著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。
3月の風は、ほんのりと温かく、どこか懐かしい。また、巡り会えたね。見えない何かに向かって、そう呟いてみたくなる。窓の外を彩る雪景色に驚愕したのは、ついこの間のような気がするのに。軽めのコートを羽織り、皇居のお壕沿いの散歩道を歩きながら、ようやく訪れた季節の足音に耳をすましてみる。学校では卒業式の練習がたけなわを迎えた。アメリカ生まれの我が家の6年生も 『仰げば尊し』 を歌うようになるとは、不思議な気持ちだ。やがて、眩しい陽光が降り注ぐ朝、入学式の厳粛な宴が繰り広げられる。別れと出会いとが交差する季節。「お宅は、もう学生服の注文は済ませた?」「あっ、その前に卒業式のスーツを買ってやらなくちゃね。」先週は、PTA 主催の「卒業を祝う会」でフルーツやサンドイッチをつまみながら、母親仲間と談笑した。「えっ、中学生!嘘よね?」この原稿を書きながら、自問自答をせずにいられない。子の成長は早いもの。どの国でも、いつの時代でも、親は繰り返してきた筈なのに。もうじき薄桃色の花びらたちで華やぐ千鳥が淵の水際に佇み、さらさらと流れ去った歳月への愛しさで胸が締めつけられそうになる。
大きな節目を目前に控え、つい感傷的になりがちな早春。だが、この季節もアメリカでは異なった意味を持つ。あと3ヶ月もすれば長い長い夏休みの幕開けだと溜息のひとつも漏らし、我が子をどのキャンプやサマースクールに送り込もうかと親同士が情報交換にいそしむ季節でもある。子供のいる家庭にとって、アメリカの初夏は駆け足で訪れる。夏を利用して、アメリカ育ちの子に日本の学校生活を体験させたいと考える読者の方々も少なくないかもしれない。6月半ばにアメリカの学年末を迎えた直後、里帰りを兼ねて日本に一時帰国し、我が子を実家から近所の小学校に一時的に通学させたいと願う母親は、私の周囲に多い。今回は、そのような読者の方々を対象に、少しばかり先輩風を吹かせ、いわゆる体験入学について私の雑感を綴りたい。(学校によっては、呼称がまぎらわしいという理由から、体験入学ではなく交流入学という言葉を使用することを明記しておく。)
日本に短期滞在中、子供が限定された期間のみ(大概は数週間以内、短い場合は一週間前後というケースが多い)日本の学校に在籍するという体験入学は、在米日本人コミュニティに浸透し、一部では市民権を獲得した感さえある。「今年の夏休みは、里帰りのついでに、実家の近くの学校で体験入学をさせようと思ってるの。」「あそこの子はアメリカ育ちにしちゃ、日本語が上手じゃない。やっぱり、毎年、体験入学をしている成果かしら。うちも、今年は帰国して挑戦させてみようかな。」 その手の会話も、シアトルの日本人コミュニティで頻繁に耳に挟んできた。だが、ひるがえって日本国内に目を向けてみれば、意識のギャップが感じられる。体験入学なる概念自体が一般的に浸透したとは言い難い。「それ、何?」とばかりに奇異な表情をされることもある。更には、体験入学が許可されない地域が存在する事実を認識しておく必要がある。東京都内では、外国人が多くコスモポリタン的なイメージが強い港区がその一例であり、体験入学は認めないことを区の公式ホームページ上で明記している。異文化体験の名のもと、2週間だか3週間だか、お客さんよろしく日本の学校に在籍し、「いいとこどり」をした挙句、「楽しかった」「おもしろかった」と、いそいそと自国へ舞い戻る。体験入学が一部の人の目にはそう映りかねないのも、否定し難い事実だろう。結果としてお客さん扱いを要求される学校側からは、いい迷惑だと文句のひとつも出るかもしれない。「夏の一時期ではあっても、外国から生徒を受け入れることにより、お互いの国際交流へと繋げよう。」そんな理想論は、必ずしも成立しないのだ。たとえ結果的に体験入学の許可を得たとしても、批判的な意見があることを頭の隅に置いておく必要がある。
否定的なことを書いたようだが、体験入学の機会を与えられるのであれば、それはそれで実に貴重な経験となり得るだろう。海外で子育てに携わる親にとって、バイリンガル教育は大切な課題だ。月並みな言い方だが、言葉の背景にある文化を把握せずにバイリンガルに育つことは至難の業である。日本語幼稚園やら補習校やら、シアトル周辺に日本語教育機関は多種多様である。基本的な日本語を習得すること自体は、シアトルにいても決して不可能ではない。息子と娘も幾つかの日本語教育機関を活用させてもらった。息子にかけては、私が家庭でも常に率先して日本語で話しかけていたせいか、幼少時代はむしろ日本語の方が強かった。その彼が補習校の漢字ドリルで遭遇した「児童館」なる言葉に困惑の表情を覗かせたのを、昨日のように思い出す。「うーん、公民館の児童版みたいなものかしらね。」日本人とはいえ、児童館なる場と何ひとつ接点を持たずに育った親の私は、その程度の説明しかおぼつかない。その数ヵ月後、私たちは東京に降り立った。息子は、放課後ほぼ毎日のように学校と目と鼻の先にある児童館に立ち寄り、卓球や将棋、更には 『スポーツちゃんばら』 に興じたり、遠足やお祭りなどの行事に参加したりと、学校とは別のコミュニティを見い出し、新たな友の輪を拡げていった。その体験を通じ、シアトルの補習校では漠然とした概念でしかとらえられなかった児童館なる言葉が一挙に色を帯び、生きたものとなったのは言うまでもない。それは、「給食」にしろ、「朝礼」にしろ、同じである。実際に体験することにより、ボキャブラリに奥行きが増す。どんなに短期であろうが、その機会を今後の日本語学習の土台として大いに活用しない手はないだろう。
短期には、それなりの利点もある。体験入学の域をはるかに超え、一住民として二児を公立小学校に通わせてきた私としては、日本の学校教育の嫌な面も味わってきたし、今後もそれはあるだろうと覚悟している(詳細は、次回のコラムに譲りたい)。期間が短ければ、それこそ、「いいとこどり」に専念すべく凝縮された日々の思い出を手土産に帰国できるのだから、大いに結構じゃないか。そう皮肉抜きに思うのだ。日本の学校のカリキュラムには、アメリカでは体験のしようもない独特の部分がある。たとえば、息子と娘の学校には室内プールがあり、当然ながら水泳の授業も組まれている。アメリカの小学校では、あり得ない話だ。初夏の声を聞く頃、プール開きという厳粛な儀式を経て水泳の授業が皮切りとなるやいなや、子供たちはプールバッグをぶら提げ意気揚々と登校する。家庭科もまた、アメリカの小学生には馴染みのない教科である。「ママはさ、来なくていいよ。僕たちだけで平気だって言ってるじゃない。」そう口を尖らせる息子を尻目に、ある土曜日の朝、私はこっそりと後をつけ、級友3人と調理実習の材料の買出しにスーパーへ出かけた息子を背後から観察していた。「うーん、これを買うと、予算オーバーになっちゃうよ。」「くちなしの実?このスーパーには無いけど、あそこの店はどうだろう?」真剣な面持ちで相談し合う4人の背を店の片隅から凝視するうちに、嬉しさがこみ上げてきた。給食当番や掃除当番のように、生徒自らが仕事を担当するのも、日本ならではの素晴らしい点と言える。用事があって昼休みに学校に足を運んだ時のこと。音楽が流れる中、級友と共に、いかにも楽しげな表情を浮かべ、鼻歌混じりで拭き掃除にいそしむ娘の姿に私は目を見張った。こういった習慣が、なぜアメリカの学校に導入されないのだろうと残念にさえ思う。海外暮らしが長くなる一方で忘れかけていた日本文化の良さを肌で感じた。
ブタがいた教室。そんな題目の映画がある。シアトル国際映画祭でも話題を呼んだこの作品を、我が家は家族揃って見に出かけた。「先生はこのブタを育てて、最後にはみんなで食べようと思います。」そう宣言した新任教師のもと、6年生の生徒たちが P ちゃんと名づけたブタを飼育する。丹念な世話に明け暮れる日々の中、子供達は、家畜としてではなく友達として P ちゃんに愛情を抱くようになる。「食べる」、「食べない」。それをテーマに真摯な議論を戦わせる。そんな内容だった。あらすじを知った上で見に行ったこともあるだろう、ストーリー自体に新鮮な驚きなど無く、感動もしなかった。それはさておき、この映画の存在自体は私にとって深い意味を持ち、記憶に刻み込まれたのである。映画の中で、生徒達が給食を食べたり、卒業式に参加したりする場面がある。それらを見ながら、私は胸を衝かれた。(ああ、私の子はアメリカで生まれ、これからもずっとアメリカで育っていくのだ。)(白衣をまとい配膳をする給食当番を体験することもなく、『仰げば尊し』 を口ずさむこともなく、大人へと成長していくのだ。)そんな想いが波のように押し寄せたのだ。偶然とはおそろしいもので、その直後に東京の弁護士事務所から仕事の話が舞い込み、日本行きが決定した。周囲にはインターナショナル・スクールへの転入を勧める人が少なからずいたが、私は区立小学校へ子供達を送り出すことを決意した。晩夏に、緑滴るシアトル郊外の私学から、東京の文字通り「ど真ん中」、ビルの狭間に立つ公立校へと転校した息子と娘。その後、2人の学校生活はどう展開したか。読者の方々には、長期で日本滞在を考える人、更には、アメリカ育ちで英語を母国語とする我が子を日本の学校に入れるべきか、それともインターナショナル・スクールという選択肢を取るかで悩む人もいるかも知れない。次回のコラムでは、私たち家族の体験を土台として、そのテーマを考えてみたい。
掲載:2013年3月
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