんの散歩ルートから1ブロックのところ(6th Avenue South と South Dearborn Street)にあったことが、この地図に記されています。

ワシントン大学で学び、言語に堪能だったニシムラさんは、太平洋戦争が始まり、日本人・日系人の強制退去・収容命令が出されると、母国アメリカへの忠誠心を示すため米軍に志願し、戦後にパープルハート章(戦傷章)などを授与された退役軍人でもありました。シアトルに戻ってからは、米国政府による日本人と日系アメリカ人の強制収容を批判し続け、米国議会で証言を行ったことでも尊敬を集めました。

ニシムラさんの半生については、第2次世界大戦で母国アメリカのために戦った人権活動家で詩人・作家のローレンス・マツダさんのグラフィックノベル『Fighting for America: Nisei Soldiers』(後にアニメ化され、エミー賞北西部部門を受賞)や、日系アメリカ人の証言をアーカイブしている非営利団体 Densho などでさらに深く知ることができます。

「日本人が移住した初期のころから第二次世界大戦、そして今日までをつなぐ場所がこんなにあることを、たくさんの人に知ってもらえれば」と中村さん。「苦難に立ち向かった人々の物語、そして今日へのつながりをぜひ追体験してみてください」

ウォーキング・マップとウォーキング・ツアー

このウォーキング・マップは、ウィング・ルーク博物館の公式サイトからダウンロードできます。

日本語版
英語版

ウィング・ルーク博物館によるウォーキング・ツアー
Photo: Alan Alabastro

ウィング・ルーク博物館では、このウォーキング・マップで紹介されているゆかりの地をめぐる英語でのウォーキング・ツアーを実施しています。個別ツアーをご希望の方はウィング・ルーク博物館に直接お問い合わせください。

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