著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。
化粧が剥がれ素顔を覗かせた女性のようだ、と思う。淡い橙色の光をまとったビジネス街を窓越しに見下ろしながら。黄昏時の丸の内が好きだ。朝、有楽町から国際フォーラム沿いに丸の内へと続く歩道はスーツ姿で埋まり、Japan, Inc.なる世界の一日の始まりにふさわしい緊張感が漂う。目をくっきりと浮き出すようにアイラインでシャープなラインを引き、パンプスで闊歩するキャリアウーマンを彷彿とさせるように。だが、夕暮れともなれば、高層ビルや高級ブランド店がひしめく街も、心なしか表情を和らげる。アイラインが消えた目に優しさを滲ませ、保育園の我が子を気遣うワーキングマザーを思わせるように。ともすれば無機質となりがちなビル街に潤いを醸し出す皇居の樹木が、夕陽を浴びて映える。橙色に染まる丸の内は美しい。休憩がてら、ラウンジのある階でエレベーターを降り、その柔らかな光景をガラス越しに堪能するうち、ふっと心が軽くなる。昼休みにはランチをとる勤め人で活気にみなぎるラウンジも、この時間は静寂に包まれる。窓際で頬杖をつきながらアイスティをすする女性は、週末にお台場あたりへのドライブを恋人にねだろうかとひそかに計画を練っているのだろうか。週刊誌のページを繰りつつ窓の外へと視線を泳がせる男性は、中学受験を控え塾通いに明け暮れる息子を思案するのだろうか。「今頃、学童クラブで卓球でもしてるかな。」束の間の安らぎの時間、私自身も、母親の顔に戻る。やがて闇が舞い降りる丸の内は、幾千ものダイヤモンドを散りばめたかとさえ思わせる灯に照らし出される。そして、東京は、"Tokyo" という無国籍都市へと変貌する。
丸の内の OL。そんな表現を耳にするたび、私は自分勝手な想像を膨らませたものだ。丹念にシャンプーされて艶やかに光る髪をなびかせ、踵の細いパンプスで軽やかな音を立てながら歩く。そんな女性が溢れるビル街に違いない、と。まさか、自分がその地で働くことになろうとは想像もしなかった。「えーっと、丸の内ね。ほうら、東京駅の真ん前だ。通勤に便利だね。あれ、皇居にも近いよ。」渡航準備にいそしむ初夏、シアトルの自宅で地図を見ながら、まだ見ぬ地へと胸を高鳴らせたものだ。そして晩夏の風が吹く頃、東京メトロに揺られ足を運んだ丸の内には、想像したとおりの女性が溢れていた。彼女達は、際立って美しい。昔も今も大企業は容姿で女性を選ぶのかと口を尖らせたくもなる反面、苦笑がもれる。美しい女性を目のあたりにして、その美しさを素直に認め、うっとりと見とれるとは、私もそれだけ年をとったのか。「あれっ、給食当番の白衣にアイロンかけるのを忘れてた。ということは、くしゃくしゃのまま袋に突っ込んで先生に返したんだ」などと冷や汗をかきつつ、500円玉を握りしめコンビ二へと天丼弁当を買いに走る。そんな風に生活臭を匂わせた女性など私ぐらいのものではないか。ビルを埋め尽くす店も洗練されたものばかりで、ここのブティックやネイルサロンは、私なんぞには敷居が高過ぎ一歩も入れない。それでも、独身貴族に混じり、ティファニーやセルジオロッジなどの店がひしめく仲通から有楽町駅に向かう帰路では、ヨーロッパの石畳を思わせる街並みに心を弾ませた。 イルミネーションに彩られたクリスマスの仲通は芸術的だと感嘆した。今日も、あの地では、会社帰りの女性達がパンプスの音を響かせて闊歩しているのだろう。
思い思いのファッションに身を包んで歩く女性たちに比べると、男性のスーツ姿はあまりにも一律的で無味乾燥だ。一方で、20代が圧倒多数を占める女性に比べ、男性の年齢層は幅広い。ネクタイが窮屈そうな新卒社員から、週末には孫を膝に抱いて相好を崩すのかもしれない男性まで、その顔ぶれは様々だ。サラリーマンと、どこか哀しい響きもある言葉でひとくくりにされる彼ら。その言葉の背後には、通勤電車だの飲み会だの、ありきたりのイメージがつきものだ。「今夜も、遅くなるよ。」そんな言葉を呟きながら、ブリーフケースをひょいと持ち上げ、マンションのエレベーターに乗り込む。Japan, Inc. へと続く電車に吸い込まれ、規則的な一日が幕を開ける。そんな情景が脳裏に浮かぶ。むろん、カイシャとひとくくりにしたところで、大企業からベンチャー企業まで実態はさまざまだ。 だが、丸の内は日本経済の顔とも呼べる会社がずらりと軒を並べる一等地だから、ここを拠点とする企業戦士の多くは優等生として歩んできたに違いない。4月1日の入社式で社歌を歌い、社訓を唱え、係長、課長、部長と階段を上りつめていく。そんな生き方をしてきた、あるいは、していく人たちが少なくないだろう。
昼休みを利用して、秋葉原の会社に勤める知人を職場に訪ねた初冬の日を思い出す。紙片にメモした住所を頼りに雑踏の中を歩きつくし、駄菓子屋やらラーメン屋やらを通り過ぎて、やっと辿り着いた会社は、ともすれば見逃しそうな雑居ビルの一角にあった。ドアを開けると、初老の男性が窓口からにゅうっと顔を覗かせる。「ああ、X 社の T さんね。」電話で呼び出された T 氏が階下に降りて来る間、私は名ばかりのミーティングルームに通され、パイプ椅子に腰を下ろした。私の職場が入るビルは、まるで違う。瀟洒なロビーのカウンターには、制服姿の受付嬢たちが背筋を伸ばして並ぶ。訪問者が近づくと、彼女達はうやうやしく頭を垂れ、「お客様、身分証明書をお持ちでございますか?」と尋ねる。セキュリィティ・チェックを丹念に行う警備員が幾人も傍らに立つ。同じ千代田区とはいえ、秋葉原と丸の内のカラーは大きく異なる。T 氏とのミーティングを終え、秋葉原駅から東京駅へと電車に揺られ丸の内へと戻る。「やっぱり、こっちの方がカッコいいじゃない。」お洒落なカフェやベーカリーが並ぶ地下街で華やぎに身を浸しながら歩く時、鼻高になる半面、苛立ちも感じる。「ブランドなんて何さ」と馬鹿にする素振りをしながら、ブランドへの憧憬を捨て切れない自分。そして、この世界に実は属さないことへの疎外感、いや劣等感が心の奥底でうずく。職場の花を気取る程の若さもない。かといって、東大だの慶応だのといった学歴をひっさげてエリート街道を直進する企業戦士と互角に戦う気概も実力も持ち合わせない。花か、戦士か。丸の内で勝負するには、どちらか一つの選択肢しかないじゃないか。そんな心の声に耳を傾けながら歩く。
花か、戦士か。二者択一のワークスタイルは、丸の内に限らず、日本の企業文化そのものに通じるのかもしれない。典型的なサラリーマン家庭に育った私は、その文化のあおりを受けて大人になった。あれから歳月が流れ、日本の伝統的雇用制度は崩れたとか崩れつつあるとかメディアは報道するが、根底を流れるものに変わりはない。「朝礼なんてものをやるのよ、ウチのカイシャは。」いかにも嫌だと言わんばかりの表情を作りながら、A 子が口を尖らせる。アメリカ留学の経験を経て日本企業に就職した彼女は、そういったものが疎ましくてやりきれないらしい。「スローガンを唱えたりもするしさ。嫌になるよ、もう。」外資系に籍を置く私には、遠い世界だ。朝礼どころか出勤時刻が人によってバラバラで、中には昼過ぎに顔を出す人もいる始末だ。(自由といえば確かにそうなのだろうが、労働時間の長さではなく成果で能力を示すという厳しさもある。)ドライな世界で一匹狼的に生きてきた私には、日本のカイシャ文化の泥臭さが新鮮にさえ思えるのもまた事実だ。朝礼だの社員旅行だの、あったらあったで息苦しさにウンザリもするに違いない。「今どき社員旅行なんて、やめて欲しいよ。メンドクサイったら、ありゃしない。」そんな風に呟きながら、眉をしかめたくもなるというものだろう。そう知りつつも、「泥臭さ」の中に、一時的ならどっぷり漬かってみるのも悪くはないか、と考える自分がいる。組織への帰属意識を持たずに独りで歩いてきた私は、一抹の淋しさも感じていたのだろうか。
暮れゆくシアトルの空の下、残業の合間に手を休め、窓の外をぼんやりと眺める。エリオット湾を照らし出す灯りを見下ろしながら、その景色の彼方に愛しい街を思い描く。皇居のお濠を中心に江戸城の薫りが漂い、歴史の重みがずしりと感じられる街。それを舞台に君臨するカイシャ帝国。そして、そこで織り成される人間模様。黄昏時のラウンジで、「カイシャって、煩わしいのよね」とため息をもらしつつ、「もう少し、がんばってみようか」と自らの背を押すように心で唱えアイスティを飲み干す OL がいるかもしれない。いつの日か独立開業するのだという夢をあたためる一方で、「そういや、営業レポートの締め切りが迫ってたな」と、脳裏を横切る上司の渋い顔に舌打ちをしながら、エレベーターへと歩を早める営業マンもいるかもしれない。淡い橙色のベールの中、彼らはそれぞれの思いを抱え、それぞれの場所へと帰っていく。「あんたも、がんばりなさいよ。」誰かにポンと肩を叩かれたような気がして、私も手元の書類に視線を移す。 無数の物語を映し出すかのように、ひとつ、またひとつと灯りが灯る丸の内を心に描きながら。
掲載:2011年2月
お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。