MENU

第21回 東京ダイアリー(13)お蕎麦屋さんのシンフォニー

  • URLをコピーしました!

著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

私は目が見える。そう思った。手を合わせたいような気持ちで。次に、苦笑がもれた。視線の先にあるのは、エッフェル塔でも、ワイキキ・ビーチでもない。池袋サンシャインタワーから臨む、無数のダイヤモンドを散りばめたような東京の夜景でもない。小鉢に溢れんばかりのネギの小口切り。七味唐辛子が入った赤い瓶。そして、白い湯気が立ち昇る460円の天ぷら蕎麦。衣がやけに厚い海老の天ぷらを割り箸の先でつつきながら、静かな歓びが心を満たすのを感じ、傍らで親子丼をかきこむ息子の背を撫でた。聴こえる。今度はそう思った。交響楽が聴こえてくる。耳をすませてごらん、その調べが聴こえてくるよ。かすかな音色ではあるけれど、きっと聴こえてくるよ。

東急世田谷線のミニ電車

東急世田谷線のミニ電車

あれは晩秋だったろうか。仕事を終え学童クラブへ息子を迎えに行った後、2人で蕎麦屋の暖簾をくぐった。当時まだ保育園に通っていた娘はそこで夕食を済ませるため、彼女を迎えに行くまでの短い時間を埋めるように、手早く2人で空腹を満たすことにした。店内は、経済新聞などに目を走らせつつ箸を動かすサラリーマンのダークスーツ姿で埋まる。背景に流れるオルゴールの音楽が、無味乾燥な空間にささやかな彩を添える。ああ、今日も終わろうとしている。疲労と安堵に包まれながら、蕎麦を食べ始めた。その時だった。木漏れ日に照らし出されるような温かい感情がこみ上げ、私は箸を止めた。幸せだ。そう、心の片隅で呟きながら。その日、職場で辛いことがあった訳でもない。苦しい一日の締めくくりに、我が子と夕食をとることにより、ささくれだった心に水が差し込まれたという訳でもない。無表情に、そして足早に駆ける凡庸な一日に過ぎない筈なのに。これは、どうしたことか。こみ上げる感情にたじろぎつつ、卓上をまじまじと眺めた。そして、目が見えることに感謝した。ネギの入った小鉢やら七味唐辛子の瓶やらが無造作に並ぶ手元が、不思議な奥行きを持ち視界に入ってきた。そして、池に投げ込まれた小石が水面に描く輪のように、感謝の念が拡がった。一日が無事に終わろうとしていること。寄り添って食事をする子がいること。もう一人、迎えに行く子がいること。3人で帰る場所があること。「ありがとう。」誰にともなしに心で呟く。その時、耳に響いてきたのは、もうオルゴールの音楽ではなかった。どこからか、かすかなシンフォニーが聴こえてくる。「耳をすませてごらん。そのシンフォニーは、君の中で静かに演奏を続けているんだよ。」何かの本で出会い、心のノートに書き留めた文章が蘇った。そう、その交響楽団は、私達の内にあって、静かに、そして辛抱強く、演奏を続けているのだ。

赤い絨毯が敷きつめられたホールで独特の雰囲気に心を浸し、舞台で奏でられるバイオリンやチェロの音色を堪能する。指揮者の手が止まり、一瞬の静寂が宿った後、拍手の波が拡がる。一人また一人と観客が立ち上がり、口笛やブラボーという声が会場を包みこむ。そんな空間とは異なり、ともすれば埋没してしまいそうな日常のシーンに、バッハが、ビバルディが、チャイコフスキーが聴こえてくる、そんな時がある。それは、スーパー・ココスでの買出しの後に寄り道をして、澄んだ空を仰ぎつつプリンス通りの並木道を闊歩する土曜日かもしれない。それは、穏やかな寝息を立てる子の傍らで、水滴が滴り落ちそうな髪をタオルでくるみ、連絡帳にペンを走らせる夜更けかもしれない。目が見えること。呼吸ができること。家族がいること。ご飯がおいしいと思えること。当たり前とたかをくくりがちな、いや、当たり前過ぎて考えもしないことが、新鮮な重みをたたえて、その存在感を示す。瀟洒なホールの一等席を陣取らなくても、シンフォニーが心に響き出す。その夜、千代田区のビルの狭間にある一番町の蕎麦屋の片隅で、私はそんな贅沢な気持ちを味わっていた。「ごちそうさまでした。」蕎麦を食べ終わり、お盆を返却棚に置く時、語尾まできっちりと言いながら店員のおにいさんに会釈をした。「毎度ありがとうございます。」「またお願いします。」威勢のいい声を背後に、息子の肩を抱き、保育園へと夜道を辿った。

どこか郷愁を誘う駅前の店並み

どこか郷愁を誘う駅前の店並み

土産物店をひやかす観光客に埋もれる浅草の仲見世。老舗の高級店がひしめく銀座4丁目の交差点。お台場から眺めるレインボーブリッジ。六本木ヒルズ。原宿。渋谷。表参道。思い出のアルバムをひもとけば、どのページからも、きらめく風景が溢れ出す。「浅草はいつ行っても、すごい人だったなあ。」「銀座の生キャラメルの店、覚えてる?ピンクのバスみたいで可愛かったよね。」「どうして原宿って、ヘンテコな服装をした人がたくさんいたの?」歳月を経て記憶を辿る時、写真を前にそんな会話が弾むのだろう。だが、どこを探してみても、一番町の蕎麦屋の写真はない。家族からパパラッチなる渾名で呼ばれる私は、カメラを常時バッグにしのばせ飽きもせずにカシャカシャとやってはいるが、そのパパラッチにして、天ぷら蕎麦や七味唐辛子、あるいは、「お待たせしました」と蕎麦を丁寧にテーブルに置いてくれたおにいさんの写真など、撮ってはいない。それでも、あの夜は私の中でひそやかに息づき、陽だまりのようなやさしさを湛えて、振り返る私を待っているような気がする。道に迷った時や立ちすくむ時、私は再び心の中で9歳の息子と手を繋いで一番町へと足を運び、懐かしい暖簾をくぐるのだろう。あまりにも日常に溶け込み過ぎてカメラを取り出すことさえ思いつかないシーンから、実は何かを私達は吸収し、学びとり、時にはそれを明日への希望と繋ぐことがあるのかもしれない。「写真にならない」、けれどかけがえのない一瞬一瞬が蓄積し、人生という物語を紡いでいるような気がしてならない。

そんな瞬間に光をあてたいという気持ちが、行間に見え隠れする。「東京ダイアリー」を読み返しながら、そう思う。非日常よりも、日常の空間に力強さを感じるからだ。たとえば、以前のコラムにも登場した東急世田谷線の旅がひとつの例かもしれない。旅と名づけるのさえ気がひける、それでも私の中では旅としか言いようがない、そんな時間を過ごしたのは、早春の声を聞こうというのに刺すような寒さがつのる二月だった。「今日だけは、小さな旅を私自身にプレゼントしよう。」溜まった有給休暇を堪能すべく、一人旅のご褒美と洒落込んだ。とはいえ、横浜の中華街を散策した訳ではない。お台場行きのモノレールに乗り込んだ訳でもない。世田谷の平凡極まりない住宅街へと繰り出したのだ。わざわざバケーションと意気込む程の場所か、と誰もが首を傾げるだろう。海を越えてシアトルを訪れる人が、スペース・ニードルやパイク・プレース・マーケットに背を向け、ボセルやエバレットの街路をうろつくのと大差ないではないか。だが、この日を待ち構えていた私は、子供達を学校と保育園に送り出すやいなや、田園都市線に揺られ三軒茶屋に行き、一日乗車券を片手に世田谷線に乗り込んだ。ガタゴトと懐かしい音を響かせ路面電車よろしく街の中を駆け抜けるミニ電車から、車窓越しの世界を見つめる。心のおもむくままに、いろいろな駅で降りては周辺をぶらつき、また乗ってを繰り返す。スーパーで、何を買うともなく商品を見て廻る。小学校の校庭で繰り広げられる体育の授業を眺める。名もない神社の鳥居をくぐる。たこ焼きを買う。(「立ち食いは駄目だよ。行儀が悪いからね。おてんとうさまは、ちゃんと見てるよ。」屋台のおじいさんは、ご丁寧にも諭してくれた。)受験生らしき一群を目で追う。色褪せた政治家のポスター。そろばん塾の看板。ガラガラと戸を開けて入る文房具屋で、「小学一年生」の脇に並ぶ塗り絵ブックと、その表紙で瞳に星を光らせるおひめさま。ランドセルを背負い走り出す子。踏み切りの遮断機が下り、電車の轟音を背景に自転車を停める主婦。さりげない佇まいが不思議な透明感をたたえて何かを語りかけてくる。遠過ぎて見えないと思っていた景色が目前に拡がる。お帰りと誰かが肩をポンと叩くような気がする。「帰った」ことへの安堵と歓び、そして、自分はここには属さない人間なのだという一抹の哀しさ。そんな気持ちを噛み締めながら、冬の薄日を浴び、コートの襟を立て歩く。帰国よりも帰郷という言葉が似つかわしい、あの昼下がりは、私の中でずっと静かに呼吸を続けていくのだろう。

下高井戸駅の踏み切り

下高井戸駅の踏み切り

「ディズニーランドのハロウィーン・パレード、すっごくカッコよかった。」「数寄屋橋の不二家で食べたミルキーパフェ、おいしかったよねえ。」いつか思い出話に花が咲く時、私はひそかに胸の奥で一人旅の余韻を温め、再び切符を買うだろう。ガタゴト、ガタゴト。二両編成のブルーの電車の振動に身を任せて、旅が再開する。下高井戸駅の近くで、また屋台のおじいさんに会えるだろうか。ふっと笑みがもれる。そして、気づく。あの二月の水曜日、ゆるやかに流れる時の中で、私は交響楽を聴いていたのだと。

掲載:2010年10月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

  • URLをコピーしました!

この記事が気に入ったら
フォローをお願いします!

もくじ