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「私にとって、歌うことは感謝の気持ちを伝えること」声楽家・ボイストレーナー・合唱指導者 田形ふみさん

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「私にとって、歌うことは感謝の気持ちを伝えること」声楽家・ボイストレーナー・合唱指導者 田形ふみさん

田形ふみさん(右)
復興支援グループ『Songs of Hope』の創設メンバーと

東京藝術大学で声楽を学び、卒業後にワシントン大学声楽科に留学し、シアトルで声楽家、ボイストレーナー、合唱指導者として活動している田形ふみさん。2011年の東日本大震災を機にシアトルを中心に活動する音楽家とともに立ち上げた復興支援グループ『Songs of Hope』では、音楽を通して支援の輪を広げ、コミュニティ作りに貢献してきました。新型コロナウイルスのパンデミックの間、音楽活動とどのように向き合っているのか、お話を伺いました。

新型コロナウイルスのパンデミックにおける変化

新型コロナウイルスの感染拡大で、ライブやコンサートができなくなり、いろいろなことにじっくり向き合う時間ができました。ずっと向き合ってきた音楽も、濃い濃度で勉強できるという感じです。

仕事の面では、一時はすべて止まってしまいましたが、教えることと歌うことをオンラインで再開しました。オンラインでの大人の合唱は声を一斉にあわせるのが難しいというストレスがありますが、一人一人のクオリティをあげていく方向に練習をシフトしているので、パンデミックを乗り越え、みんなで集まって歌うことが楽しみになってきています。

子どもの場合は大人より積極的に反応するので、オンラインだとバリアがあるのが残念ですが、3人のインストラクターがそれぞれ数人だけ受け持つという工夫が生まれました。でも、インストラクターが気を抜くと、子どもは集中しなくなってしまいます。なので、オンラインで子どもとインストラクターがどのようにつながれるかがとても重要ですが、これからさらに工夫して発展していけるのではないかと感じています。

私自身も歌うためのトレーニングは欠かせません。声楽家は楽器である自分の体をメンテナンスして維持していくことが大切なので、今はその時間に恵まれているとも言えます。歌うことはアスリート的な部分がかなりあり、マイクがなくても千人単位の会場で聴こえるようにするには、いろいろな筋肉と柔軟性が必要です。すでに出来上がっている楽器と違い、歌声は生身の体から出る音です。日々の体調の変化や年齢の移り変わりに寄り添って、常に声を整えていく。体は使わなければ早く衰えますし、声にも影響があります。「1日休むと自分にわかり、 2日休むと仲間にわかり、 3日休むと観客にわかる」というダンサーの森下洋子さんの名言がありますが、私の場合はそこまで厳しくはないにしても、同じようなものを感じます。歌うことの一番の目的は、歌のメッセージを伝えることで、そのために道具としての自分の声が豊かな表現力を兼ね備えているほど良い仕事ができると思っています。これだけの道具を持っているよとひけらかして終わるのではなく、ずっと勉強し、トレーニングを続けることが必要ですね。

また、じっくりと「今の自分」という楽器に向き合える時間を生かして、発声のメソードをわかりやすく伝える動画作りを始めています。このプロジェクトには、長年、イタリアで研鑽を積まれ、声楽家を多く育ててこられた大先輩のソプラノ、橋本美喜子さんの存在が大きいです。数年前、シアトルで彼女と運命的な出会いをして意気投合し、「生身の楽器から生まれる最高の音」を求める研究を続けてきました。その成果をこれから形にしていこうという大きなプロジェクトです。

母親のピアノ伴奏で歌っていた幼少時代

大人になってから気づいたのですが、母方の曾祖母は声楽、祖母はピアノ、母は声楽、叔母はピアノ、そして私は声楽と、4代にわたって音楽を勉強しています。母はとても器用な人で、当時まだ新しい楽器だったエレクトーンを弾き、ジャンルを超えた音楽を楽しんでいました。気の合う仲間と歌のトリオを結成して演奏したり、児童合唱団を立ち上げたり、活発に活動していました。私と弟もその合唱団で歌っていました。

私が幼い頃から歌うことが好きだったのは、母が自分の弾くピアノに合わせて、本当にたくさんの歌を楽しく教えてくれたからだと思います。反面、母のピアノのレッスンは厳しすぎて泣くことも多く、小学6年生であきらめてしまいました(笑)。見かねた祖母が「歌を習ってみるか」と聞いてくれて、近所にいらっしゃったヨーロッパ帰りの声楽の先生に習い事として通い始め、そこで初めてイタリア語で歌ったりして世界が広がりましたね。

高校二年生の時、真剣に声楽の道に進みたいと思うようになりました。叔母の同期生だった声楽の先生はとても厳しく、レッスン後の帰りの電車ではいつも爆睡(笑)。時々降りる駅を寝過ごすことも!でも、その厳しい指導のおかげで無事国立音楽大学声楽科に入学。翌年には東京藝術大学に入り直しました。

親友の声かけで、シアトルのワシントン大学声楽科へ

ウィッビー・アイランドでの Women in Music Fest

ウィッビー・アイランドでの Women in Music Fest

東京藝術大学の声楽科を卒業し、歌う仕事をしながら声楽の勉強を続けていたのですが、1997年のことだったでしょうか、当時ワシントン大学のピアノ科の修士課程で学んでいた中学からの親友が「今、いい教授がいるよ」と声をかけてくれたことがきっかけで、1998年に渡米、高校以来勉強していなかった英語を学び直し、ワシントン大学の声楽科の修士課程に入学しました。

音楽や声楽を学ぶためのアメリカ留学というとジュリアードやカーティス音楽院、西部ならロサンゼルスやサンフランシスコの大学が挙がるので、日本で師事していた声楽の先生も「なぜシアトルなの?」と不思議がっていましたが、ソプラノ歌手としてすばらしい教授に師事できたので、来て良かったと思っています。生徒の持つ力を引っ張りだしてくれる温かい方で、歌う面でも教える面でも本当に勉強になりました。

残念ながら、一年後、その教授はハイレベルな音楽教育に定評あるミシガン大学に引き抜かれてしまいましたが、おかげで私はシアトルで仕事をする基盤ができ、シアトル・マリナーズの試合前の米国国歌斉唱をはじめ、コミュニティで歌うことも増えていきました。そして、結婚し、数年後に妊娠したのですが、妊娠して体が重くなることで重心が下がり、「こんなに声が出やすくなるの?」とビックリ。歌を歌う時は、声を出す土台となる体が大事で、「重心が下がって安定するほど、声が楽に出る」のですが、妊娠による体の変化と、声を出すことへの影響は、想像を超えていました。でも、産後に本来の筋力を取り戻すには、専門的にトレーニングする必要がありましたね。妊娠する前にいただいたお仕事で産後6週間ぐらいの頃に歌いましたが、とても大変でした。

「何か自分にできることをしなくては」 東日本大震災を機に被災地支援活動をスタート

東日本大震災1周年メモリアルコンサート

東日本大震災1周年メモリアルコンサート

もともと子どもと向き合う時間を大切にしようと思っていたので、それ以後は仕事をいったん休み、同年代のお子さんを持つお母さん友達を作って、子育てに追われる日々が続いていた時、東日本大震災が起きたのです。息子がまだ5歳の時でした。

当時、岩手県在住だった音大時代の友人に連絡してみましたが、当然すぐに返事はなく、何も手につかない三日間が経ちました。そして、「何か自分にできることをしなくては」と思い立ち、シアトルに来るきっかけとなったピアニストの親友に連絡して話し合い、支援コンサートをやろうと決めたのです。

それまでお仕事をいただいて会場に行って歌うという形でしかイベントに関わったことがなかったので、企画から会場の確保など初めてのことばかりでしたが、たくさんの音楽家が参加してくれて、震災から50日後の5月1日に最初の支援コンサートを開催しました。コンサートのタイトルは、この後私たちのグループ名となった「Songs of Hope」でした。すると、音楽をやっていない方々からも「何かやりたい」と声をかけていただくようになり、一気に日本人コミュニティとのつながりが広がりました。ここから、Songs of Hope のベイクセール常設のコンサートという形の支援活動が始まりました。

2019年3月に開催した第2回シアトル合唱祭でのベークセール

2019年3月に開催した第2回シアトル合唱祭でのベークセール

当時は被災地への寄付を募る活動がたくさん行われていましたが、私たちは「1年で終わるのではなく、どういう形でも5年間は続けよう」と決めました。そして、コンサートの締めくくりは、いつも支援してくださるお客様と一緒に歌を歌い、できるだけ互いの思いを分かち合えるプログラムにしてきましたが、もっとコミュニティと積極的に交流したいと思って始めたのが、合唱です。

いつも洗い物をしているとアイデアが出てくるのですが、ある日、『大地讃頌』(だいちさんしょう)がフッと浮かびました。ソロばかりやってきた私がなぜ合唱を思いついたのか不思議ですが、中学の合唱でしか歌ったことがなかったこの曲を「みんなで歌いたい」と思ったのです。

そして、コンサートの企画運営を共に行っていた友人音楽家たちと相談し、「一周年のイベントは、コミュニティ合唱団をやります」と公募したところ、シアトルはもちろん、遠くはオレゴン州からも参加者が集まり、120人を超える合唱団となりました。音楽大学では授業の一環でアンサンブルの勉強のために必ず合唱をしないといけないのですが、震災の時の合唱は意味が違いました。音楽の持っているパワー、同じ思いになった時に爆発するエネルギーはすごいですね。アウトプットする分だけでなく、自分たちの内面にも影響しあって、音楽が国際的な言語といわれることに納得しました。全員でリハーサルをやるうちに仲良くなって、支援コンサートが終わった後も合唱をしたくてシアトル各地のアマチュア合唱団に入る方も出てきました。こうして、今でも合唱の輪が広がり続けています。

震災が発生してから2021年の3月11日で10年になります。人それぞれに時間の物差しがありますから、その時間をどう思うかは異なりますが、被災した方が「誰かを失った悲しみや辛さは一年たったらこのレベルになる、二年たったらこのレベルになるということはまったくないんですよ。でも、時間が過ぎて、まわりが "1年たったね" "5年たったね" と言ってくれることによって、外から整理がつくというか、自分の中に節目をちょっとだけ入れるということにはなります」とおっしゃっていたことがあり、そういう感じ方もあるのだと知りました。

被災地から海を隔てたところに住む私たちが、毎年、メモリアルコンサートを行い続けているのも、そうした節目を作る役割を果たしているのでしょう。私たちが始めた活動は、目標だった5年を大きく超えて10年目を迎えますが、振り返ればコミュニティの思いによって育てていただいたグループでした。

これまでのご縁とその繋がりに感謝して、3月12日(金)午後8時(太平洋時間)に10周年メモリアルコンサートをオンライン配信します。コンサート会場で声を合わせることはできませんが、リモート合唱の形で、コミュニティ合唱団の演奏も予定されており、日本をはじめ、韓国、インド、ドイツからも歌声が寄せられています。

10周年メモリアルコンサート

10周年メモリアルコンサート

すべてのプログラムは、Songs of Hope の YouTube チャンネルで見ることができます。

子ども合唱団の始まり 音楽を通して「人を聴く力」を養う

被災地支援コンサートのために合唱を始めたわけですが、「家族全員で参加できたら」「子どもも大人も一緒に合唱したい」という声が上がり、2016年の5周年メモリアルコンサートのために子どもの合唱団を新たに作りました。すると今度は「日本語で歌える機会は子どもにとってとても貴重なので、続けてやってもらえないか」という声をいただくようになりました。

こちらでは音楽の授業のない学校もあり、そういう学校の子どもたちは、基礎的な音楽教育なしでいきなりバンドや合唱に入ります。また、今流行っている音楽はリズムと音の並びが主体で、そこに乗せられている言葉は本来のイントネーションからかけ離れていたり、速すぎて何を言っているかわからないまま音やリズムやビートの刺激を消費するものになっていたりする傾向が感じられます。それはそれで悪くなく、楽しみ方の一つですが、歌詞が伝えようとしている意味を味わって、そこから想像が膨らんで共感したり憧れを感じたりするのも捨てがたいですよね。

私は母がいつもピアノを弾いて歌わせてくれ、まず言葉から入り、子どもながらに音と一緒になって歌の世界が見えるという音楽体験をさせてもらってきました。なので、ここにいる子どもたちにそんな機会を日本語で提供したいと考えはじめ、2019年の秋、Songs of Hope 子ども合唱団を発足しました。

また、子ども合唱団を通年で運営するにあたって、リハーサルの場所を借りたり、保険に加入したりするのに必要で、音楽家3人の共同経営となる合同会社(LLC)を立ち上げました。昔から歌い継がれてきた歌と、これから残っていくであろう新しい歌を紹介し、音楽を通して感受性豊かな心を育てる、コミュニティに貢献できる企業活動を目的にしています。

子ども合唱団のオンラインリハーサル

子ども合唱団のオンラインリハーサル

子ども合唱団では、日本語で歌うことで、日本語の表現の豊かさと日本の文化を学び、古くても新しくてもいい曲を伝えていきたいと思っています。歌詞を読んだり聴いたりしたときに心の中にわき起こって来るものを生かすため、歌詞をできるだけ体験してもらうようにしています。例えば、となりのトトロの『さんぽ』では、「坂道」「トンネル」「一本橋」「蜘蛛の巣くぐって」などを、そこにイメージして、実際に体を動かしながら歌ってみます。子どもの想像力は大人のそれを遥かに上回るので、みんな大いに盛り上がりますよ。

また、音を集中して聴くことを習慣にしてもらえたらと、耳のトレーニングとして、ハーモニーやピッチの違いを聴く練習もしています。また、合唱団の子ども達それぞれの名前に、音とリズムを付けそのメロディで名前を呼びます。自分の名前のメロディを聴き分け歌えるようになり、友達の名前も呼べるようになる段階でいろいろ学べますね。合唱しているときには、隣で違うパートを歌っている人を聴いたり、ハーモニーの色を感じたりして、聴くことに集中する時間を持ちます。そのことによって、普段の生活でもまわりの人の言葉をじっくり聴いたり、気持ちを感じたりできるようになるかもしれません。

アメリカに来て、たくさんの人が自分の意見をはっきり言うことは素晴らしいと思いました。でも、誰かが意見を言った時、まわりはどれくらいそれを集中して聴いているでしょうか。言葉はともすると意識の表層だったりしますから、発している言葉一つ一つの意味を考えるだけでなく、その人から発せられている音を聴くというか、そこから出ている音にその人を感じるというか・・・うまく言えないんですけど、それが聴けたら、ちょっとした言葉の端で相手を否定したりすることはなくなるのではないか、拒絶ではなく、Yes/Noを超えて、話している相手とパイプができて、そういうこともあるのねと共感しやすいのではないかと思うのです。

また、これから LLC として活動を展開していくにあたり、音楽家のサポートと、その音楽を楽しむコミュニティ作りを大切にしていきたいと思っています。音楽の道を目指す者は音楽家として活動できるようになるまでに莫大な時間とお金をかけるのですが、一般的にはあまり利益が生まれない職業です。超一流になったら別ですが、それでも彼ら彼女らがそこに至るまでにやって来たことからすれば、スポーツ選手ぐらいの収入を得るべきだと思います。例え10分間の演奏でも、その裏にはものすごい投資がありますから「10分だけだから無料でお願い」と言ってはいけない。そういう意味で、せっかく立ち上げたこの会社では、お仕事をお願いする音楽家には、最初は少ない金額でも、きちんとお支払いしたいと思っています。

若い頃は、自分が上手になりたいという気持ちが強くあって、今思うと歌うことに対してもっと身構えていました。精神的に少しは成長したことと、トレーニングによって自分の楽器である身体が安定してきたこともありますが、今、歌うことは、私にとって感謝の気持ちの表現です。音楽の道に身を置けるのは、母や祖母のサポートがあったからこそですし、素晴らしい先生方に出会えたのも、「私」という唯一無二の楽器を与えていただき歌い続けられるのも、すべて有り難いことであると感じています。

そして、歌うことは、私と私の周りの世界との架け橋というか、コミュニケーションになっています。支援活動も自分一人で何かしたのではなく、横に広がったからできたこと。歌によって、歌う方も聴く方もお互いに癒され、つながっているのですね。

被災地の支援活動で合唱指導を始めて気づいたのは、人はそれぞれこの世にたった一つの楽器(身体)を持ち、輝きのある音を生み出すことができるということ。音にはそれぞれの個性があり、それがとても人間らしいということ。そして一つ一つの音が響き合うとき、美しい音楽になるということ。

ともすると音楽は「余った時間のお楽しみ」「余力があればやる」あるいは「予算がないので音楽の時間を削減する」といったことも聞かれますが、文化を継承し、心豊かな人生を送るには、音楽はとても大切な栄養の一つだと思っています。

田形ふみ(たがた・ふみ)
声楽家、ボイストレーナー、合唱指導者。東京藝術大学で声楽を学び、卒業後にワシントン大学修士課程に留学。リサイタル、合唱ソリスト、オペラなどさまざまな舞台への出演に加え、多方面でのコンサート出演のほか、ボイストレーニングや合唱団の指導を行っている。また、シアトル・マリナーズの試合前のアメリカ国歌斉唱など、地域活動にも積極的に参加し、2011年の東日本大震災を機に立ち上げたシアトルを中心に活動する音楽家による復興支援グループ『Songs of Hope』では音楽を通して支援の輪を広げ、コミュニティ・ビルディングに貢献。2020年にこのグループを合同会社にし、音楽教育のプログラムの提供も行っている。
公式サイト:songsofhope.info

掲載:2021年3月 更新:2021年3月4日 聞き手:オオノタクミ



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