ソーシャル・ワーカーを目指す
僕は和歌山の片田舎で社会福祉と女性問題に関わる社会運動家みたいなことをしていた明治生まれの祖母に育てられました。日本の片田舎で、さらに女性である祖母が、女性のための全国的な支援組織を作ったり、町の集会所を作るなどの社会福祉をしていたりしていたことは、とても画期的だった一方、周りからは嫌がられたりしていたみたいでした。先駆者は嫌がられることもたくさんあると思うのですが、祖母はとても勇気があったと思うのです。僕はそんな祖母に影響を受けて、彼女のようになりたいなと思いながら育ち、高校生ぐらいの時には「何らかのソーシャル・ワーカーにになるだろう、なりたいな」と思っていました。
高校の時は国際科に入りましたが、何らかの国際開発とか、国際協力といったマクロレベルのソーシャルワークをしようかなとなんとなく思っていたので、関西学院の総合政策学部に入りました。そこはまさに国際開発やら国際協力を勉強できるところ。国際協力に関わる仕事をしたい、それがいわゆるハンズオンの開発になるのか、ジャーナリストとしてそういった分野に貢献するのか、それとも国連のような組織で働くのかなどわかっていませんでしたが、学部では開発途上国に行くような友達がたくさんいたので、僕も経験しなくてはと考え、夏に2ヶ月ほどバックパックでインドに行ってみました。1996年ぐらいのことです。
まず、日本の田舎でゆったりと過ごしてきた僕は、ひどく打ちのめされました。開発途上国は初めての経験でしたが、宗教の違いやら階級制度の違いがあったりと、今までの世界観が本当にまったくひっくり返されてしまったという感じでした。どういうふうにこの旅を乗り越えようか考えることもできないぐらいショックを受けました。そして特に、汚い、臭い、人を信用できない、物が盗まれる、そういったいわゆる「偏見」のイメージを自分が持っていることに戸惑わされ、自分に嫌悪を感じました。今まで「ソーシャルワーカーになって人を助ける仕事をすると思ってきたのに、これでは自分は人助けなんかできない、こんな偏見だらけの自分はやっていけない、どうしよう」と考えたのです。
そして、インドから帰ってきてから病気になって2週間ぐらい寝込んでいる間いろいろと考え、「そうだ、アメリカの南部に行こう」と思いました。なぜアメリカの南部なのか。それは結局、日本人で、日本語が話せて、男性であって女性でなく、日常的な差別を受けたことも偏見も特別心配しなくてもいい、そんな日本の男性として育ち、マイノリティとして差別を受けたことのない状態で育ってきた自分が逆にマイノリティとなって差別を受け、これまでの世界観を覆すような経験をしないと、そういう立場から物を見る視点が持てないと考えたからなのです。そして、関西学院と交換留学プログラムをしていた南部の大学ばかりを選び、ダラスにあるサザン・メソジスト大学に1997年に編入しました。祖母は僕が大学に入学する前に他界してましたので、余計に「祖母のようなソーシャルワーカーになるぞ」という使命のようなものを感じたのだと思います。
渡米して経験した初めての差別
留学先では、予定通りというか予想通りというか、数え切れないほどの人種差別を経験をしました。僕がインドに行ったときの逆で、未知の世界から来たこれまで会ったことのない人間である僕を、そういったものに対する偏見の目を通して見る人がいるんだという経験をしたのです。
サザン・メソジスト大学はローラ・ブッシュの母校で、僕の卒業式のスピーカーはジョージ・W・ブッシュ大統領ということからもわかるように、南部のお金持ちが多く、共和党政治家の子供たちが通うような大学です。白人が大多数を占めるところで、アジア人は数えるほど。僕が入れられた寮はなぜか有色人種のみで、隣の寮は白人のみというような、大学内の暗黙のルールがありました。ある日、図書館で友人と勉強していたら、友人の友人がやって来て話し始め、僕が何か発言すると、「エイリアンみたい」と言われたこともあります。それが言葉に対してなのか、外見に対してなのかわかりません。
最も衝撃が大きかったのは、心理学の 『Psychology 101』 を履修していた時、教授に「心理学も勉強したいのですが、政治学も勉強してみたいのです」と話したら、その教授が「アジア人でセラピストになっても、アクセントがあったら誰も来ないから、心理学ではなく、別の方面を勉強した方がいいよ」と言われたことです。でも、僕はそんな人種差別を経験するつもりで来たのと、サザン・メソジスト大学で勉強できる内容がすばらしかったので、1年後には正式に編入しました。
絶対に大学院でソーシャルワークの勉強をしようと思っていたので成績を重視し、英語はできる方だったと思いますが、最初はテープレコーダーで授業を全部録音して1つ1つ聴いて書き取り、死ぬほど勉強しました。読んだ本の量もすごいですし、レポートも数え切れないぐらい書きました。あんなに勉強することは二度とないかもしれません。
コミュニティ・オーガニゼーションか、クリニカル・ソーシャルワークか
教授にセラピストはあきらめた方がいいと言われたため、卒業後の進路を考えた時、当時はセラピストになるとは思っていませんでした。
アメリカのソーシャルワークは、祖母がやっていたような組織作りなどのコミュニティ・オーガニゼーションというマクロ的なものと、クリニカル・ソーシャルワークという臨床があります。僕が学ぼうと思っていたのは、コミュニティ・オーガニゼーションの方なので、専攻は心理学、副専攻は女性学と比較政治学としました。大学3年の夏にはケニアに行って、小さな村で村人とコミュニケーションをとって家を造るという、コミュニティ・オーガニゼーションに関わる地域開発に携わりました。
その時に気づいたのは、大学2年からのアメリカ南部生活のおかげで、インドの時とはまったく違い、自分の中でマイノリティの視点から物事を見ることができるようになっていたこと。とても楽しかったのですが、コミュニティ・オーガニゼーションに必要なリーダーシップや政治的な観点で物事を見るといったスキルが自分にあるかどうかはわかりませんでした。
そして大学4年の時にはグラントをいただいて、フィリピンに行きました。心理学・女性学・比較政治学を統合したプロジェクトをするため、アジアの女性に関わる心理学の研究プロジェクトとして、フィリピンのある団体で児童買春の被害者の少女たちの心理的サポートに携わりました。そこで初めて、クライアントと1対1で働くということのすごさというか、パワフルさを痛感したのです。それでアメリカに戻ってから、コミュニティ・オーガニゼーションを目標に勉強してきたものの、自分にとってはクリニカル・ソーシャルワークの方が向いているのか、わからなくなったのです。ソーシャルワークの大学院に行けば両方とも勉強できるとは言っても、僕はどちらかに集中したかったのです。
そして2000年に専攻は心理学、副専攻は女性学と比較政治学で学士号を取得し、その後の進路を決めるには人生経験をもっと積まければと、卒業と同時にニューヨークに行き、1年半ぐらい日系企業でリサーチの仕事をしました。そして起こったのが、2001年9月11日の9/11です。
ニューヨークではすごく大きな解雇があり、自分もレイオフされるなと感じたのと、ビジネスの分野にいるとソーシャルワークの分野に戻れないという危機感もあって、ニューヨークにあるソーシャルワークの大学院の教授の研究助手をする仕事に転職しました。その教授はクリニカル・ソーシャルワークの方だったのですが、いろいろ相談するうちに、僕もクリニカル・ソーシャルワークに携わろうという意思を固めることになりました。自分がフィリピンで臨床の仕事をしていた時にどれだけ生き生きしていたかを考えれば、自然なことだったのかもしれません。そこで、2002年にクリニカル・ソーシャルワークの学位で知られるマサチューセッツ州のスミス・カレッジのクリニカル・ソーシャルワークの修士課程に入学しました。
クリニカル・ソーシャルワークの修士課程
学校によって異なりますが、スミス・カレッジのクリニカル・ソーシャルワークの修士課程は27ヶ月。その間はまったく休みがなく、6月から8月末は朝8時から夕方5時までずっと授業で勉強し、9月の頭から5月までフルタイムのインターンシップをするというものでした。
インターンシップは実際にクライアントを担当してセラピーを行うというもので、1年目はもともとニューヨークに住んでいたので、ニューヨークのハーレムにあるフォスター・ケアで、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の子供たち専門のセラピーを9ヶ月にわたり担当しました。難しかったですし、いろいろなことを学びました。ニューヨークのフォスターケアのシステムは複雑で、家族の問題も複雑で、その上にクライアントが LGBT の当事者ですから、状況はさらに複雑。個人とグループのセラピー、家族のカウンセリングを行いましたが、1セッションごとにプロセス・レコーディングといって、自分がこう言った、クライアントがこう言った、と、会話をすべて書き留めていき、それを後で監督官が「ここでこう言ったのはなぜ?」「このクライアントがここでこう言ったのはなぜだと思う?」など、1行1行すべてチェックします。
2年目のインターンシップは、スミス・カレッジで出会った日本人監督官の下でアジア人のクライアントを持って働くことを経験したくて、シアトルのアジアン・カウンセリングでインターンシップをしました。その時に初めて西海岸に来たのですが、当初はいずれニューヨークで仕事を探そうと思っていたのに、シアトルの自然と生活の質の良さに、「卒業後はシアトルに移ろう」と思いました。ニューヨークと比べると、シアトルは治安が良く、アパートもニューヨークよりも広いのに家賃が払えるレベルで、人のせわしなさがない。空気がきれいだし、あの夏の天気の良さ!それに、アジア人として生きていきやすい町ですよね。ニューヨークもアジア人は多いですが、政治レベルになるとアジア人がいない。シアトルではアジア人の政治家がいて、アジア人が住みやすい基盤ができあがっています。日系人の歴史もあるし、ここなら生きていきやすいかなと思いました。
そして、ちょうど卒業と同時にアジアン・カウンセリングで仕事をいただいたので、シアトルに戻ってきました。その後、もともと専門にしたかったのが若者を対象にしたカウンセリングだったので、子供を対象にしているエージェンシーをいろいろ見てみて、それでこのライザー・チャイルド・センターに就職しました。
ライザー・チャイルド・センターとは
僕が子供・家族専門セラピストとして現在勤務しているライザー・チャイルド・センターは、10エーカーという大きなキャンパス。100年以上前にライザーというおばあさんがいろいろな孤児を受け入れていた孤児院がベースで、キャンパス内には4つの建物があり、親のいない子供たちや何らかの問題があって親と同居できない子供たちが住んでいるプログラムが最もよく知られています。僕は 『Outpatient Mental Health Program』 という、外来のクライアントのカウンセリングをしています。
親のいない子供たちもいますが、実の家族、または何らかの家族と住んでいる子供たちのメンタル・ヘルスのセラピーをしています。現在は僕を含め4人のセラピストがいて、養子縁組、ティーンの薬物系の治療など、さまざまな専門を持っています。メディケイドと個人の保険と現金でのお支払いを受け付けていますが、現金の場合はクライアントの家族の年収によって料金が決定されます。また、心理学者も常駐し、いわゆる知能テストや心理テストもしています。精神科医も常駐し、薬を処方する人もいます。つまり、総合的なサービスを1つの場所で提供しているのが、ライザーなのです。
子供・家族専門セラピストの仕事の内容
仕事の内容は、いわゆる子供と家族対象のカウンセリングです。0歳から20歳までの子供が対象で、人種はさまざま。問題の内容もさまざまで、最もひどいケースは性的虐待を受けた子供のトラウマ治療などです。
最も多いのは小学生のクライアントで、「学校で友達とうまく行かない」「勉強についていけない」「友達ができない」といった何らかの理由で先生にカウンセリングをすすめられたという場合ですね。
また、難民・移民・マイノリティの子供たちで、親が言葉や文化の違いのためにアメリカのシステムにうまく対応できなかったりしてそれが子供に影響を与えている場合、不安に関わる OCD(強迫障害)のある子供のカウンセリングもあります。親とティーンを対象にコミュニケーションの円滑化を図るセラピーもあります。人種的なアイデンティティの問題を抱えている子供もいます。ギャングに入ってしまった、犯罪を犯してしまった、親とうまくいかない、本当に十人十色ですよ。でも、日本で僕が育っていた時代にいわゆる問題児と言われていた子達とそう変わりません。
クライアントのニーズに応えるのが僕たちセラピストの仕事ですから、最初に来られた時に、どういった問題があるのか、どのぐらいの期間で解決していきたいのか、そしてカウンセリングを受ける目標は何なのか、といったことを教えてもらい、できるだけそれに到達できるようにします。何年も診る患者さんもいれば、10回ぐらいで終わる患者さんもいます。
子供やティーンを対象にするセラピーと大人対象のセラピーの違いは、子供やティーンの場合は常に発達心理学を考えながらセラピーをすることです。
子供の場合、わずか3ヶ月でも、体や精神、知能にいろいろな変化が起きます。社会環境も家庭環境も変化するので、それを常に考えなくてはなりません。それが僕にとってのチャレンジです。また、子供だけでなく、その家族とも関わるので、大人のセラピーもしなければならなりません。哲学としては、クライアントが子供でも、子供が抱えている問題は家族の問題と見るので、家族を一つのシステムととらえて治療をするのです。
そして、年齢によってセラピーの方法も異なります。11歳ぐらいまでは遊戯療法や箱庭療法も使いますし、パペットも人形もゲームも使います。幼い子供たちは言葉がそこまで発達していないため、子供がどういうふうに遊ぶかを見て、常にシンボルを探し、その遊び方を言葉であると理解していきます。ティーンになると言葉がしっかり発達してくるので、会話を中心にカウンセリングをします。でもまだ法的には子供なので、家族との関わりも大事です。「ティーンは難しい」と言われますが、僕はティーンが大好きですね。ビデオゲームもセレブのゴシップもティーンが好きなことを知っていないといけないので、”They keep me young” と言うか、彼らとのコミュニケーションは常に遊び心が要求されるので楽しいです。
今後の課題
僕にとって臨床は天職。自分がまだ未熟なところもたくさんあるのに、人助けをさせてもらえることはありがたいです。
今後の課題はたくさんあります。セラピストという仕事で最大のチャレンジであり、実りの多いことは、常に勉強していかなくてはならないこと。完成というものはなく、常にプロセスだということです。それがあるからこそ自己発見があったり、自分自身を磨いていけます。将来は次の世代のクリニカル・ソーシャルワーカーを育てるために博士号も考えていますし、教鞭をとることも考えているのですが、何らかの形で常に臨床に関わっていきたいと考えています。
僕の中では、祖母が性別・性的指向・人種などにおけるマイノリティの手助けをしていたことが基本的価値観になっていると思うので、それを僕は臨床の仕事を通して続けていければと思っています。どんな人であってもそれぞれが持つ強さがあると思うので、それをいかに引き出していけるかというのがセラピストの仕事だと思います。それが自分にとってのチャレンジ。これからも人の強みや弱みを理解しながら、いろいろな人をサポートしていきたいです。
朝倉健太(あさくら けんた)
和歌山県出身。関西学院からテキサス州ダラスのサザン・メソジスト大学に編入。心理学専攻、女性学・比較政治学副専攻で学士号を取得。ニューヨークでの約1年にわたる日系企業勤務を経て、マサチューセッツ州のスミス・カレッジでソーシャルワークの修士号を取得。アジアン・カウンセリングでの勤務を経て、2005年からライザー・チャイルド・センターで子供・家族専門セラピストとして勤務。
Ryther Child Center
ライザー・チャイルド・センター
【直通電話】 (206) 517-0266
【公式サイト】 www.ryther.org