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第32回 具だくさん日記

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著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

12月 X 日

こんもりと盛られたリンゴの山に手を伸ばす。ほっこりと温かいパイに、溶けそうなバニラアイスクリーム。アメリカ版おふくろの味ともいえるアップルパイ・アラモードを好物とする夫。彼のために、たまには腕をふるってみようか。そう思いついた。抑揚もないまま足早に過ぎ去ろうとする日曜日の昼下がりに、少しばかり色彩を加えてみたかったこともある。バターを鍋に溶かし、刻んだリンゴを煮る。シナモンパウダーを振る。台所を包む仄かに甘い匂いの中で、目を細める。こんな風にゆるやかに流れる時間がとても好きだ。

お菓子作りは楽しい。日常の空間を彩る小さな花のようだとさえ思う。卵や生クリームをシャカシャカと泡立てたり、手ぐすねを引きつつ、オーブンの扉の向こうで徐々に形を成していく「作品」を鑑賞したりする時間が、贅沢に感じられる。だが、私はことさら手のかかるお菓子など作りはしない。若い頃は、腕まくりをせんばかりの意気込みでデコレーションケーキなど作っては、友人との集まりで披露したものだ。食べさせられた人達にしてみれば、お世辞のひとつも言わない訳にはいかず面倒だったろうと、肩をすくめる。今の私は、勇んで材料を買いに飛び出すよりも、冷蔵庫にある残り物を見渡し、ササッと何かを手早く作る方を好む。これは、主婦の感覚だろうか。たとえば、余ったバゲットの切り口にバターと砂糖を塗って焼き、仕上げに抹茶などを振りかけたラスク。混ぜるだけのチーズケーキ。電子レンジで作る「ういろう」。どれも、失敗知らずで、おいしい。(年季の入った主婦のくせに、中学生でもできそうな簡単なものばかり作っていていいのかなあ。)時には、そんな疑問が湧く。だが、「作ってまーす」という気負いなど微塵もないからこそ、続いているのだろう。今日も、私は冷蔵庫で眠る餃子の皮を取り出す。一枚一枚に、リンゴの甘煮をくるんでいく。

「ママ、おてつだいさせて。」 いつしか傍らで観察を始めた娘が、アシスタントを名乗り出る。「ほら、こんな風に、皮のふちに水をつけてね。」手本を見せてやると、彼女は嬉々として挑戦を始める。山のごとく積み上がった「ギョーザ・アップルパイ」をフライパンで焼き、アイスクリームと絡めた自己流アラモードに、家族で舌鼓を打つ。こんな時間が、とても好きだ。

12月 X 日

おほしさま。おはな。くまさん。ぶんぶん、ひこうき。オムライスの卵を溶く私の横で、娘が一心にクッキーの型抜きをする。子供にはとても楽しい作業だ。こんな風に彼女と台所に立てるのも、あと何年だろう。あと何年。子育てには、こういった逆算がつきものだ。ポニーテールにリボンを結んでやれるのは、あと何年。「ママだいすき。」 スターバックスのナプキンにラブレターを綴り手渡してくれるのは、あと何年。「読み読み大会」(母子で本の読み聞かせをし合うこと)の開催ができるのは、あと何年。子は、親が思うより何倍も早く遠くに行ってしまうのだと悟りつつ、その事実から目を逸らそうとする自分がいる。「ねえ、一緒にクッキーでも作らない?」明るく声をかける母に答えもせず、自室のドアをパタンと閉め独りの世界に埋没する十代の娘が、ほのみえるような気もする。耳たぶにはピアスが光り、目は濃いアイラインに縁取られているのだろうか。それも成長の過程と割り切るしかないのだろうか。

「はーい、できましたよう。」丹念に型抜きされたクッキーを前に、ピンクのカーディガンを着た娘が誇らしげに宣言する。オーブンの前を陣取りクッキーの膨らみ具合を吟味する横顔を見つめ、早や数年後には中学生となる彼女へのひそやかな想いを反芻する。休み時間に仲良しと連れ立ってトイレに行くような女の子には、絶対になって欲しくない。(この手のティーンが、日本にもアメリカにもいるのは不思議だ。単独で行動するのを拒む女性心理は、万国共通なのだろうか。) 「人は人、私は私」と言い切れる凛とした強さを内に秘めていて欲しい。プライドという言葉は解釈によって虚栄心とも自尊心ともなるが、娘には後者を大切にできる人間に育って欲しい。

ここまで書き連ねて、ふと自問自答をする。親の私自身が、どれぐらい自己へのプライドを軸に生きてきただろうか、と。自分は自分、と割り切って生きてきたつもりだが、実は、体裁を気にかけ新たな一歩を踏み出せずにいた日々があるではないか。わが子に託す願いを想う時、自らの歩みを振り返らずにはいられない。そして、自分を見上げる四つの澄んだ瞳を想う瞬間、つい丸めがちな背もピンと伸びるような気がする。

12月 X 日

パーティに持参する抹茶パウンドケーキに、少しばかり化粧を施してみた。別途に作った抹茶クリームを絞り出し、抹茶と粉砂糖を雪のように振りかけ、ミントの葉をあしらう。「わっ、きれいじゃない。」 ニンマリと自画自賛に浸る。私は、抹茶を使ったお菓子が大好きだ。特にこの冬休みは、抹茶ブームと呼びたいぐらいに、日ごと何かしら作ってきた。抹茶カップケーキ。抹茶パウンドケーキ。抹茶アイス。抹茶クッキー。抹茶ういろう。そして、「ママはバリスタ」と言いながら手がけた抹茶ラテ。カップを後生大事に抱えてラテを飲み干し、おかわりをした娘は、「これ、学校のランチに入れてよ」と懇願した。「ラテなんて入ってたら、先生がいい顔しないよ」と返すと、「だいじょうぶ。ほうれん草のスープですって、ごまかすから」と涼しい顔だ。

スーパーで栗きんとんの材料を吟味する息子と友達。

スーパーで栗きんとんの材料を吟味する息子と友達。

12月 X 日

大晦日も近い今日、日本食スーパーで栗きんとんを買った。目にした瞬間、懐かしさがこみあげ、つい手が伸びたのだ。東京滞在中に、調理実習の授業で、息子のグループが作ったのが栗きんとんだった。味見をした息子は、言ってのける。「うーん、僕たちが作ったものの方がずっとおいしかったよ。」男子、女子2人ずつで成るチームが挑んだ栗きんとんは「大成功!」だったらしく、担任の先生から、「うん、これはおいしい」と絶賛を浴びたそうだ。作るものを決めるのも、予算内での材料の買出しも、すべて自分たち。そんな試みに、息子も大張り切りだった。残念なことに、アメリカの小学校には家庭科の授業がない。東京の学校でいきなり裁縫をする羽目となった息子は、針に糸を通したこともないだけに戸惑っていたが、馴れるにつれ興味を示すようになった。数週間後には、手製のバッグを私にプレゼントしてくれた。調理実習にいたっては、それ以上に忘れ難い思い出となったに違いない。調理自体はもちろんだが、PC でリサーチをしてレシピを選び、スーパーの品を吟味しては、仲間との議論を重ねる。そのプロセスは貴重な体験となった。「うーん、これを買うと、予算をオーバーしちゃうよ。」「くちなしの実?この店にはないけど、あそこのスーパーじゃどうだろう?」店内でひそかに覗き見た彼らの表情は、真剣そのものだった。帰国前にクラスから贈られたメッセージブックの表紙には、力作の栗きんとんを前に、グループのメンバーと肩を並べ V サインを掲げる白衣姿の息子の写真が飾られている。その笑顔を凝視しながら、二つの母国で教育を受けさせる機会に恵まれた幸運にしみじみと感謝する。

タコスライスの味が思い出させる丸の内。

タコスライスの味が思い出させる丸の内。

1月 X 日

挽肉を炒める。レタスをちぎる。角切りにしたアボカドにレモン汁をかける。「今夜の晩御飯は、丸の内ライス。」そう宣言するやいなや、息子と娘から歓声が上がった。わが家では、タコスライスのことを丸の内ライスと呼ぶ。私が丸の内の弁護士事務所に勤務していた頃、子供たちの要望に応え、デパートでよく買っていたのがタコスライスだからである。子連れ単身赴任をしていたあの頃。丸の内の「デパ地下」経由で、お惣菜やお弁当の袋を提げ帰路につく夜が幾多あった。落ち着いて包丁を握る余裕もなかったと情けなくなる反面、懸命だった日々を愛しくさえ思う。シアトルの冬空の下、丸の内ライスを口にする時、脳裏を横切るシーンがある。それは、薄暗い部屋で学童保育の先生と将棋を指しながら母の帰りを待つ息子の背だったり、保育園に馴染めず、「もっと早く来てよ、ママ」と抗議する娘の泣き顔だったりする。蕎麦屋の暖簾をくぐる会社員などとすれ違いながら、駅までの夜道を三人で辿り、電車に揺られる。深夜、寝息を立てる子供たちの傍らで連絡帳に書く先生へのコメント。ランドセルから取り出す、くしゃくしゃの漢字テスト。給食当番の白衣へのアイロンがけ。そんな記憶を矢継ぎ早に蘇らせ、時には鼻をツンともさせるから、私にとって丸の内ライスは少し切ない味がする。

本当は、ライスサラダとでも呼んだ方がいいのかな。そう思う程に、私の丸の内ライスは具に溢れている。レタスとトマトぐらいしか目ぼしい野菜はない、そんなタコスライスは寂しいじゃないか。だから、冷蔵庫を覗き込み、にんじんなりブロッコリーなりラディッシュなり、残り野菜を片っ端から刻んで放り込む。その結果、よく言えば色鮮やかで栄養満点の一品料理、悪く言えば野菜のてんこ盛りで野暮ったい自己流タコスライスの完成である。気がつけば、私の料理には、そのパターンが多い。お好み焼きにしろ味噌汁にしろナポリタンにしろ、入れる野菜が増えれば増える程おいしさも増す、と単純に決めつけている。料理雑誌のグラビアを飾るような洒落たお惣菜は作れないかもしれない。けれど、今年も、トマトをネギをピーマンをトントンと刻み、赤・黄・緑の野菜たちがワンサカとひしめくお祭りのような具だくさん料理を、テーブルに運び続けよう。丸の内の夜景を思い浮かべながら、新年の抱負を心の中で呟いた。

掲載:2012年1月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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