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第45回 大倉山で:言葉によせる想い

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著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

I speak English.
Do you speak English, too?
Yes. I do.
Do you like English?
Yes, I do.

その旅は、神戸で始まった。大倉山公園の丘をゆっくりと上りながら想う。遠方から、野球少年たちの歓声が耳をかすめる。傍らのベンチでは中年男性が居眠りをする。どこにでもある、ささやかな昼下がり。それなのに、降り注ぐ木漏れ日がこんなにも暖かく、こんなにも切ない。湊川神社に、文化ホール。中央図書館に、地方裁判所。JR 神戸駅から山側に向かって歩く道には、懐かしい顔が次々と現れ、そのひとつひとつが「お帰り」と声をかけてくれるようだ。「ようやく、帰ってきたね。」この公園でかくれんぼをし、テニス部の仲間とジョギングをし、時には一人で展望台に立ち、港町・神戸の風景を眺めた。ぽろり、また、ぽろり。少女時代の日々の断片が、どこからか零れ落ちては、掌にすっぽりと入る。そんな気さえする。初めて出張で神戸に来た。関西出張自体は珍しくもない。だが、通常は、大阪を訪れるのみで、トンボ帰り同然に慌しく帰京する。今回は、大阪での研修後、六甲アイランド、そして三宮と神戸市内の企業を二社、訪問することとなった。その直後に時間を作り、大倉山へと足を運んだ。

神戸市営地下鉄、大倉山駅。

神戸市営地下鉄、大倉山駅。

I speak English.

紺の制服を着た少女が見える。セピアがかった映画の一シーンが、記憶の底から浮かび上がるかのようだ。日本の中学生が最初に接する英文は、”This is a pen.” というのが定説だ。私の場合は、”I speak English.” だった。『Hello! Hello! Hello!』 そんなタイトルの下に書かれた一文を、今でも鮮やかに思い描ける。「最初に習った文が、”I speak English”(英語、話せます)とはね。」そう言って笑ったアメリカ人の友人がいた。「へえ、ママはそうやって英語を習ったの。」Hello!Hello! Hello! 私の思い出話に笑い出す息子と娘も、故意におかしな抑揚をつけて繰り返す。今になってみれば、確かに不自然とも滑稽とも思われる表現や文章が目立つ教科書だった。そのテキストから、私の旅が始まったのだ。過去完了形とは。不定詞の用法とは。国際都市の学校とは名ばかり、ネイティブの先生などいない極めて古風な教育の場で、ひたすら文法中心の授業が展開していく。通学電車の中、インターナショナル・スクールの生徒の輪から飛び出す英語がきらきらと光り出すように思え、羨望の眼差しで見つめたのを思い出す。

流れた歳月の中で、私の生活も大きく変わった。英語で恋愛をし、結婚をした。英語で司法試験を受け、仕事をしてきた。そして、英語で子育てをし、時には親子喧嘩もする。「また、おやつ? 好き嫌いばっかりして、ちゃんと食事をとらないから、お腹が空くんでしょ!」子供を叱り飛ばすのも英語なら、歯医者で「先生、うちの子はフロスを敬遠するので、困ってるんですよ」と嘆くのも英語、PTA の会議で意見をたたかわせるのも英語である。もう意識することさえないが、英語は私の生活の軸とも言えよう。「英語に自信があるんですね。」そんな風に言われては困る。自信がある、ないの問題ではない。まだまだ勉強不足だと痛感する場面にも遭遇する。それでも、英語を操らずにして、私の生活は成立しない。夫婦のコミュニケーションも、家族団欒も、英語があってこそ存在する。
読者には、アメリカでの生活も長く、我が子にどう日本語を習得させるか苦心する方々も少なくないだろう。英語圏で成長する子を持つ親にとって、バイリンガル教育とは、裏を返せば、日本語教育ということになる。シアトルの日本人コミュニティにおいて、子供の日本語教育への関心は高い。「一応、バイリンガル」の二児(そう、「一応」の但し書き付きである)を持つ私は、シアトルの知人に聞かれることがある。「へえ、東京の区立小学校に通ってるんですって?ちゃんと授業が理解できるなんて、すごいわねえ。」「アメリカ育ちの子に、どうやって漢字を教えたの?」 だが、どうだ。東京に居を移した途端、当然といえば当然だが、瞬時にして焦点が英語へと移された。いや、正確に言えば、無理にでも移されたようなものである。「いいわねえ。お宅の子は、英語ができるんだもの。」「これからは、やっぱり英語ができなくちゃねえ。」「うちの子にも、英語で話しかけてやってくれないかしら。」アメリカで買った 『若草物語』 や 『赤毛のアン』 の本を持参して登校する娘は、困惑した表情を覗かせた。休み時間に、同級生が輪を作るかのごとく彼女をぐるりと取り囲み、「ねえ、その本、読んでみてよ」と懇願する。どう対応していいのか見当もつかず無言を保つ彼女が、幾度もつつかれた挙句、ようやく文章を読み出すと、歓声が上がる。「わあ、ホントの英語だ!」ここは、東京都心。世界有数の大都会のど真ん中でありながら、英語がこれだけ特別扱いされている現実に、私は愕然とした。「英語ができる」ことが、まるで、シャネルのバッグを脇に抱えシャナリシャナリと歩くようなものじゃないか。英語のブランド化は、英語圏で長く暮らしてきた身には奇異としか思えない。「すごい!」賞賛の声を浴びた娘は、何が何だかわからないままキョトンとするだけだった。「英語ができるんだから、将来はそれを活かして、日本とアメリカの架け橋になるといいね。」そう言われた息子も息子で、憮然とした顔つきだった。外交官や通訳のような職業には、微塵も興味がない。日米間を行ったり来たりの生活には愛想をつかし始めた彼だけに、その手の仕事には関心を示さないのだ。

少女時代の思い出が詰まる大倉山公園。

少女時代の思い出が詰まる大倉山公園。

それにしても、日本人の英語熱はすさまじい。もちろん、私の学生時代にも、その風潮は既にできあがっていた。ところが昨今は、国際人だのグローバル化だのと体裁のよい言葉が幾層にも重ねられた宣伝文句が溢れ返り、熱は高まる一方だ。(大体、国際人やグローバル化という言葉は意味不明としか言いようがなく、そのくせ表面的には至ってカッコいい響きを持つから、私は嫌いである。)「子供を国際人に育てたいから」と、親が二人とも日本人でありながら、膨大な学費をかけ、幼稚園からインターナショナル・スクールへと通わせる家庭も珍しくない。むろん、子供だけではない。大人も大人で、「このグローバル化時代、英語が喋れなくちゃ」などと決まりきったフレーズを口にしては、英会話学校やら教材やらにお金を費やし、TOEIC なる英語の試験で点数を上げることを目標に掲げる。大手書店の店頭では、この TOEIC の問題集がずらりと並び、その存在を誇らしげに示すセクションが目をひく。二十代の OL から、定年退職を間近に控えたオジサマまで、猫も杓子も、TOEIC、TOEIC と、まるで頭にねじり鉢巻をするかのごとく、オベンキョウに励む様子は、実に「日本的」な光景にも映る。幼い頃から塾通いをし、受験勉強の名のもと、語呂合わせなどに苦心しつつ歴史の年号を暗記したりしてきた日本人ならでは、と思えてならないのだ。(そしてまた、日本人はそういうことに非常に長けた国民である。)

そもそも、私は TOEIC なる試験そのものに疑問を抱く。TOEIC で満点近い高成績を収めた、いわゆる帰国子女の大学生と英語で話したことがある。確かに、発音がきれいで、傍目には流暢と思われる英語だった。その反面、「あのお兄さんの英語、間違いが多かったよね」と小学生の息子でさえもがミスのひとつひとつを記憶し指摘する程、問題点が目立った。「君、英語ができるよね。すごいなあ」と友達から羨ましがられたとしても、ビジネスの場には通用しないのではないか、いや通用したとしても限度があるだろう、という感想を持った。所詮、試験なんて、そんなものだろう。だから、私は TOEIC という言葉を耳にするたび、どこかシニカルな気持ちになるのである。オベンキョウはやめようよ。ねじり鉢巻を締めた受験生の肩にそっと手を置いてみたい気になるのである。ねえ、肩の力を抜こうよ。もっとも、どこからか横槍が入るかもしれない。「あんた、何言ってるの。結局、TOEIC の点数は、英語力を示す目安に過ぎないって事、私たちだって百も承知よ。目安がなきゃ、企業や学校は判断のしようもないでしょ。」そうそう、日本はそうなのだ。X点獲得! 何歳になっても、そう書いた紙を壁に貼り、日々精進せねばならないような国である。

「グローバル化の今、英語で戦おう!」通勤電車でいやおうもなしに視界に飛び込む宣伝ポスターで、ハンサムな西洋人の男性が呼びかける。「会社の帰りに、渋谷の英会話学校に通い始めたの。ネイティブの先生に、週2回の個人レッスンを受けてるのよ。」丹念にブローされた髪をかきあげながら、女性が得意気に語る。「英語、できます。」「語学力を活かして、国際的な仕事に就きたいんです。」いわゆるリクルートルックに身を包んだ大学生が、面接官を前に動機を話す。「英語、できます。」そんなアピールが、アメリカの企業社会で通用などする訳がない。「できて当たり前」、すなわち、「できない方がおかしい」世界で生きる人間にとってみれば、英語はまるで空気と化す。シアトルの日常では透明な存在に過ぎなかった英語が、東京の空の下、たちまち鮮やかな色を帯び、特別な意味を持つ。時として、辟易もする程に。たまたま、英語が「できる」部類に入った子供たちにとって、それは必ずしも理想的な環境とは言えないことを、母親の私は悟っている。シアトルに戻れば戻ったで、「日本語ができるのね。いいわね」と賞賛する人がいるとしても、それは限られたコミュニティにおける話に過ぎない。世界共通語とされる英語を母国語とするアメリカ人にとって、外国語ができることが大きなメリットとはとらえられていない。それがいいことなのか悪いことなのか、解釈は分かれるところである。アメリカでも語学教育にもっと本腰を入れるべきじゃないかという批判もある。でも、「英語、英語」と、それをやたらとステータスシンボルのように扱いたがる国で暮らせば、「たかが、言葉。されど、言葉」の「たかが」の部分を強調したくなるともいうものだ。シアトルで、子供に日本語を身につけさせたいと躍起になる日本人の母親仲間がいる傍ら、「うちは、日本語はせいぜい片言で十分だと思っているのよ」とバイリンガル教育には淡々とした態度しか示さない人がいた。「言葉よりも、もっと大事なものがあると思うから。」彼女の息子は、日本語は確かに簡単な日常会話で精一杯という状態だが、サッカーに興じ、ピアノを演奏し、多彩な領域でスキルを伸ばしている。私がドイツでの国際平和会議に参加した二十代の頃、日本を含む数ヶ国から集まった青年たちが自由時間にサッカーの試合をする姿を見かけた。それぞれに母国語は異なり、言葉は通じない。だが、ボールを追ううちにひとつになり、言葉や文化の壁を超えていく。最後には、”Good game” と言いながら肩を叩き合い、握手をする。それは、いかにも若者らしい、すがすがしい光景だった。言葉よりも、もっと大事なものがある。確かに、その通りだ。私は、たまたま言葉の職業(profession of words)と称される弁護士というキャリアを選んだ。言葉を愛し、言葉の重みを感じながら生活をする人間である。息子や娘にも、言葉の秘める魅力を知って欲しいと切望する一方で、「所詮、言葉も道具に過ぎないのよね」という思いもまた深い。

元町からJR神戸駅近くまで続く商店街。

元町からJR神戸駅近くまで続く商店街。

大倉山公園の展望台から見下ろす神戸の街は美しい。ここで、私の旅が始まった。ああ、私は抱きしめたいほどに神戸が好きだ。エメラルドシティの名にふさわしく緑きらめくシアトル。皇居のお壕を吹き抜ける風に歴史の息吹が感じられる東京。どちらも、それぞれに美しい。でも、神戸駅から大倉山へと続く道ほど、私の足元に温かく感じられる場所はないような気がする。国際都市なんて、ありきたりの表現は好まないが、確かにこの街には異国への憧憬を誘う何かがあるように思えてならない。日々の通学電車で、アメリカン・イングリッシュの洪水を浴びさせてくれたインターナショナル・スクールの生徒たちの顔が、記憶の中で不鮮明にこそなったとはいえ、今もぼんやりと脳裏に浮かぶ。当時、私にとって、英語とはどこか特別なものだった。今は、私もいっぱしのアメリカン・イングリッシュ「もどき」を操って、買い物をし、書きものをし、兄妹喧嘩の仲裁をしている。こんなことを書いたら、「僕たちの英語には、かなわないよ」と、まさにアメリカ人としてのアイデンティティを確立しつつある子供たちに舌を出されるだろうか。オベンキョウはやめようよ、と他人には先輩風を吹かせながら、実は私自身がオベンキョウを必要としているのかもね。苦笑を浮かべつつ、なだらかな丘を降りる。さあ、次の出張先は、もうひとつの故郷・アメリカだ。そう心で呟きながら、無数の思い出が眠る港町に別れを告げた。

掲載:2013年5月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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