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第22回 東京ダイアリー(14)世界で一番きれいな言葉

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著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

入学式が終わり、校庭でお友達と遊ぶ娘

入学式が終わり、校庭でお友達と遊ぶ娘

人が死ぬ瞬間を見てみたい。残酷な好奇心を剥き出しに、6年生の夏休みが幕を開けた。その好奇心ゆえに、3人の少年達は一人の老人を執拗に観察し始める。だが、予期せぬ友情が彼らと老人の間に育まれ、その距離を縮めていく。老人が辿ってきた道、そして紡いできた物語から何かを吸収する少年達。季節の流れとともに別離が到来し、少年達はそれぞれの未来へと向かって駆け出す。冒頭の残酷さとは裏腹に、清々しさと切なさが交差し胸を締めつける。「夏になると読みたくなる本」のランキングの首位に躍り出た小説「夏の庭」の行間からは、透明な光や夏草の匂い、葡萄についた水滴などが滴り出しそうな気さえする。この本をひもとくたびに、心に映し出される風景がある。毎年、8月に訪れていた母の郷里で、従兄弟達と競争をするように駄菓子屋へと続く坂道を駆け下りる自分の姿。降り注ぐ蝉しぐれ。どこかの家から漏れるテレビドラマの主題歌。バス停の脇の電柱で色褪せていくポスター。目を閉じれば、あの場所に立つような錯覚さえおぼえる。容赦なく照りつけた太陽でさえ、思い出という名のフィルターを通せば、ほのかな陽だまりのようなやさしさを湛えて胸に染み入る。今や企業戦士として、ネクタイを締め満員電車に揺られるのであろう従兄弟達。彼らも、ふと何かの折にあの夏の情景を思い描くのだろうか。朝のプラットホームで、またはオフィスの窓際で、遠い日の輝きに想いを馳せるのだろうか。

きっと、誰の心にも、それぞれの「夏の庭」が息づいているに違いない。だが、それが文字通りの夏とは限らない。ジングルベルが流れ、イルミネーションが闇を照らすシアトルで思う。「滝廉太郎を偲ぶ会」で、少年少女合唱団の歌声が一番町に響いた初秋の日曜日。永田町の夜道を辿り、参拝客に溢れ返る日枝神社の石段を上った元旦。薄桃色のランドセルを誇らしげに背負う娘と手を繋ぎ、花びら舞う麹町を闊歩した入学式の朝。それぞれの季節が、まばゆい光ににさらされて蘇る。千代田の空の下で流れた日々は、時を越えた「夏の庭」として、その空気や草花を瑞々しいままに保ち、私が訪れるのを待っていてくれるような気がする。

混沌とした大都会に過ぎないだろう。そう、たかをくくり、やはり大都会で育った関西人の私は、淡々と千代田区で暮らし始めた。夜ごと巨大なネオンが渦巻く銀座。洗練されたブティックに華やぐ表参道。奇抜なファッションに身を包んだ高校生がクレープ店で列を成す原宿。そんな喧騒から近い、東京の文字通り中心地でビルの狭間に住むという選択を私はした。「シアトルに比べて、暮らしにくいでしょう。」友人が声をかけてくれた。スーツ姿の勤め人が永田町駅への階段を駆け下りる、生活臭のしない街。そんな都会であっても、黄昏時には、「からすといっしょに かえりましょ」と「夕焼け小焼け」のメロディが鳴り響く中、豆腐売りのおにいさんがラッパ片手にリヤカーを引いて歩き、郷愁を誘う。定食屋の暖簾をくぐれば、おかみさんという言葉が似つかわしい女性が、「へえ、シアトル。マリナーズなら知ってるよ」と、味噌汁をよそってくれる。おでんを買いに走ったコンビ二の店長が、「ちょっと待ってて」と奥に入ったかと思うと、「ごめんね、こんな物しかなくて」と頭を掻きつつ、紙袋に詰まったおもちゃを子供に手渡してくれる。登校中に「恐いおじさんを見た」(路上で何やら奇声を発したらしい)と怯えながら交番で訴える息子に真摯な表情で耳を傾け、「恐かったね。でも、もう大丈夫だよ」とお巡りさんが肩を抱かんばかりに励ましてくれる。ここは、柴又でもなければ、浅草でもない。下町人情なんぞという言葉とはおよそ縁のない、一見したところ無機質極まりないコンクリートの街でふれる人の温もりは、私の「夏の庭」に彩を添えた。

ホテル・ニューオータニの向かいにある清水谷公園で、友達と駒回しに熱中する息子

ホテル・ニューオータニの向かいにある清水谷公園で、友達と駒回しに熱中する息子

子供達を公立の学校に通わせたことも、よかったのだろう。「海外からの赴任者は、こぞってインターナショナルスクールを選んでいますよ。」 勤務先の人事担当者が首を傾げる中、私は最初から区立小学校と選択を決めていた。日本語や日本文化にふれさせたいというのが最大の理由である。だが、その選択は図らずも、子供達だけでなく親の私までが地域との接点を見出す契機となった。買い物に出たり、図書館に行ったりするたびに、路上で母親仲間と鉢合わせになり、時には主婦の井戸端会議に花が咲く。(車社会のアメリカと異なり、歩くことが生活の一部になりきった日本だからともいえる。)やがて、休日に一緒に遊園地へと繰り出したり、我が家のささやかなホームパーティに招待したりで、親子共に友達の輪がひとつ、またひとつと拡がっていった。 日本最後の夜でさえ、「遊びにおいでよ。何もおかまいはできないけど」と友達を招き、せっせと荷造りにいそしむ私の傍らで、子供達は宅配のピザを食べ、駒回しに没頭していた。「ママ友」と軽い言葉でひとくくりにされる友人関係も、積み重ねる時の重みとともに、女性として、人間として、人生を語り合うような深みのある関係に熟成していたかもしれないと、彼女達と共有した時間の短さがもどかしく感じられる。それでも、海を越えて届くメールや手紙を読み返しては、真の友情を築いていくのは実はこれからかもしれないと自分に言い聞かせている。

銀杏並木に彩られた紀尾井町のプリンス通り。英国大使館の由緒ある建物が威厳を放つ一番町から、新緑の薫りに溢れる千鳥ヶ淵へと続く道。愛した街並みが脳裏に浮かぶ。「東京を第二のふるさとだと思って、帰って来てね。」別離が迫る日、「ママ友」の一人がそんな言葉を贈ってくれた。(もう、ふるさとになったよ。)私は胸で呟いた。「たかだか一年やそこらで、ふるさと呼ばわりされちゃ困るよ。」どこからか苦笑交じりの声が聴こえないでもない。「ママの喋り方、ヘン!」実家の母と電話で話すたびに関西弁がポロリとこぼれる私をからかい、東京っ子になりきった息子と娘が笑い出す。放課後にぶらついた神戸の元町や、夏ごとに泳いだ須磨海岸。青春と呼ばれる日々の舞台となった場所が、記憶の中で少しずつ色を失っていくのは哀しい。だが、あの地で私はいつも独りだった。むろん家族や友達はいたが、所詮、私自身が子供であり、限られた領域の中で流されるままに日々を重ねていたに過ぎない。だが、東京は、私が大人として初めて祖国に居を構え、仕事に、そして子育てに関わってきた場所である。信州への旅行を終えて、東京駅のプラットホームに降り立った初夏の夜、「ああ、帰った」と安堵し、東京の二文字に愛しささえ感じた自分にたじろいだ。

黄色い校帽をかぶり、兄妹揃って登校の道で。

黄色い校帽をかぶり、兄妹揃って登校の道で。

信州といえば、思い出すシーンがある。七夕が近い日、新幹線を降り長野駅に立つと、笹の葉と短冊が用意されたコーナーがあり、子供達も早速、駆け寄って何やら願い事を綴り始めた。「こうさく(工作)がじょうずになりますように。」娘が書く傍らで、息子はこう書いた。「また、日本に住むことができますように。」私は黙って彼が書いた字を見つめていた。感情の起伏が激しい子で、級友とのぶつかり合いも時としてあった。「ガイコクジン!」そう叫ばれたと悔しがり、それはとんでもない差別だと私が憤るのも束の間、実は息子自身も暴言を吐き喧嘩を売っていたことが判明したりもする。だが、そんなぶつかり合いの中から、子供なりに友情を育んできたのだという事実に、私は帰国直前まで気づかなかった。さんざん火花を散らし怒鳴り合いもした相手とでさえ、数日後にはその記憶が丸ごと消し去られたかのごとくケロッとして、じゃれ合っている。大人の世界ではあり得ないことだと舌を巻き、一方ではその無邪気さが羨ましくもあった。最後の授業が終わった放課後、4年1組の教室に残った彼は大勢の級友にせがまれ、一人一人に差し出されたノートに「サイン」をするのに追われていた。「いやんなっちゃうよ、もう。」そう言いたげな困惑した表情で私の顔を見、それでいて嬉しさを隠せないようだ。帰国を翌日に控えた日、親子で学校へ挨拶に出向いた時のことだ。「あっ、あいつが来てるよ。」音楽の授業から教室に戻って来た級友が息子を見て声をあげ、あっという間に10人も15人も生徒達が彼の周囲をぐるりと取り囲んだ。彼らは次から次へと、息子の頬を引っ張り、背をたたき、髪をくしゃくしゃにする。「ほっぺがゆるゆるになっちゃうよ、もう。」口を尖らせつつ、やはり本人はまんざらでもなさそうだ。「お世話になりました。」「お体に気をつけてください。」「また、近況をお知らせします。」別離に際し、大人がそんな風に決まり文句を律儀に口にしつつ頭を垂れるのとは違う。言葉を超えたメッセージの力強さが胸を刺した瞬間だった。

小説「夏の庭」の終盤に、老人が亡くなり、少年達がお互いに別れを告げる場面がある。手元に本がないので記憶に頼るしかないのが残念だが、「じゃあな」と言うように手を振り、それぞれの世界へと走り去っていく。少年らしい、あまりにもさらりとした別れが切なくもあり、爽やかでもある。息子の別離のシーンを振り返るたび、小説の終焉とも重なり合い、私を感傷的にさせてならない。

「ママ、世界で一番きれいな言葉って何か知ってる?」黄色い校帽にランドセルという登校スタイルも板につきだした頃、娘が得意げな表情で聞いてきたことがある。「それはね、"ありがとう" だよ。」担任のS先生の受け売りらしい。なるほど。私は大きく頷いたものだ。そして今、未知の地、東京で私達に道しるべを築いてくれたすべての人に、心を込めて、その言葉を贈りたい。世界で一番きれいな言葉で、「ありがとう。」

掲載:2010年12月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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