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Acucela 社 社長兼CEO 窪田良さん

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もくじ

眼科の臨床医へ

幼いころから、科学にわりと興味がありました。親戚に医者もいましたし、科学の中でも特に、「人間の生命に関わる医療の分野の仕事をしたい」という思いは強かったですね。当時は臨床医として患者さんの治療をしていくのか、それとも基礎研究者として研究をしていくのかということまでは考えていませんでした。

医学部の卒業生のうち10%は臨床を経験せずに研究者の道に進み、残る90%という大多数は臨床の道に進みますが、私の場合は自分の年齢や外的な環境によって、臨床を中心にするか研究を中心にするか、または完全に臨床と研究のどちらを選ぶかと、心が揺れた時期もありました。いろいろ考えた挙句、患者さんを治す仕事をやりたいと思い、眼科医の臨床を志したというわけです。周囲の人に言わせると、幼いころから「人を助ける仕事をやりたい」と言っていたと、後になって聞きました。

眼科医になった理由

眼科医になったのは、目が体に与える影響が大きいことと、目というものについて私が非常に好きだったことがあります。人の表情をとっても、まず相手に印象を与えるのは目の部分であったりしますし、自分が情報を得る上でも目は非常に大事なものですから、それを治療できることはやりがいがあると思ったのです。

でも、最初に驚いたのは、眼科の中で、失明していく不治の病があまりにもたくさんあるということ。眼科医に診てもらって失明が予防できたり、また視力が回復したりする患者さんもたくさんいるのですが、やはりまだまだ一部の病気しか直せないということがわかりました。そういう中で、現在ある治療法を日々たくさん実践して多くの患者さんを治していくという道もありますが、個人的な希望としてはやはり今までにない治療法を開発して、少しでも多くの患者さんの目を治してあげたいと思うようになったのです。

特に私が興味を持ったのは網膜変性疾患です。網膜変性疾患の患者さんに接する機会が多い病院だったということもありますし、臨床経験の初期の経験から「目が不自由で困っている人たちを、自分が生きている間に治せたら」という強い思いを持つようになりました。しかし、製薬企業の人たちなどに聞いても、当時はそういう病気を治すための新薬開発はされていないという答えが返ってきたのです。そこで、「誰もやってないなら、自分がやるしかない」と思いました。やはり幼いころにアメリカに住んでいたことが大きいと思います。

人生を変えたアメリカでの体験

私の生まれは神戸ですが、船舶関係の仕事をしていた父の海外転勤で、小学校から中学校時代にアメリカのニュージャージー州に3年程住みました。

当時私が通っていた日本の小学校の教育は「なるべく均一に、他の人と同じことをきっちりやって、その中で自分を伸ばしていく」という印象でしたが、アメリカに来た時に感じたのは、「それぞれが他の人とはまったく違う考えを持ち、それを伸ばしていく」ということ。また、違っているが故にブレイク・スルーやパラダイム・シフトができたり、今までにない価値観を社会に持ってきたりすることができるという信念が当時のアメリカにはありました。自分なりに考えて、「いい哲学だな、自分にはもしかしてあっているかもしれない」と思っていました。逆に言えば、 均一性の中で自分を伸ばしていく柔軟性がなかったことは自分の欠点だと思うのですが、この哲学はその欠点をプラスに転換できる発想だなと思い、飛びついたのでしょうね。

もともと当時通っていた日本の学校でどんどん伸びることができるタイプだったら、そんなことも感じなかったでしょうし、もっと別の形で自分を伸ばすとか成長させることを選んだと思います。それがその後の価値判断の基準になり、「人がやっていないことをなるべくやろう、それが自分の生きる道だ」と感じるようになりました。

幼いころ学校にいても、なかなか溶け込めなかったり、ネガティブに受け止められたりしていた私が、「個性を持つことはいいことなんだ」という、ちょっとした、それでいて根本的な発想の転換をしただけで、学校における自分のポジショニングが変わるとか、よりたくさんの友達ができるとか、楽しい時間が過ごせるとか、周りの環境と自分に対する見方や感じ方とかに大きな変化があったんですね。もともと単純な人間なんですよ(笑)。

そのように、わかりやすい、手に取るような変化があったので、そういうことをやることは自分にとってプラスなんだと何の疑いもなく感じられたのです。それを試した時に自分の周りや自分の中で起こったので、「しめた、いい考えに出会ったな」と。

臨床から研究へ、アメリカで研究開発をする

高校に入ると、また父親の転勤で東京に移りましたが、改めて自分が日本人であることをとても認識させられました。その頃から、日本人としての意識が高まって、日本の中で、あるいは世界の中で、日本人としてどういう仕事をしていけるのかということを考えるようになったのです。

もしアメリカに住まなかったら、今こうしてアメリカに来て、これからもアメリカにいようとは思わなかったかもしれません。自分の生き方として、アメリカでやれるだけやってみようという決断ができたのは、アメリカと日本のそれぞれの良い点、悪い点をある程度わかっていたからと言えるかもしれません。実際、今日私の分野の仕事をする上では、アメリカの方がやりやすいですしね。もちろん、幼いころにアメリカを含む海外に住んでいたことのない人と比べると、アメリカの文化や言語に対する抵抗が少なかったこともあるでしょう。

最初の発見から治療薬の開発へ

当時は日本でも世界でも人の病気の原因がなぜ起こるのかわかっていませんでした。例えば、眼科の中の病気の大きなもので言えば、緑内障がそのひとつでした。何らかの遺伝子の異常によって緑内障が起こるのはわかっていたのですが、どういう遺伝子がおかしくなって起こるのかといった詳しいことはわかっていなかったのです。私はその原因のひとつを、偶然ですけれども、大学院時代に発見する機会に遭遇できたのです。もちろん自分だけの力ではなく、多くの同僚や先輩のサポートのおかげです。そういうひとつの成功体験、研究をしていろいろなことがうまくいくと、これだけの大きなインパクトがあるんだということを実感することができました。

しかし、それと同時にわかったのは、「病気の原因を明らかにするだけでは治療法の開発はできない」ということです。考えてみると、病気の原因がわかっている病気が世の中には日々増えてきているわけですが、原因がわかってくるのと同じようなスピードでは治療薬の発見が進むわけではないのです。原因がわかれば治療法が勝手に湧いてくるわけではなく、そこからまた何倍もの努力をしないといけないということを痛感することになりました。

そうなった時に、自分がまた臨床に戻って、あとの研究は誰かにまかせるということでは、何の対策にもならないと思ったのです。患者さんにしても、「あなたの病気の原因はこれですよ」と言われても、「じゃあどうやって治してもらえるんですか」という疑問が当然あるわけですから、治療法がないのに原因を知るということは、かえって不幸になる場合もあります。そこで、病気の原因を見つける機会に恵まれた以上は、「その治療法を開発するまで最後まで努力するのが自分の使命ではないか」と思いました。

昔、感染症がなぜ起こるのかわからなかった時に、その原因は病原体であると発見したことが大きなパラダイム・シフトを引き起こしたように、病気の原因を明らかにするということは非常に大切なんですが、やはりその次には治療法の開発をしなくてはなりません。というわけで、それを機会にアメリカに渡って研究することにしました。昔の患者さんから、「いつまた日本に戻ってきて目を診ていただけるのですか」とお手紙をいただくこともあるのですが、少なくとも自分の手で治療法を発見するまでは、なかなかそれをやめるわけにはいきません。私が不器用なだけかもしれませんが、治療と研究は片手間にできるものでも、両方を同時進行できるものでもなく、どちらかに全力を尽くさないとできないもの。今はできるだけ治療法の開発に専念し、それが成功したら、臨床に戻るかどうか考えたいと思います。ただ最近は、臨床試験等を通して自分達の開発した薬を臨床現場で使用する機会が出て来ましたので、患者さんの近くで仕事をする機会がまた増えそうです。

アメリカに移住する

海外で研究開発をしようと決めた時、網膜の治療の研究が一番進んでいるという世界中のラボを検討し申し込んだところ、ワシントン大学から研究員として受け入れてくださるとのお知らせをいただきました。他の大学からもオファーをいただいたのですが、何度かラボで面接を受けた後で、やはり西海岸という風土の方が、自分がリードして研究をしていく環境が整ったリベラルな研究環境であり、ワシントン大学なら成功する可能性がより高いと思い決定しました。こうしてやりたいことをやっている今日を見ると、それは非常に正しい選択だったのではないかと思います。

ワシントン大学で第2の発見

ワシントン大学では私と同僚とその他の人々との共同研究で、網膜という神経細胞を体外に出しても長期的に維持できるという基本技術を幸運にも発見することができ、その技術をもとにこのベンチャーをスタートすることになりました。さまざまな専門家からなる学際的なチームを必要とする薬剤開発は、大学の研究者として遂行することは難しいと考えたからです。会社を設立するためには大学を辞めなければなりませんから、最初の社員は私だけで自宅の地下室で始めました。後に、ワシントン大学の MBA コースにいた人もビジネスを手伝うということで参加してくれました。いろいろな友人・知人と相談しながら、起業することを学びつつやってきたという感じですね。幸い、シアトル自体の環境にしても、弁護士の方にしても、新しい会社を設立していく、特に科学の分野でやっていくという人には協力的でした。シアトルの環境の良さのひとつかもしれません。会社を設立した頃から考えると、今のように約30人の社員と、既に臨床試験の現場で我々の開発した薬を飲んでいる方がおられるというところまで来られるとは思ってもいませんでした。いろいろな人の協力があって、予想以上のスピードで成果が出せていると思います。

最初の発見から治療薬の開発へ

当時は日本でも世界でも人の病気の原因がなぜ起こるのかわかっていませんでした。例えば、眼科の中の病気の大きなもので言えば、緑内障がそのひとつでした。何らかの遺伝子の異常によって緑内障が起こるのはわかっていたのですが、どういう遺伝子がおかしくなって起こるのかといった詳しいことはわかっていなかったのです。私はその原因のひとつを、偶然ですけれども、大学院時代に発見する機会に遭遇できたのです。もちろん自分だけの力ではなく、多くの同僚や先輩のサポートのおかげです。そういうひとつの成功体験、研究をしていろいろなことがうまくいくと、これだけの大きなインパクトがあるんだということを実感することができました。しかし、それと同時にわかったのは、「病気の原因を明らかにするだけでは治療法の開発はできない」ということです。考えてみると、病気の原因がわかっている病気が世の中には日々増えてきているわけですが、原因がわかってくるのと同じようなスピードでは治療薬の発見が進むわけではないのです。原因がわかれば治療法が勝手に湧いてくるわけではなく、そこからまた何倍もの努力をしないといけないということを痛感することになりました。

そうなった時に、自分がまた臨床に戻って、あとの研究は誰かにまかせるということでは、何の対策にもならないと思ったのです。患者さんにしても、「あなたの病気の原因はこれですよ」と言われても、「じゃあどうやって治してもらえるんですか」という疑問が当然あるわけですから、治療法がないのに原因を知るということは、かえって不幸になる場合もあります。そこで、病気の原因を見つける機会に恵まれた以上は、「その治療法を開発するまで最後まで努力するのが自分の使命ではないか」と思いました。昔、感染症がなぜ起こるのかわからなかった時に、その原因は病原体であると発見したことが大きなパラダイム・シフトを引き起こしたように、病気の原因を明らかにするということは非常に大切なんですが、やはりその次には治療法の開発をしなくてはなりません。というわけで、それを機会にアメリカに渡って研究することにしました。昔の患者さんから、「いつまた日本に戻ってきて目を診ていただけるのですか」とお手紙をいただくこともあるのですが、少なくとも自分の手で治療法を発見するまでは、なかなかそれをやめるわけにはいきません。私が不器用なだけかもしれませんが、治療と研究は片手間にできるものでも、両方を同時進行できるものでもなく、どちらかに全力を尽くさないとできないもの。今はできるだけ治療法の開発に専念し、それが成功したら、臨床に戻るかどうか考えたいと思います。ただ最近は、臨床試験等を通して自分達の開発した薬を臨床現場で使用する機会が出て来ましたので、患者さんの近くで仕事をする機会がまた増えそうです。

新薬の開発とは

新薬の開発には全体で12年前後かかると言われているわけですが、その期間の多くが臨床開発という、人間の中でどういう効果があるのかに関する調査に費やされています。臨床試験はフェーズI、II、III という段階に分けてやるのが今の薬剤開発のスタンダードです。というのは、薬というものはものすごく良い効果を発揮できる可能性がある一方で、ものすごく悪い副作用や毒性があったりする可能性があるという、紙一重のものだからです。

フェーズ I では若くて健康で薬の影響が最も出にくい10人から30人までのグループに短期間で試します。動物を使っていくら大丈夫でも、人間特有の障害が出ないとは限らないわけですね。実際、犬や他の動物では「薬を飲んだら頭が痛くなった」とは言ってくれませんが、人間の場合は頭が痛くなったと伝えることができますので、少人数で安全性を確認するわけです。フェーズ Iで安全性が確認されたら、次は病気の方に薬を投与するフェーズ II です。

病気の方というのは、多くの場合は病気があるだけではなく、外から入ってくるいろいろな物に対して抵抗力が弱っているわけですから、副作用が起きる可能性があります。そういった人たちに投与して副作用が出ないか、それとも健康な人たちには出なかった副作用が出るのか、また、少しずつ飲めば病気を軽減する効果があるのかなどを試験します。それが目であれば、薬を飲んで目の働きが少しは良くなるのかを少人数で調べるのがフェーズ II です。そしてこのフェーズ II で大丈夫だということがわかったら、段階的に何百人や千人などの大人数の患者さんに長期に薬を飲んでもらうフェーズ III という試験をやります。薬というのは多くの患者さんが飲めば飲むほど副作用が出てくる人が増える可能性があります。例えば肝臓疾患がある人、腎臓疾患がある人、ある特定の食事を食べ続けている人など、さまざまなバリエーションがあるため、少人数でやっていた時にはわからなかったことがわかるようになります。また、薬が人体に悪影響を与えないことを確認して、なおかつ治療効果が統計学的に見てポジティブに出ているかを判断します。それで成功すると、やっと世の中に販売できるようになるわけです。

当社では現在、欧米では中途失明の原因として最多の黄斑変性症(光を感じるセンサーである網膜の細胞が死に、視力が弱っていく病気)の治療薬の開発を行っています。2002年の終わりに会社を設立して、現在までに臨床試験に入るための化合物が出てきたというのは幸運だったと考えています。

なぜ日本ではなくアメリカを選んだか

残念ながら、最近変わりつつあるとはいえ、日本ではまだ臨床試験の環境が整っていないのが現状です。臨床試験をやる薬というのは市販されている薬と比べて安全性に劣るわけですから、ものすごく詳しい説明と患者さんの同意と納得が必要ですが、アメリカでは医者1人が患者1人の診察にだいたい30分をかけるので、この薬を飲むとどういう副作用が出るかなど十分な説明をする時間があります。日本では医師がそれをする時間がないという問題があり、その結果、患者さんも臨床試験を経験しない。だから新しい薬を作ると言われても、医者も説明する時間がないし、患者さんも経験がないので、いろいろ説明されても判断できず、スムーズに進むことができないのが難しいところです。ですから現状は、欧米で開発されたまったくの新しい治療法を、日本が導入するという傾向が多くなっています。「欧米でいい結果が出ているのであれば、日本でもやってみましょう」と。例えば私が「私の名前は窪田です。今、この新薬を作っているのですが、世界中で誰も試したことがなく、効果があるかわかりません。動物試験では大変効果がありました。でもあなたが世界初の被験者になってこの薬を試してみてください」と言っても日本ではまだまだ難しく、時間もかかるでしょう。

ワシントン大学で勤務していた時に驚いたのは、「臨床試験のボランティアを求む」という張り紙が大学の中に出ると、瞬く間に希望者が殺到し、あっというまに臨床試験が始まることです。日本で臨床試験に最も時間がかかるのは、必要な人数の被験者を集めることが難しいからですが、アメリカではそれが非常に短期で行われるんですね。当時の同僚だったワシントン大学教授に聞いたところによると、やはりアメリカには「新薬の開発は、常に国民の利益になる大事なこと」という意識が浸透していて、「誰かが臨床試験に参加しないと、いい薬ができない」ということがわかっているとのことでした。その中でも医学部というのはそういうことに最も敏感な人たちがおり、医学部の学生なんかもより積極的に臨床試験に参加しようという人が多いんですね。日本でも「人の役に立つよう、一生に一回は献血しよう」と言って成果を出していると思いますが、アメリカの薬剤開発も同じこと。誰かがリスクをとって試してみないと、いい薬が生まれてこないんですね。もちろん、参加者全員がそういう気持ちではなく、中には試験に参加すれば何らかの治療が無料で受けられるかもしれないという期待をする参加者もいるでしょう。でも、参加者の中には、社会貢献をしなくてはいけないという気持ちを持っている人がいるということなのです。

また、ベンチャー企業でも優秀な人材を獲得できるのは、アメリカで会社をやるメリットのひとつだと思います。とくにアメリカには世界中から一流の眼科領域の研究者が集まっており、その層は圧倒的に厚いですから、優秀な人材を集められるというのもアメリカのメリットです。日本の眼科領域における研究者の数はまだまだ少ないですし、より 優秀な研究者はたいてい大学などの研究機関か大企業で研究しているわけですが、その職を捨ててベンチャーに参加する可能性は非常に少ないですね。当社の現在の職員数は約30人で、8割がたが研究開発に携わっていますが、世界に例のない失明の治療薬を作り出すことに興味を持って入社してくれる人がアメリカ中にいたのです。前例のないことをやるというのは、リスクが高く、成功する保証はないけれども、成功すれば人類の歴史にものすごく大きな影響を与えることができるという、最もベンチャーがやるべきことに魅力を感じて集まって来てくれたのです。

優秀な研究者がそもそも存在していて、その優秀な人材が大学だけではなく、未来が不確実なベンチャーに飛び込んででもやろうと思う、この両方が成り立たないと、実際に優秀な人材がベンチャーに集まることはありません。また、ワシントン州政府がシアトルをバイオテクノロジー産業のハブにしようとしている動きは歓迎です。ベンチャーというのは10社に1社も残らないといわれていますから、シアトルにわざわざ来てバイオベンチャーに勤めても、90%の人はいずれそのバイオベンチャーがなくなり失業することになるわけです。ですから、絶えず新しい会社がどんどん生まれてきて、そこにダイナミズムがあれば、優秀な人材はまた別のバイオベンチャーに勤めることができます。そういう意味でシアトルは非常にポジティブな場所だと思いますので、これからもいい動きがあるのではないかと期待しています。

チャレンジ精神

チャレンジがあればそれを乗り越えることで自分の限界も広がりますし、人間としての幅も広がるチャンスを与えられたということにやりがいを感じます。逆に、同じことをただ繰り返せばやっていけるものには、あまりやりがいを感じません。私は幼いころに「これはどうしてなの? なぜ?」と次から次に質問をし続けて周りの人を困らせたとよく言われるのですが、今わかっていないこと、今できないこと、今までと違ったことをやり、チャレンジが大きければ大きいほど、それが解決した時の喜びの大きさを強く実感しています。チャレンジを乗り越えてみると、さらに素晴らしい次の世界が開けていたという経験が自分の人生のなかで雪だるま式に増えていったのです。「ばかげたリスクを取っている」「すべてを賭けて一か八かの、明日失敗したらすべてを失うかもしれないという勝負をしている」という印象を抱く人もいるかもしれませんが、私は毎日一歩ずつ努力して進み、その積み重ねでここまで来ましたよ、という感じなのです。外から見ている人からすれば一か八かの賭けに見えるかもしれませんが、何かを達成するために日々、細かいプロセスがあり、小さなチャレンジを日々一つずつ克服することで成功する確率を上げているということでしょう。

家族とともにいればこそ

今まで必死で走って来ましたが、がんばって来られたのは、家族の存在があってこそだと思います。人間ですからチャレンジにめげそうになることもありますが、そこに家族がいることは非常にありがたいですね。

会社を引っ張るという立場では、「会社でも対外的にも当然、自分はいつもベストの、何らの迷いもないリーダーであり続けること」が大切ですよね。経営者に迷いがあっては、従業員は疑心暗鬼になってしまいます。よく「経営者は孤独だ」と言いますが、自分の辛さを人とシェアするということはなかなかできない境遇にありますので、妻や子どもたちがいつもそばにいてくれて、自分を信じて味方してくれていることは心強く、とても幸せに思います。アメリカでの生活はなかなか苦労も多いと思いますが、いつも笑顔でいてくれる妻には本当に感謝しています。

今後のチャレンジ

自分が生まれてきたからには、その自分が生まれてきたことによって、世界のより多くの人に喜んでもらえることをするというのがひとつの目標で、1日も早く、世の中の役に立つ治療薬を作るというのが、大きな目標です。

社会というのは、結局お互いが助け合っていかなければならない共同体ですから、その中で自分ができて、他の人のためになることに出会えれば、自分の人生も豊かになると思います。人のために自分が何か役に立てることができれば、こんなにうれしいことはありません。それは探しているうちに偶然出会うもので、こうしたら出会えるという法則があるわけではないですから、日々それを探すという意識を持って行動していると、「あ、これかもしれない」というように出会えるもの。私の場合、やりがいがあり、社会のためになる、新薬の開発に出会うことができました。今、改めて考えてみれば、子どもの頃に父の転勤でアメリカに住んでいたことがすべて自分の出発点になっている気がします。そういうチャンスを与えてくれた父には改めて感謝したいです。

【関連サイト】
慶應義塾大学医学部
ワシントン大学医学部

窪田 良(くぼた・りょう)

1966年 兵庫県生まれ。1991年に慶應義塾大学医学部を卒業後、1996年から虎の門病院に勤務。2000年にワシントン大学医学部眼科学教室助教授に就任。2002年にAcucela 社を創業。

Acucela Inc.(アキュセラ)
【公式サイト】 Acucela Inc.(アキュセラ)公式ブログ

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