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第18回 東京ダイアリー(10)伸びゆく木

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著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

5月 X 日

対岸で、彼女が手を振っている。一心不乱に、という言葉を付け加えたくなるくらいに。

白い飛沫で川面にゆるやかな線を描く水上バスの心地よい振動に身を任せる。2年後、世界にデビューする東京スカイツリーがその存在を誇らしげに示す隅田公園を発ち、浜離宮恩賜庭園へと向かう船上だ。光の矢が射す水曜日の昼過ぎ、私は深めにかぶった帽子の下から、水辺で織り成される情景に見入っている。隅田川テラスで昼休みを過ごすのだろう、ビルから出てくる勤め人達がベンチに腰を下ろす様子が見える。営業部長やら人事課長やらが、コンビニで買ったお弁当でも片手に、5月の空の下、ネクタイを緩め束の間の自由を享受するのだろうか。OL 達が、上司の悪口をさかなにお菓子をつまむのだろうか。その一方で私は、ベランダに洗濯物がはためく団地から目が離せない。ああ、ここは日本だ。そう思う。クルーズの船上からだろうが、遊園地の観覧車からだろうが、ワイシャツだのピンクのバスタオルだのと洗濯物がベランダに並ぶ建物が必ずといってよいほど視界に飛び込む。だが、それが景観をそこなうとは思わない。ただ一枚のシャツが干されるベランダでさえ、日常という名のささやかなドラマの断片が存在を伝えるようで、その生活の匂いが心地よくも感じられる。絵葉書のごとく整然とした風景は味気ない。だから、今日も私は、川に華を添える清洲橋や蔵前橋もさることながら、団地のベランダに立ち懸命に手を振る「彼女」を見つめずにいられない。いや、彼女か、彼か、実は不明瞭だ。性別や年齢を判断するには距離があり過ぎる。そのくせ、「彼女」に違いない、年齢は30代前半、と私は勝手に決めつけ、小さなドラマを創る。無造作に束ねた髪を風に揺らす彼女。腕には2歳ぐらいの男の子を抱いている。「ほうら、ケンちゃん、お船よ。手を振ってごらん。」やがて母子は踵をかえして居間に戻り、オムライスを食べる。テレビからは幼児番組のテーマ曲が流れる。床に散乱するおもちゃで坊やが遊びだす頃、彼女は皿洗いを始める。自分の傍らを足早に駆け抜けた日々を慈しみ記憶をあたためるかのように、私はそのシーンを繰り返し心に映し出す。船上で涼やかな風に頬を撫でられながら。隅田川は今日もやさしい。

6月 X 日

「世界一」への期待を一心に受ける、建設中の東京スカイツリーを工事現場から見て

ふと足を止める。「すいとん粉、入荷致しました。」米屋の戸に手書きの紙が貼られている。「すいとん」などという言葉は、日本を離れて久しい私の語彙からはとうに消されていた。木造長屋に混じり散髪屋やたばこ屋がひっそりと佇むこの街では、昭和の息吹が肌で感じられる。だが、東向島駅に向かう路上で思わず立ち止まったのは、「すいとん粉」が理由ではない。その懐に花街の歴史をしたためる向島の百花園で野草を堪能した帰路、ぶらついていた路地の奥に、思いがけずも建設中のスカイツリーがその巨体を覗かせたからだ。そういえば、浅草の新仲見世付近を歩いていた時、もんじゃ焼きの店の看板の向こうにそびえ立つツリーを発見し笑みがもれたこともあった。「東京タワーほど洗練はされていない。」そんな枕詞での説明がついたスカイツリーの特集記事が脳裏を横切る。なるほど、そうかもしれない。スカイツリーのお膝元・隅田区は江戸情緒や下町人情といった表現が似つかわしい、どこか古めいた土地である。目ざす高さ634メートル。世界一の展望タワーとして君臨することとなるツリーは、この原稿を書く時点において398メートルに達した。天を目ざし伸びゆくこの大樹の成長過程に興味をそそられた私は、わざわざ業平橋の建設現場くんだりに足を運んできた。超大型クレーンがダイナミックな動きを披露する業平橋では、今しか見ることができないツリーの姿を記念に残そうと意気込む幾多の訪問者が北十間川沿いの道を埋め尽くし、せわしげにシャッターを切っていた。この塔が完成し、ガラスに覆われた展望台で無数の観光客が空中散歩を楽しむ2012年春、隅田川沿いの街並みはどんな色彩を帯びるのだろう。そして、私はどう暮らしているだろう。新たな物語への序曲を奏でるべく刻々と碧空へ伸びゆくこの木のように、私自身も日々、着実に高さを積み上げていきたいものだ。吸い込まれるような初夏の空を眩しげに仰ぎ見ながら思う。

6月 X 日

和らいだ光に初秋がほのかに香る昼下がりだったと記憶している。「はとやまさんのおうち」へと私達は勇んで歩を進めた。永田町界隈を住まいとしてまもない頃である。鳩山内閣が幕を切ったばかりだった。「シュショウカンテイが近いんだって。今すぐ行ってみようよ。」「はとやまさんに会えるかな。」ミーハー気分以外の何でもない。国会図書館や議員会館の脇を通り、意気揚々と目的地である首相官邸へと向かう。立法(国会議事堂)、行政(首相官邸や霞ヶ関官庁街)、そして司法(最高裁判所)と国の動力となる三主要機関が勢揃いした地。このように政治中枢を体感できる場に住むことはこれから先二度とないだろう。

週末の永田町は気味が悪いほど静まり返り、随所で目を光らせる警察官を除けば人影も薄い。(永田町ほど警備の厳重な場所を私は知らない。)ビデオカメラを掲げ歩く私を足止めにし、「どういう目的で撮るんですか?」と鋭い目つきで質問してくるお巡りさんもいる。そんな中、辿り着いた首相官邸は予想したほど壮大なものではなかった。ワシントン DC への旅行中に訪れたホワイトハウスほどの見所とは思えない。「なーんだ。この程度のものか。」肩すかしをくらい、早々に退散した。官邸と目と鼻の先に発見した溜池山王駅に、「タメイケサンノウ?ヘンテコな名前だよね」と言いつつ、空腹を訴える子供達に来日して初めて食べる肉まんを買ってやった。あの午後をどこか感慨深い想いで振り返りながら、ニュース番組を見る。

私達家族が「はとやまさんのおうち」と呼んでいた首相官邸 (手前の建物)

鳩山総理辞任。新政権誕生。私達がここで生活する短い期間に、ひとつの時代が幕を開け、そして終焉を迎えた。歴代総理の誰よりも身近に感じていた(これは、地理的に近いという極めて単純な理由によるものだが)首相が辞任したというニュースに、息子は驚愕し、真摯な表情で説明を求めた。国会議事堂見学ツアーにも2回にわたって親子で出かけ、本会議場の傍聴席にも座り、日本政治への関心も深まりつつある頃だった。「外国人に参政権を与えるな!」この界隈をのし歩く右翼団体(靖国神社に加え各政党本部が点在する場所は彼らにとって絶好の場である)が拳を振り上げ訴える姿を目のあたりにし、怒りで顔を上気させ叫び出さんばかりの息子をなだめた挙句、「日本における外国人」について真剣に語り合った日もある。そして今、私達がここを発つより早く、「はとやまさん」が去る。取り込んだ洗濯物を放り出したまま、新首相決定のニュースをぼんやりと聞いていた。

6月 X 日

水無月の風が帯びる湿り気が、どこか懐かしい。「冷やし中華、始めました」という食堂のショーケースで目をひく貼り紙が、そして、「夏野菜カレーを作りましょう」と公民館の掲示板で呼びかける料理講座のポスターが、それぞれに眩しい季節の到来を告げる今日この頃。永田町にも夏が来た。

街中をあげてのお祭りが開かれる日枝神社

「お祭りに参加しよう。」子供達が学校からそんなプリントを持ち帰った。「山王さん」の愛称で親しまれる永田町の日枝神社で、江戸三大祭のひとつに数えられる山王祭が始まるのだ。2年に一度しか開催されない特別イベントである。江戸城の鎮守として徳川家の崇敬が特に篤かった日枝神社は「元はとやまさんのおうち」と至近距離にあり、鳩山氏自身も家族と参拝に出かけている。山王祭では、子供達の学校から校長先生をはじめ7名の先生がお神輿を担ぐそうだ。弁慶橋・赤阪見附経由で神社に宮入するらしい。息子と級友も半纏を着て、「牛若大山車」「御幣をかつぐ猿」の山車を引く。今朝、散歩がてらに神社に足を伸ばすと、お祭りに備え化粧がほどこされたかのように、きらびやかなお神輿が出番を待ち構え、静謐な空間の中にも華やぎが感じられた。勇ましい掛け声が、祭囃子が、すでに聞こえてくるようだ。人々がお神輿を担いで千代田の街から街へと練り歩く時、より濃くなる初夏の匂いが、蘇る江戸の薫りと溶け合って独自の物語を紡ぎ、私の胸を締めつけるのだろう。 

「夏野菜カレーか。おいしそうだなあ。」掲示板で見たポスターを思い出す。店先で艶やかに光るトマトや茄子たちをたっぷりと使ったカレー。今度、作ってみようか。夕暮れ時、子供達が待ち侘びる児童館へと、紫陽花が彩る道を歩く。真っ直ぐに伸び続ける大樹への期待が日一日と膨らみつつある東京の空の下を。

掲載:2010年6月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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