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起業家に聞く、シアトルらしい働き方 – シアトルで日本酒造り アンドリュー・ナイヤンズさん

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アンドリュー・ナイヤンズさん

シアトルらしい働き方、それは「好きなことをやりきる」ということ。情熱を表現する手段として「起業」を選び、その場所として「シアトル」を選んだ人たちには、どんな思いがあったのでしょうか。

今回お話を伺うのは、タホマ富士酒造(Tahoma Fuji Sake Brewing Company)の代表、アンドリュー・ナイヤンズさん。富山で酒造りを学んだ後、2014年に酒蔵をオープンしました。たった一人で行う酒造りに苦労を重ねながらも、笑顔を絶やさず真摯な姿勢で仕事と向き合うアンドリューさん。日本酒への情熱と、ポジティブな仕事観を伺います。

もくじ

酒造りは日本文化の象徴。富山での出会いから日本酒の世界へ

製造中の酒。「かなりの自信作!」とアンドリューさん

– タホマ富士酒造について教えてください。

日本酒の製造と販売です。1ロットが60〜100ボトルという、生産量の少ないマイクロブリュワリーです。出来上がったお酒は、「Kamonegi」「Yoroshiku」などの日本食レストランや、「Sakenomi」などの居酒屋、あとは「Opus」といったアメリカ料理のレストランに卸しています。意外とアメリカ料理にも日本酒が合うんですよ。

– シアトルで酒蔵とは珍しいですね。なぜ酒造りを?

妻の実家が富山県だったことがきっかけです。2002年にワシントン大学を卒業した後、富山に移り住みました。1年ほど経ったころ、知人のツテで「酒蔵が忙しいから手伝いに来てくれないか」と声をかけられたのです。富美菊酒造(ふみぎくしゅぞう)という老舗の酒蔵です。秋の初めの酒造りシーズンのことでした。

– 以前から日本酒が好きだったのですか。

いや、全然。シアトルの日本食レストランで安い日本酒を飲んだことがあるくらいで。酒造りどころか、酒の味も何も知りませんでした。ですが試しに働かせてもらうと、それが本当に衝撃的な体験だった。すばらしい出会いがあったんです。酒蔵に杜氏(とうじ・酒蔵における酒造りのリーダー)の若い男性がいました。酒造りへの情熱と才能があって、ぼくのような外国人に対しても気さくに接してくれて。ぼくたちは意気投合して、毎日仕事が終わると酒を飲みに行きました。

– 杜氏との出会いによって、酒造りの世界にのめり込んでいったと。

酒造りは日本文化を象徴しています。すべてがとても慎重に、時間をかけて行われます。建物や道具、言語、酒文化、どれも日本らしくて、とても新鮮でした。富美菊酒造は酒造りを学ぶのにベストな環境だったんです。5人だけのチームだったので、分業制ではなくすべての工程を全員で進めます。一つひとつの作業を体で感じて、全体像を把握することができました。杜氏は酒造りのことを丁寧に教えてくれました。

– そのまま富美菊酒造で働き続けたのですか?

残念ながらそうはなりませんでした。翌年の夏、いろんな事情が重なって、その杜氏が酒蔵を去ることになったのです。そこで初めて、今後自分がするべきことは何かと真剣に考え始めました。やりたいのは、彼から学んだ知識を生かして自分の酒を造ること。だから酒造りについてもっと学びたくなったんです。富山ではなく、シアトルで。

シアトルでの新たな挑戦。ビール醸造から日本酒を知る

– シアトルで?

シアトルに戻って、ビール造りをゼロから学びたいと考えました。酒蔵では学びきれなかった酒造りの知識を、ビール造りを勉強することで補いたかった。大きなチャレンジではありましたが、妻に相談したところ快くオーケーしてくれて。「やらない理由はないよね。行こう!」って。2004年にシアトルのビール醸造所に就職して、2つの醸造所で合計6年間、ビール醸造家として働きました。

– ビール造りの経験が日本酒の役に立ちますか。

もちろん、ビールと日本酒はまったく違います。特に僕がいたのは大きなビール醸造所だったので、何もかもがハイスピードで進みます。でも基本的なところは似ているんです。発酵や化学反応のこと、イーストの扱い方、タンクの清掃、製品のケアなど。ビールのこの作業は日本酒に置き換えたらこれだ、と考えていくことで、酒造りへの理解を深めることができました。その中で、やはり自分は日本酒の醸造が好きなのだと実感しました。

– そして2014年、ついに自分の酒蔵をオープンしたのですね。

夢を実現できたのは、家族のサポートがあったことが大きいです。大工をしている実父は、ぼくたち夫婦がバラードに家を買った時、「裏庭に酒蔵を建てよう」と提案してくれました。シアトルで事業をする上で、土地にかかる費用は重要です。自分の土地なら大幅にコスト削減できる。父と一緒に小さな酒蔵を建てて、酒のタンクを設置しました。また、富山にいる妻の両親も協力してくれて、日本で必要なものがある時はすぐに送ってくれました。2015年になって初めて大きなバッチでの酒造りに挑戦しました。

– 杜氏としてのキャリアをスタートさせたと。

ぼくは自分を杜氏だとは思っていません。杜氏とは酒造りのすべてを知っている人のこと。酒が今どういう状態にあるのか、触れたり味わったりすることで瞬時に判断できる特別な感覚が必要です。その感覚は経験によってのみ磨かれる。ぼくはまだそのレベルに達していないので、蔵人(くらびと・酒造りの職人)ですね。

好きなことを好きな場所で

– 日本的な考え方ですね。一人で酒造りをすることに不安はありませんか。

今年の夏、体を壊して入院していました。その間の2カ月間、酒造りが完全にストップしてしまったのです。これは辛かったですね。今は復帰して少しずつペースを取り戻しているところ。この酒蔵で酒を造るのは自分だけなので、すべては自分次第です。

たとえば酒造りで失敗したときは、その原因がどこにあるのか、要因を一つずつ検証して答えを見つけなければいけない。日本の酒蔵に聞くこともできますが、そもそもの環境が違いすぎる。彼らには長年培ったノウハウと設備があります。ぼくの酒造りはまだスタートしたばかりなので、試行錯誤を繰り返して少しずつ前進するしかないですね。

– あえてシアトルで日本酒の酒蔵を開いたのはなぜですか。

自分の好きな土地で、好きなことをしようと思ったら自然とこうなった、という感じです。加えて、シアトルは小さなビジネスを始めるのにとてもいい環境だと思います。ローカルコミュニティが発達しているので、コミュニティの中で物を売るのに適している。ビジネスをサポートしてくれる土壌もある。日本酒という意味では、歴史的に日本人とのつながりがあって、日本文化が当たり前のものとして根付いているのは大きなアドバンテージです。白人や黒人も日本の食文化を受け入れてくれます。良い水と良い気候があって、カリフォルニアからの良い米が手に入る。酒造りには最適のコンディションです。

– 今後目指すものは。酒蔵をもっと大きくすることですか?

ぼく自身は、酒蔵を大きくしようとは考えていません。ビジネスを拡大して生産量を増やして、酒バーを建てて人を呼んで、そのマネージメントをして・・・とやっていたら、肝心の酒造りが自分でできなくなってしまうでしょう?酒造りの材料を買い、家族と生きていけるお金があればそれで十分です。今の目標は、生産リズムを安定させること。一定の期間で一定の量を造って顧客に卸し、自由な時間は大切な家族とのんびり過ごす。幼い子どもたちの面倒を見て。妻とよく「隠居生活みたい」と笑い合うのですが、それが一番幸せな人生なんじゃないかなと思っています。

取材・文:小村トリコ
シアトルで編集記者を務めた後、現在は東京でフリーライターとして活動中。人物インタビューを中心に、文化・経済・採用などのジャンルで記事を執筆している。

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