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「やめなければ、あきらめなければ、敗者にはならない」ホライゾン航空 パイロット 青木美和さん

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幼い頃から夢は「パイロットになる」

母方は企業家系、父方は政治家系、「将来は世界に出る」というビジョンを持った家庭に生まれました。母方の親戚がドイツとのビジネスをしていたので、家の上を大きな飛行機が通過する時、母が「あの飛行機は世界に連れていってくれるよ」と言うと、私は庭に出て「私をドイツに連れてって!」「栄ちゃん(おばさん)のところに連れてって!」と叫んでいたそうです。その時から飛行機に憧れを感じていました。

でも、子供は夢がどんどん変わりますよね。幼い頃は私もそうでしたが、心の中ではずっと航空業界への憧れを持ち続けていたようです。「小さな田舎町から世界に連れて行ってくれるのが飛行機だ」と思っていたのかもしれません。私は覚えていませんが、小学6年生の作文に「パイロットになる」と書いていました。中学校の時も飛行機を見るとわくわくし、「パイロットになるんだ」と考えていました。「戦闘機が好き」「ボーイングの747が好き」とか、飛行機にこだわる人はよくいますが、私はとにかく出会いと別れを運ぶロマンのある航空業界そのものに憧れていたんだと思います。

ではなぜ「パイロットになる」という夢を持つようになったかというと、それはやはりパイロットになりたかった祖父の影響があると思います。祖父は戦争中に零戦のパイロットの条件にあわなかったため、機械工学の方面に進み、エンジンを造る会社を起業したのですが、初孫の私に「お前が男だったら、パイロットになれるのに」と繰り返し言っていました。

でも、中学生になった頃の私は、「どうして男でなければパイロットになれないの。女の子だってパイロットになってもおかしくないんじゃない」と思い出したんです。負けず嫌いだったので、どうもそういうふうに考え始めたようです。そんなわけで、フライト・アテンダントになることは一切考えませんでした。そして中学3年生の時は「自分はパイロットになる」とはっきり考えて、高校に進学。両親は日本の大学に進学するものと思っていたようですが、私は普通の大学に行ってもパイロットにはなれないということはわかっていたので、航空大学校にとても興味がありました。当時はパイロットになるには自衛隊以外ではそれしか道がなかったんですね。

日本では女性はパイロットになれない?

高校卒業後の進学先を決める段階になって、私は父の書斎の電話をこっそり使って航空大学校に電話して願書を取り寄せようとしました。でも、電話に出た男性に、「高校の先生から願書を取り寄せるようにと言われました」と言うと、「でも君、女の子だよね?確かここ、女性トイレないよ(笑)」と言われたのです。

16歳と言えば子供です。そんな答えが返ってくるとは思いもよらず、なんと言っていいかわからないまま、「あ、そうですか、ありがとうございました」と言って電話を切り、「この国って、女性パイロットっていないのかな」と、呆然としました。

でも、調べてみると、偶然にも「日本人女性パイロット誕生」という記事が1994年に新聞に出ていたんですね。私は行動力はある方なので、「この女性パイロットに会わなくては」と、面会の予約もせず、バスを1時間乗り継いで名古屋空港まで行き、ちょうど飛行機から降りてきた彼女に「パイロットになりたいんです」と言いました。

でも、彼女は

「あー、そうなの。でも、勧めない。やめといた方がいいよ」

それだけです。本当に夢を砕くような感じでしたね。私は、「せっかく来たのに。これでどうやったらパイロットになれるか教えてもらえると思って来たのに」と思いながら必死で、「でもどうやってパイロットになったんですか。私は防衛大学校に電話しても女性トイレはないって言われたし」と言ったら、「私はカリフォルニアで免許を取ってきた」と教えてくださいました。「だけど、男の世界で大変だし、海外で免許を取ってきても大手航空会社に入れるわけでもないでしょう」と。

今はアメリカ式にパイロットの免許を取得して航空会社のパイロットとして働くようになってきていますが。当時の日本はパイロットは自社養成式。まず航空会社に就職し、2年にわたる地上勤務を終えた人の中から選ばれた人だけがパイロットとして養成されることになっていました。航空会社は一人養成するのに多額な金額を投資して自社養成します。彼女はそういう狭き門の状況も含めて、私に「やめておいたほうがいい」と言ってくれたのだと思います。15分ぐらいしか話をしなかったと思いますが、私は結局、「ありがとうございました」と言うしかありませんでした。

「来週は進路指導の面接があるのにどうしよう」「親にはなんて言おう」「パイロットになりたいのに普通の大学なんか行きたくない」と思いながらまた滑走路の横を歩いて空港に戻る途中、747が何機も離着陸しているのが見えました。そのジェットのスプールする音を聞き、ワクワクしながら「やっぱり私はこの世界が好きだ」と確信しました。絶対に航空業界で生きていきたいと思ったのです。

アメリカ留学

そしたら父方の祖父が、どこで調べてきたのか、「アメリカには千人以上の女性パイロットが実際に働いてるぞ」と教えてくれました。そして、「日本にいてもパイロットになれないんだったら、なれるところに行けばいいじゃないか。もし本当にパイロットになりたいんだったら、アメリカに行け」と。祖父のこの言葉がなかったら、今の私はなかったかもしれないと、祖父にとても感謝しています。

なにせ私は進学校の落ちこぼれで、高校の時の英語の成績はあまり良くありませんでした。「勉強なんかしたくない」と言っていたぐらいで、パイロットになるための本はいろいろ読んでいましたが、当時はインターネットもなく、親戚や周りにパイロットがいるわけでもありませんでしたから、英語ができなければパイロットになれないということも知りませんでした。

でも、「アメリカなんか行きたくない、英語なんかやりたくない」と駄々をこねると、祖父に、「じゃ、おまえのパイロットになりたいという夢は、その程度のものなんだな。周りの人にだめだって言われてやめるようなものか。防衛大学校に女子トイレがないと言われただけ、女性パイロットにすすめられないと言われただけで、やめるのか。人と違う道を行くというのは、並大抵の努力ではできない。覚悟がないとできない。それができないなら、やめといたほうがいいな。そんなものなら、私もサポートしたくない」と、挑戦的に言われました。

そこでいろいろ考えた結果、進路指導の先生と担任の先生に、「パイロットになりたいので、留学します」と言いました。そうするとその先生たちが揃って、「おまえな、人生、まじめに考えろ。パイロットなんかなれるわけないだろ」と言ったのです。田舎の進学校でしたし、さらにパイロットというのは、今でもそうかもしれませんが、何か特別なイメージがあると思います。親がパイロットとかでもない限り、知らない世界ということで、一線を置いてる気がします。でもそれがさらに私のチャレンジ精神を刺激しました。

ちょうどその頃、私の妹が病気で入院していたため、両親と私の進路について相談することなく、留学の手続きを勝手に進めることにしました。そしてある日、両親が進学について聞いてくれた時は、「アメリカに留学します。パイロットになる」と宣言したのです。当初、両親はかなり困惑していましたが、「それならもうパイロットになってからじゃないと帰ってくるな。そこまでの覚悟があるなら、サポートする」と言ってくれました。

英語学校でのエピソード

そしてボストン郊外の英語学校に入学。今でも覚えているのですが、学校が始まってからすぐの授業中、30人ぐらいの生徒がいた教室で、英語の先生が私に起立するよう手でしぐさをしながら “stand up” と言いました。それで私は日本の学校の初日のように「自己紹介をするんだ」と思い込んで、”My name is Miwa…” と、えんえんと自分の名前から生い立ち、家族構成、好きな色やスポーツとか練習してきた英語でベラベラとしゃべり続けたのです(笑)。

アメリカに留学するということで、唯一日本で一生懸命に自己紹介用の英語を勉強したおかげで、簡単に自己紹介はできるようになっていたので、教室には妙な雰囲気が漂っていましたが、一生懸命にしゃべりました。15分ほど一人ぺらぺらとしゃべっていた記憶が。ようやく話し終わって着席すると、プエルトリコ人のクラスメートが「君、彼女が聞いたのは、テキストブックの最初の文章を読んでくれと言っただけなんだけどね!」と教えてくれたんですよ。それを知ってとても恥ずかしかったのですが、長々と自己紹介を公にしたおかげで友達がたくさんできました。

とにかく英語ができなかった私の教科書となったのはテレビ!『Beverly Hills 90210』 を見ながら毎晩勉強しました。そんな生活が1年ぐらい続きましたが、「夏は暑く、冬は雪というボストンは飛行訓練に向いていない、パイロットになりたかったら、大学を移ったほうがいいのでは」と言われ、学校を探すことにしました。

ワシントン州へ

当時の私にとって、「飛行機=ボーイング」。とても単純です。そこで、ボーイングの顧客サービスに電話して、「パイロットになりたいんですが、どこで勉強できますか」と聞いたんですよ。今考えると本当に恥ずかしいですよね(笑)。

受付の女性はなんと言っていいかわからなかったと思いますが、試験飛行をするパイロットの部署にまわしてくれました。そこでアメリカにはパイロットの免許が取れる大学が5つあると言われ、「ボーイングがあるのはシアトルで、セントラル・ワシントン大学に、そのコースがある」と教えてもらいました。

そして春休みにアメリカン航空の飛行機でボストンから飛んできたのですが、その時に飛行機から見たシアトル上空の景色、レイク・ワシントンなどがものすごくきれいで、山も湖も海もあり、単純にここが好きになってしまいました。

パイロット養成コース

そしてグリーン・リバー・コミュニティ・カレッジで簡単な航空関係のクラスを取って、1年以内にセントラル・ワシントン大学に編入。エンジニアリング学部にエビエーション学科があり、それがさらにマネジメントとパイロットのコースに分かれていますが、私はパイロットのコースを選びました。4年間にわたり、航空法、航空力学、エンジンからプロペラのことまで、いろいろなことを学びました。車のことさえわからず、オイルチェンジの知識もない私が、いきなり飛行機について勉強するなんて(笑)。

今でも覚えていますが、「Alternator とはなんですか?」と聞いたら、みんなが固まってましたね。機械に強い人たちがパイロットになるというのに、私はそんなことも知らない状態から始め、基本の基本から勉強しました。テストも最後まで残ってやっていましたし、先生も親身になって最後まで教えてくれました。

それと同時にフライト・スクールに通って飛行機を実際に操縦します。もちろん、最初は上手に操縦できませんが、それでも生徒は初日から操縦します。思っているよりも難しくありません。

飛行機の免許には、自家用飛行機、計器飛行機、事業用飛行機、双発機、そして航空会社のパイロットの ATP(Airline Transport Pilot)までありますが、大学では双発機、そして教官の免許まで取得して卒業となります。

教官の免許を取得してから卒業し、航空会社に就職するまでの間に教官として経験を積むわけです。それがなければ上に進めません。航空会社がパイロットを自社養成する日本とはまったく異なります。パイロットの養成が国レベルで動いておらず、それが「日本の航空業界はアメリカに20年近く遅れている」と言われる所以です。

そして、グリーン・リバー・コミュニティ・カレッジに在籍していた1年未満の間に、自家用機の操縦免許を取得。その時の教官が、ちょうど先週、偶然にも私の担当だった路線での機長で、14年ぶりにホライゾン航空で再会しました。当時は英語もろくにできなかった私に、「よくここまで来たな」と言ってくださり、感動しました。そんなわけで、セントラル・ワシントン大学に編入してからは、計器飛行の操縦免許を取得するところから始まりました。

そして卒業前に教官になる試験があり、自分は英語ができないという理由から、私は「英語がネイティブのアメリカ人が英語で教えるのとは違う」というコンプレックスを持っていました。みんなには “You are going to be fine” と言われていましたが、テスト中も試験官にゆっくりと適切な英語で、まるで幼稚園児に話しかけるように説明したのです。そしたらそれが「基本をわからずに入学してくる人たちにとって、とてもわかりやすい教え方をしてくれる」と逆に試験官にほめられ、そのままセントラル・ワシントン大学で教官として就職することができました。

その当事は学生ビザで、卒業後に1年間働ける OPT(Optional Practical Training)を取得していたので、「1年間働いて、航空会社に就職しよう」と張り切っていました。

9・11で予定が急変

そんな時に起きたのが、2001年の9月11日の同時テロ事件でした。その結果、「外国人は米国永住権がないと米国の航空会社に就職できない」ということになったのです。ですから、ホライゾン航空で面接を受ける話は出ていたのですが、永住権を取得しなければ航空会社のパイロットになれないことになってしまいました。

そこで初めて永住権を申請しましたが、取得まで10年かかると言われ、人生は真っ暗。学生時代の友達は教官で経験を積んで、どんどん航空会社に就職していくのに、私だけが教官のままでした。みんな教官をやりたくてやってるわけではありません。教官になるのは航空会社で飛行機を操縦するためにやっているんです。そうして、時間がドンドン過ぎていき、私はシニアの教官になってしまいました。

ビジネス・エビエーション

そんな時、たまたま妹が大学院に行くために奨学金をもらったことを知って、「パイロットにもそういう奨学金があるんじゃないか」と調べてみたら、結構あるんですね。そして小型ジェット機の免許を取得できる Women in Aviation International の奨学金プログラムに応募したところ、140人に一人という奨学金をいただけることになりました。

それまで私はプロペラ機しか操縦したことがなかったのですが、ジェット機を操縦できる免許を取得できる奨学金をいただけたことで、未知の世界だったビジネス・エビエーションの世界に入ることができ、人生が変わりました。

ビジネス・エビエーションというのは、資産家や企業の飛行機を操縦する仕事です。仕事目的の移動以外にも、プライベート・ジェットの世界は「家族で休暇に行く」「孫をモンタナの大学に迎えに行く」「孫のガールフレンドを送っていく」といったことに自分の飛行機を使う世界。私はアジア人で小柄ですし、教官時代に生徒の保護者から「こんな小柄なアジア人の女性に私の子供の命を預けているの?」と思われ、差別された経験がありましたから、プロフェッショナルとしての働きぶりで差別されることは絶対にあってはならないと、ものすごく高いプロ意識を自分で自分に課していました。

考えてもみてください。体格のいい白人男性の教官の横に、小さなアジア人の女性が教官として立っていたら、「大丈夫か?」とドキドキしませんか。私はそういったことを最初は個人的に取っていましたが、「ステレオタイプに対する感情なのだから仕方がない」と思ったら楽になりました。そして、ビジネス・エビエーションの世界では、私だけにしかできないカスタマー・サービスに命をかけてましたし、心のこもったアナウンスをしていました。やる気のない、つまらなそうなアナウンスをマニュアルどおりにするよりも、自分らしさを入れて話したいと思って挑んできました。荷物運びも男性まかせにせず、両肩に大きな荷物、ゴルフバッグやスキーのバッグをかけて運んだものです。

女優のデミ・ムーアが出てきたのはその時。サングラスをちょっと下げてこっちを見ながら、「フライト・アテンダントはそんなことしなくていいのよ、男にまかせなさい」と言うんです。でも私は「私はパイロットですから、この仕事は私の仕事です」と。そしたら謝ってくれて、「昔、私もパイロットになって飛びたかったわ」と言って去っていったんですね。そして誰かが「あれはデミ・ムーアだ!」と言うので、「えっ!」と。追いかけていきましたが、見つかりませんでした(笑)。

ついにホライゾン航空に就職

ようやく永住権が取れ、ビジネス・ジェットの世界を去って、2008年1月にようやくホライゾン航空に就職。でも突然景気が悪くなり、一時解雇となってしまいました。その時は100人ほどが解雇され、就職したばかりだった私は最初に解雇されました。最初は半年後には勤務を再開できると言われていましたから、3ヶ月にわたりヨーロッパをバックパッキングしました。でもなかなかお呼びがかからないなと連絡したら、「まだ景気が悪いから、まだ1年かかるかな」と言われてビックリ。そこで就職活動を始めた時にグアムからオファーをいただきました。それが遊覧飛行や日本人相手の操縦教官につながりました。たまたま私は日本の雑誌に記事を書いていたので、名前が知られ始めていたんですね。

グアムはお客の90%が日本人。会社に私を訪ねてきてくださるお客様もおられ、私は教官もやり、遊覧飛行もドクター・ジェットもやるようになりました。ドクター・ジェットは小型のジェット機に患者を乗せてグアムからフィリピン、ハワイ、東京、オーストラリアなどに行くのですが、24時間オン・コールで2時間以内に離陸します。グアムにいた1年半はずっとそのような生活をしていました。その経験も私の中ではプラスになりました。そのドクター・ジェットについて記事に書いたところ、日本の航空関係社から訪問者が来られて日本のドクター・ジェットのオペレーションについてアドバイスをさせていただきました。

グアムに行ったこともホライゾン航空から解雇されたことも、ネガティブに取ろうと思えば取れますが、いろいろな人のおかげでポジティブに取ることができました。人生には割り切りも必要ですが、自分でがんばってもできないことってありますよね。学生の時は自分のことだけやっていれば良く、勉強すればできるというような、自分がコントロールしているという先入観がありました。でも、社会人になると自分の手に負えないこともあって、その時にどうやってその状況を受け入れるかによってその人の人生が変わってくると思うようになります。

グアムに行ったことで、初めて日本人の生徒さんとお客さんを持ち、日本で働いたことのなかった私が日本人社会を相手に仕事をするということを経験できて良かった。日本の社会というのはこういうものなのだという勉強になりました。その機会を与えてくださった人に感謝しています。ずっとアメリカにいて日本人らしさを失っていたような自分が、その経験を通して、日本人である自分を、そして日本人で良かったと思う自分を取り戻せた感じがしました。

仕事のやり方

今、私はあちこちで講演をさせていただいています。アメリカではガールスカウトや小学校などで。日本では小中高大学、そして銀行などの新入生歓迎会に呼ばれ、航空業界のことを使ってプロ意識について話をしたりします。カスタマー・サービスの心得ですね。航空業界もチームワークです。日本ではパイロットが頂点に立っていますが、私は働いている場所の意識が違うだけで、みんなが平等だと思っています。お互いを尊敬しているからこそ、良いカスタマー・サービスができます。銀行でもそう。いろいろな分野があって、いろいろな仕事があります。それぞれみんながプロフェッショナル。

だからと言ってお互いの仕事をまったく知らないでいいというわけではありません。私がフライト・アテンダントの仕事をまったく知らないからといって任せきりではなく、相手の仕事に興味を示して初めて学び、尊敬することができると思うんですね。パイロットの中には威張っている人もいて、「そんなのフライト・アテンダントにやらせておけばいい」と言う人もいます。でもホライゾンのパイロットはそういうのはやめようと、乗客のみなさんが降りた後に座席のシートベルトをきれいにするのを手伝います。日本ではこんなことは考えられません。フライト・アテンダントもコックピットに来て質問をしてくれることもあります。嫌がるパイロットもいますが、私はとても嬉しいです。

アメリカではガールスカウトに行って話をしています。夢と決意があり、それなりの努力と情熱があれば、絶対に実現できると。子供たちには、「やめなければ、あきらめなければ、敗者にはならない」と伝えています。私が特別なわけでも、頭がいいわけでもない。ただあきらめずにこつこつと努力したから夢を実現することができた。がんばり続けることが大切だと。でも、女の子は「フライト・アテンダントになりたい」と言うんですね。「どうして?」と聞くと、「いろいろな国に行きたいから。」パイロットでも行けるのに、パイロットは男の世界と思っているんですね。でも私は女性のほうがマルチタスクが上手ですから、女性はパイロットに向いていると思います(笑)。

目標は、日本の航空業界に貢献すること

アメリカは航空大国です。世界の航空業界のリーダーで、国土が広く、飛行機なしでは何もできません。飛行機が日常生活の一部です。飛行機の数も多いですし、パイロットの数も多い。そんなアメリカで、さらに勉強できそうな予感がしています。ここでもっと学ぶものはあるのではないかと思います。

日本はまだアジアでトップだと思っている人が多いようです。今の日本政府は、国内の航空産業に投資をしていません。その結果、世界の航空業界は日本をスキップして香港や台北など、もっとサービスが良く、英語もちゃんと話せて、24時間体制の空港のあるアジアの他都市に行っています。将来は、その流れを変え、日本の航空業界を進化させることに貢献していきたいと思っています。

【関連サイト】
ホライゾン航空
セントラル・ワシントン大学
Women in Aviation, International

青木 美和(あおき みわ)
愛知県豊橋市出身。1994年に高校を卒業後、渡米。ボストン郊外での英語学校を経てワシントン州へ。1996年夏にグリーン・リバー・コミュニティ・カレッジに入学し、1997年夏にはセントラル・ワシントン大学に編入。航空学で学士号、工業エンジニアリングで修士号取得。同大学2007年3月に 『Women in Aviation, International』 から奨学金を受ける。2008年1月、ホライゾン航空入社。不景気で一時解雇となり、グアムで遊覧飛行、飛行訓練、ドクター・ジェットの操縦を務める。2010年10月、ホライゾン航空に再就職し、現在に至る。

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