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第28回 文月

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著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

7月 X 日

かすかに子供たちの寝息が響く中、今朝もスニーカーを履く。「あとは、よろしくね。」夫に手を振り、ドアを開けて朝の光を浴びる。目覚めたばかりのビル街は静かだ。東京の空の下、私は、相変わらず歩いている。歩くことにより、世界が少しずつ拡がるような気さえしてならない。

歴史の重みがずしりと感じられる番町。ここは、江戸時代に旗本や大名の武家屋敷がひしめいていたと言われ、一番町から六番町までを含む由緒ある町だ。怪談「番町皿屋敷」の舞台という説もある。ここの五番町を歩いていた時、獅子が門の両脇で権威を放つ建物に遭遇した。「一体、何だろう。」好奇心を掻き立てられて近づけば、東京中華学校とある。帰宅後、インターネットで調べてみると、台湾系の華僑学校で、ジュディ・オングも在籍していたらしい。二つの文化の狭間に立つ子供たちが母国の言語や文化との接点を維持しようと努める姿は、どこかシアトルの日本語補習校を彷彿とさせる気がする。もっとも、昨今は、中国語教育を目的として我が子を入学させようと意気込む日本人家庭も増えたそうだ。この中国語熱を華僑人コミュニティはどう受け止めるのだろうか。ふと思案をめぐらせる。

国際色豊かな番町の周辺には、イギリス、ベルギー、パラグアイ、ルクセンブルクなど各国の大使館が建つ。その中で私の興味を惹いたのが、三番町の「ローマ法庁大使館」だ。つまりバチカン市国、面積0.44平方キロメートル、東京ディズニーランドより小さな土地に826人(2009年7月推定)が住む、世界最小国家の大使館というわけだ。突如としてバチカンへの親近感がわき、観光サイトを覗いては礼拝堂の天井画や壁画に見惚れた挙句、芸術品の宝庫ともいえるこの国をいつか訪れたいものだと真剣に考える。

朝とはいえ、7月の東京は暑い。もったりとした空気がのしかかるようだ。それでも、つばの広い帽子の下、汗を拭いながら歩き続ける。私にとって、歩くことは、ひととき日常の雑事から離れ自分との対話をする贅沢な時間も意味する。シアトルでは、カフェの窓際に陣取り、エスプレッソの香りに包まれながら、ガラス越しの世界に心を浸す時間が好きだった。ここ千代田区でカフェに入ることはめっきり減ったが、その分、車社会アメリカでは味わえない楽しみを見出した。闇に包まれた赤坂の繁華街へ、夕涼みを兼ねて散歩に出たりもする。「ちょっと行って来るよ。」夕食後、サンダルをつっかけて気軽にネオンの街へと繰り出し、喧騒の中に溶け込む。これも、シアトルでは味わえない、都会ならではの楽しみだ。

バイオリンのレッスンの帰りに見る運河沿いの風景。

バイオリンのレッスンの帰りに見る運河沿いの風景。

7月 X 日

バイオリンの先生のお宅からは、いつも決まった帰路を辿る。近所の大型スーパーで買い物を済ませ、親子3人でパンパンに膨らむ紙袋と格闘しながら、駅までの道を歩く。今日は、そのパターンをやめてみた。水辺の公園でピクニックをしたり、建設中のスカイツリーを仰ぎ見たりしながら、のんびりと遠回りをする。いつも目にする超高層ビル群とは異なり、ベランダに洗濯物がはためく古びた団地や、こじんまりと佇むスーパーといった風景に、不思議な新鮮味を感じる。「わあ、おいしそう。」スーパーの果物売り場では、こんもりと盛られたさくらんぼのみずみずしさに視線を吸い寄せられる。つい買い込まずにいられない。さくらんぼが詰まった袋を提げて、運河沿いの遊歩道に立つ。

駅前の広場では、少年野球の試合の帰りらしい男の子の3人組が缶ジュースを飲んでいる。そして、背後では、彼らの母親であろう女性たちが談笑している。7月の夕暮れ時に似合う、そんな光景を眺めながら、ふと何かの本で読んだ一節を思い出した。「日本の主婦たちは、主義主張も持たず、社会問題への意識も薄く、ただ、おさんどんに追われるだけの生活に埋没している。」「団地のおばさん的な生き方に満足してちゃ、ダメよ。もっと広い世界に視野を拡げなきゃ。」アメリカで成功をおさめた日本女性、いわゆるキャリアウーマンである。まあ、いいじゃない。肩の力を抜こうよ。そう言い返したくもなる。環境問題や人権問題に関心を持ち、運動に加わるような人は立派だ。だが、そんな人ばかりで成立する社会が必要だとも思わない。それに、「闘士」が多ければ多い社会ほど、軋みが生じやすくなるのもまた事実だろう。誰もが社会貢献だの自己表現だのと崇高な理想を掲げて生きる必要などない。ささやかで穏やかな日常を愛しいと思える人生だって、悪くない。

ジュースを飲み干した少年たちが、「じゃあな」と言い交わす。それに促されるように、母親たちも手を振り合う。「またね。」「明日も暑くなりそうね。」家に帰り着いた彼女たちは、それぞれに冷奴を小鉢に盛りつけたり、カレーライスに入れる夏野菜を炒めたりするのだろうか。一瞬、懐かしい匂いが鼻先をかすめたような気がして、やさしい気持ちになる。静かに流れる運河が清々しい。

みたままつり開催に向けて準備を始める靖国神社の夜店。

みたままつり開催に向けて準備を始める靖国神社の夜店。

7月 X 日

夏は、シアトルが輝きを増す季節だ。透明な光に緑が映えるシアトルに背を向け、東京へと飛び立った私たちに、海を超えてメールが届く。「日本は節電の夏でしょう。さぞ暑いでしょうね。」「蒸し風呂のようじゃないですか?」知人からのメールには異口同音でそのようなことが書いてある。確かに、暑い。だが、時には薄手のカーディガンなど羽織らざるを得ないシアトルの夏も、それはそれで寂しい気がする。カッとした暑さがあってこそ、夏じゃないか。そんな風に呟きたくもなる。日本の夏はいい、風情があって。蝉しぐれが降り注ぐ公園。宇治金時の写真が飾られた店先。ラジオ体操。朝顔の観察日記。昔も今も変わらぬ風物詩に、安堵感さえ覚える。お祭りも、そんな風物詩のひとつだ。九段下駅で電車を降り、靖国神社へと向かう。30万人が集うと言われる恒例の夏祭り、みたままつりが今年も大盛況だ。案の定、境内は人で溢れかえり、身動きさえとり難い。それでも、子供たちは道の両脇を埋め尽くす夜店を吟味しようと視線を離さない。ここには、ベビーカステラの店。その向こうには、スーパーボールすくいの店。あっ、お化け屋敷もあるよ! 帰りの電車では、浴衣姿の若い女性グループが目につく。そこだけ大輪が咲いたように華やかだ。やはり浴衣姿の娘は、帰宅するやいなや、一足先に帰国した夫をスカイプで呼び出したかと思うと、ヨーヨー二つを後生大事に取り出し、PC のスクリーンに向かって掲げた。

私と娘のアイドル、不二家のペコちゃんも、甚平を着て涼しそう。

私と娘のアイドル、不二家のペコちゃんも、甚平を着て涼しそう。

7月 X 日

「マヨネーズ、つけますか?」「いえ、結構です。」「まいど、420円ですう。」「すう」の部分にアクセントをつけて、店員は言う。手渡されたたこ焼きを受け取り、息子と店頭のテーブルにつく。商店街に流れるのは、「六甲おろし」(阪神タイガースの歌)だ。たこ焼きに、タイガース。絶好の組み合わせじゃないか。「これさあ、タイガースの歌よ。」「タイガース?何、それ?」「知らなかった?この辺で大人気を誇る野球チームよ。」「ふーん、ぼくはそんなの嫌いだな。ジャイアンツの方がいいよ。」「えっ、どうして?」「ぼくは、東京が好きなんだ。」ソースがたっぷりかかったたこ焼きを口に運びながら、彼はクールに言ってのける。無理もない。息子と娘にとって、第二の故郷は東京である。彼らが喋る日本語を耳にすれば、「なるほど、東京っ子」としみじみ思う。実は、私とて東びいきになったのかもしれない。たこ焼きにお好み焼き、「粉もんグルメ」の天国と賞賛される大阪で本場ものを堪能しつつ、「うーん、これはもう一歩。赤坂のお店で食べたネギだこの方が、ずっとおいしかったよね」と平気でのたまう。そんな私達家族が、一学期の終業式が終わるやいなや、新幹線に飛び乗り、東京駅から新大阪駅へと旅に出た。「帰って来たら、関西弁を聞かせてよ。」「大阪の人って、すぐ仲良くなれそうよね。」友達にそんな声援を送られて。

そして今、六甲おろしが勇ましく響く西の街に私たちはいる。「さあ、ネオンに映える道頓堀で食い倒れといくか。」「へえ、大阪城公園にロードトレインが走ってるんだって。」「神戸、懐かしいなあ。放課後、よく元町って所をぶらついてたんだ。」行きたい所、やりたいことは山積みだ。文月の空の下、より激しさを増した蝉しぐれを背景に、私たちの新たな一章が幕を開けようとしている。

掲載:2011年8月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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