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第7回 女たちが叫ぶとき

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著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

駅より小さいその空港に降り立った時、ロッキー山脈を背景に、私の20歳の夏が始まった。人間より牛や馬の数の方が多いモンタナの田舎は、生まれて初めて海外の地を踏むおのぼりさんにはふさわしかったのかもしれない。プロテスタント系の白人が大多数を占めるその町では、皆がこぞって教会に通う。礼拝後のポットラック・パーティでは、東洋からの訪問者見たさに私の周りに人垣ができる。郵便局やドラッグストアなどがこぢんまりと軒を並べるだけの "ダウンタウン" には、唯一のエスニック・レストランとして誇らしげに存在を主張する中華料理店があり、ミニスカートを履いたブロンドのウェイトレスが炒め過ぎた炒飯を運んでくる。ホストファミリーの老夫婦と暮らす3週間は、ゆるやかに時が流れていった。あの牧歌的な情景に身を浸した日々の断片は、歳月を経て現在も私の中で息づいている。結果的にはこの国で結婚と子育てを体験することとなっただけに、私のアメリカ体験の原点ともいえるあの日々が今も変わらずに心を波立たせるのだろうか。

あれから幾多の夏が過ぎていった。そして今年の夏は、新たな地へと歩を進める準備に追われている。線路沿いの道を埋める自転車たち。プラットホームへと続く階段。ネオンに照らされた暖簾をくぐる会社員。もったりと澱んだ空気。アスファルトを踏む靴の音。無数の星が零れ落ちそうな大空に息を呑んだモンタナとは対照をなすコンクリート・ジャングル。東京での仕事が舞い込んだのだ。悩み抜いた挙句、2人の子供達を引き連れて行くことに決めた。夫も仕事が多忙を極めており、依存する訳にはいかない。そこで、苦肉の策として、ベビーシッターを雇い子供達の面倒をみてもらうことにした。日本では学生によるシッターのアルバイトが普及していない以上、派遣会社からプロを雇うしかなく費用もかさむ。「なぜ、そこまでして働くの?」いぶかしげに問いただした友人がいた。「子供が可哀想じゃない?」確かに仕事は断ろうと思えば断れたのだ。その方が家族へのしわ寄せもなく無難な選択だった。だからこそ悩んだのだが、最終的には、「どうしてもやりたい。いや、やらねば後悔するのは目に見えている」という心の叫びに突き動かされ決意を固めた。無難な道を選んでいては、失敗もない代わりに成功も望めない、とも考えたのだ。
それでも、折につけて、疑問が自分の中に湧き上がる。「なぜ、そこまでして働くの?」台所で野菜を刻む時。息子の遅々とした漢字練習につき合う時。サマースクールで水遊びに興じた娘の水着を鞄から取り出す時。そして、この独立記念日もそうだった。シアトルからフェリーに乗ってベインブリッジ島へと家族で遊びに行った昼下がり、出店や余興で活気みなぎるウォーターフロントの公園を闊歩しながら、はしゃぎ回る子供達の無邪気な会話を背景に、自問自答を繰り返していた。そんな時、ふいによみがえった言葉がある。

「夏が、終わろうとしていた。」

故・森瑤子さんの衝撃のデビュー作として話題をさらい、25年以上たった今もなお、多くの女性の心を揺さぶり続ける小説、『情事』 の冒頭を飾る文章だ。私がこの本を手にしたのは、ほんの1、2年前だろうか。私のブログのひとつに森さんのお嬢さんからコメントを頂戴したことが契機となり、彼女自身が母の作品の中で最も愛するというこの小説を読んでみたいと思ったのだ。それ以前にも
『情事』 について知ってはいたが、一向に興味は湧かなかった。元来、恋愛にしろ不倫にしろ、男女関係を深く掘り下げる小説を私は好まない。その上
『情事』 なんぞ、題名からして軽薄な感がまとわりつき、読む前から内容が薄々わかるようでつまらない。それでも、本を紐解き最初の段落を読み始めた途端、ぐいぐいと物語に引き擦り込まれ、主人公の胸の痛みや焦燥感を時には自分のものと受け止めながら、一気に読み上げた。"若さを失うことへの不安から奔放な性に駆りたてられる"
三十代の主婦が、ふと知り合った外国人ジャーナリストとの短くも甘美な情事にのめりこみ、その終焉にうちのめされる。簡潔に要約すれば、そういうことになろうか。「なんだ、やっぱりタイトル通りで軽薄じゃないか」と思う人もいるかもしれない。品行方正の奥様方なら「ポルノまがい」と目を背けるかもしれない大胆な性描写もある。私とて二十代で読んでいたら、「結局はおばさん向けの本じゃない」とシニカルな笑みのひとつも浮かべ、本を放り投げていたに違いない。だが、結婚や子育てを経て、主人公と同様に「若さが少しずつ剥ぎ取られ、精神の緊張感を失う」ことへの危惧を抱える今だからこそ、見えてくるものがある。妻として母として生きることを課され、一個人としてのアイデンティティを見失いがちな女性が、身体の内部から湧き出る「自分を生きたい」という叫び声にも似た切望に胸を焦がす。多くの女性が経験する心の軌跡を鮮明に描いたのがこの小説ともいえる。自らのアイデンティティを築きたいという願望は、女性誌で性懲りもなく取り上げられる「主婦か、キャリアウーマンか」という二者択一の問題とは異なる。エプロンをスーツに着替えたとたんに揺るぎない世界が確立するわけなどあろうはずもない。もっと奥深い内面の問題なのだ。

「夏が、終わろうとしていた。」 この一文に森瑤子自身の心の叫びが凝縮されている、といえば誇張になるだろうか。彼女のエッセイ集には、三十代の半ばを過ぎ、「全世界に闘いを挑む」覚悟で小説を世に出すまでの葛藤が反映されている。3児の母として平穏な日々を享受していた彼女が、青春の煌きを喪失しつつある事実をむなしく凝視し、このままで老いるのは厭だと叫び声をあげた。髪振り乱した「団地のおばさん」になるのは「厭だった、絶対に厭だった。」彼女はそう繰り返す。娘達をビーチで遊ばせては、森さんは本の世界に埋没した。そんな日々が自分にもあった、と私も頷く。公園を駆け回る子供達を遠い目で眺めながら、バッグにしのばせた文庫本をおもむろに取り出し、小説の世界に身を浸す。ひとつまみの独りの時間を貪るかのように。子供に夢を託す生き方だけは選びたくない。ずっと自分に言い聞かせてきた。それは今も変わらない。生きるも独り、死ぬも独り。独りという言葉が私は好きだ。人は誰もが孤独だという現実をとことん凝視して生きたい。白馬にまたがった王子様が手を差し伸べた途端、「めでたし、めでたし」で幕を閉じる物語など、5歳の娘が飽きもせずに読み聞かせをねだるプリンセスの絵本の世界だけで十分だ。

「妻として母として生きるだけで幸福よ。」そう言い切れる女性もいる。反乱の叫び声をあげることなどなく、日常のささやかな歓びを心の糧に生きることができたなら、それこそ最も満ち足りた人生だろうと羨望さえ感じる。私もそういう生き方を自らに課そうと試行錯誤を繰り返した時期があった。だが、私は自己顕示欲が強いのか、単に身勝手なのか、家庭の外に自分の世界を見出さずにはいられない性分なのである。そして、私の場合は、それが "情事" でもなければ趣味でもない、仕事という手段となる。これで家族が渋い顔をするなら躊躇もするが、幸い、夫は私に弁護士になることを奨励してロースクールへ送り出してくれたほどだから、キャリア形成へのサポートは惜しまない。子供達も母親が常に傍にいるのを煙たがる年齢になり、友達と遊ぶ時間を少しでも引き延ばそうと、「ママ、働いていてもいいよ。お迎えはもっと後にして」と懇願し、私を少し落胆もさせる。家族の抵抗や反対が一切ないどころか、逆に「もっともっと働いていいよ」と声援を送られるぐらいだから、これを利用しない手はないとさえ楽観している。一方で、家庭と仕事の両立など不器用な私には手に負えないから、きちんと主婦業をこなしている人達からすれば随分と手抜きに見えると覚悟はしているし、実際そうであるとも認める。それでも私のような人間が完全に家に入れば、ストレスを募らせるあまりに、子供に辛くあたることもあるかもしれない。公私をバランスよく両立させ職業人として家庭人として両面で充実した人生が送れたなら、それがまさに理想である。だが現実には両立を難なくこなす人の方が少数であり、結局は妥協もしながら最も自分らしく生きられる生き方を選び取るしかない。

ほのかに甘い薫りを含んだ蒼い風や、木々の間から放たれる白い光の矢に彩られる夏。シアトルが最も美しく映えるこの季節を迎えるたびに、「どうぞ終わらないで」と祈るような気持ちで空を仰ぐ自分がいる。ガラス器に盛られ艶やかに光るチェリー。ベランダから風とともに届く笑い声。「流しそうめんを9杯も食べたよ。」日本語サマースクールから帰宅した娘の弾む声。ああ、ずっと、この季節に抱かれていたい。「秋には秋のよさがあるのよ。」そう言い切れるほど私は人間ができていない。"一生青春" などという使い古された表現を声高に叫ぶのはまっぴらだが、心では常に瑞々しい夏の風と光を輝かせていたい。モンタナもシアトルも、ひいては東京も私の旅の通過点である。そして、これからも一人旅は続く。独立記念日のパレード終了後、出店をひやかす家族と離れ散歩をする昼下がり、夏草の匂いに包まれて歩きながら、ほとばしる想いに胸を熱くした。

掲載:2009年7月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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