駐在員の方に、シアトル地域でのご経験と、駐在員の目から見たシアトルやアメリカ、日本について伺うシリーズ。第1回のゲストは、シアトル地域ではボーイング777型機や787型機の機体の材料に採用された炭素繊維強化樹脂の開発・供給で知られる東レ・コンポジットアメリカ社(ワシントン州タコマ市)の副社長兼シニア・テクニカル・フェローの小田切信之さんです。ワシントン州で通算15年ほど生活されている小田切さんに、海外駐在のチャレンジ、日本企業の抱える課題などについて伺いました。
– 小田切さんは化学がご専門ですが、幼い頃からご興味があったのですか。
そうです、幼い頃から科学に興味がありました。親が買い与えてくれて本屋さんから配達された『子どもの科学』という月刊誌を、最初から最後まで繰り返し何度も読んでいました。NHKテレビの『みんなの科学』という大好きな夕方の番組があり、それも毎日のように見ていました。テレビ放送が岩手県でも始まった頃で、自宅にテレビがやってきた、そんな昭和30年代のことです。そんなふうにして、サイエンス系が好きになりました。
– 東レが北米の拠点にワシントン州を選んだのは、ボーイングとの強いつながりが理由ですね。
そうですね。従来の飛行機の機体はアルミニウム合金で作られていましたが、ボーイングは1970年代から「燃費を改善するため、軽量化した新しい飛行機を開発する」という目標を掲げ、1980年代はじめに、高性能の炭素繊維材料を世界中に求めました。
私は1981年に東レに入社し、研究者として新しい材料の開発に携わっていましたが、東レが開発した、軽量でとても強靭で、金属に代わる高性能材料の炭素繊維複合材がボーイング777型機の尾翼に使用する材料として1990年に認定されました。そして、ボーイングから米国内でも製造し供給してほしいという要請に応えるため、1992年にシアトルの南のタコマに製造拠点を設立したのです。
– もともと海外駐在を希望されていたのでしょうか。
ワシントン州タコマに製造拠点を作るとなった時、更地から工場を作るところからずっと関わりたいと思って駐在を希望しました。
でも、私のバックグラウンドは化学ですから、「君はちょっと無理。日本で素材研究をやってくれ」と言われ、その時は叶わなかったのです(苦笑)。
そして、社内の工場建設の専門部隊が立地の選定にはじまり、工場を建設するというミッションを担当し、1994年に工場が完成して稼働しました。あるていど生産が安定して、また新しい材料開発が必要になった2000年、「次のプログラムが始まるかもしれないから、そこの技術部長として行ってくれないか」と言われ、「ぜひ」と希望して赴任しました。2000年9月、45歳の時です。
– 最初の駐在で、今でも覚えている体験は。
2000年9月に始まった一回目の駐在では、始まってみると、英語の毎日に困ることだらけ。ちょっと電話をかけるにしても、最初に何をしゃべろうかとメモをして、これをどう表現するかと一生懸命に考えて書いて、意を決してかけるというところからでしたので、日本で何気なくやっていたことが、一つ一つストレスになりました。
また、日本の生活では約束した時間通りに物事が進むのに、こちらではなかなか進まないことがありますね。例えば、家の電気・ガス・水道の工事を予約しても時間通りに来る試しがなく、結局現れなかったということもありました。こちらに来てから3、4カ月した頃、車に追突された時は保険会社との英語での交渉もままならず、とても苦労しました。留守中に家の窓を割られて室内を物色されたりといった、怖い思いをしたこともあります。
– 一回目と二回目の赴任での違いには、どのようなことがあるでしょうか。
一回目は2000年に技術部長として赴任したのですが、現地にいると、顧客と直接会えますし、コミュニケーションのキャッチボールがとても速いですよね。日本の愛媛の研究所や工場で試作して、アメリカに届けて、フィードバックをもらって、またやり直してなんてことをやるのに比べると、何倍も速い。
また、ボーイングには一流の技術者が大勢いるので、私もすごく刺激を受けて、何をやるにしても楽しかった。先方にとっても、何をどうやっているのかわからない、東洋のどこぞか見えないところから来る材料と比べると、タコマの工場現場で開発された材料は両社のエンジニアが現場で確認し意見交換できるので、血が通った仕事ができるというメリットを感じます。
結果的に、東レは材料サプライヤーとしてボーイングの787型機の開発段階からずっとお付き合いし、787型機専用の材料をこのタコマで開発しました。
二回目は2015年からで、東レ・コンポジットアメリカの副社長として赴任し、アメリカ人の社長を支え、日本の本社との関係を円滑に進めることに力を注ぎました。会社全体の生産管理、売り上げや利益などの業績、安全、環境、品質など、研究開発だけに関わらない、一つの会社組織としてうまく進める役目なので、最初の赴任とは大きく変わり、もう少し広い世界とのお付き合いができるようになりました。
一回目の駐在の時は、アメリカにいながら、自分の会社の中ばかり見ていました。お客様との関係で多少は会社の外の世界も見えましたが、シアトルの地域社会のことや、日系アメリカ人のコミュニティ、日本人のコミュニティ、アジア系や太平洋諸島出身者のコミュニティなどについて、まったく知らないままだったのです。
でも、二回目の赴任では、自分の会社の中を見ながら、地域社会を見、社外にも交流が広がったことで、いかにみなさんのお世話になっているかがわかりました。日本にいてまったく知らなかったことは、戦時中に大統領令9066号が出されて、日本人や日系アメリカ人が強制収容されたことです。そんな重たい歴史があったことは日本の教科書にも載っていませんでしたし、知る機会もなく、こちらに来て初めて知りました。体験者の肉声、写真、動画をデジタルアーカイブとして残している Densho は、本当に良い仕事をされていると思います。そして、「明治開国以降の開拓移民に始まって、戦前からいろいろな人々がシアトルに来て経済や政治に関わり、この地域に貢献してきた。そういう尊敬される先人がたくさんいるからこそ、日本人の社会がここに受け入れられている。決してそのことを忘れてはいけない」と考えるようになりました。
また、技術屋としてアメリカのカンファレンスなどにも出入りしてネットワークがさらに広がったので、一回目とはだいぶん違う感じで、自分の好奇心が満たされています。いまだに毎日が勉強です。
– シアトル地域はかなり変わってきましたが、お好きなところ、そうでもないところ、こうしたらどうかというところがあれば教えてください。
ここノースウエストには森と湖と山がありますね。生まれ育った岩手県盛岡ととても似たところがあり、気候も涼しくてホッとします。
初めて来た時は、ただ自然があるだけではなく、街でもいろいろなことにワクワクしました。例えば、ダウンタウンのコンサートホールでしょっちゅういろいろなコンサートがあります。12月になれば、教会でクリスマスのコンサートがあり、本物の神様が天井から降りてくるような、ホールとはまた全然違う雰囲気を味合わったものです。
そして、街を一歩出れば自然があり、カスケード・ループをまわったり、レインフォレストに行ったり、マウント・セント・へレンズ(編集部注:1980年に大噴火した火山)に行ったりもしました。セントへレンズでは、自然のすごいパワーをいまだに感じますね。シアトルから15~20分で行けるところではありませんが、そういう場所が身近にあるところが大好きです。また、山でマツタケをとったり、海でカニをとったりできるのも、シアトルの魅力の一つですね。
ここ南のタコマも、スキー場に近く、湖も近くにあります。滋賀県大津にいた時に琵琶湖でカヤックやヨットの手ほどきを受けたのですが、それが今になって役立っています。また、地元のテニスチームのメンバーになって、シーズンのリーグ戦に参加したりもしました。どれも日本でもできることですが、こちらでやると、仕事も年齢も人種もさまざまな人たちと知り合い、友達になることができるんですね。
シアトル地域では、今、ライトレールを作っていますよね。でも、まだまだアクセスが不便で、全体の完成まで時間もお金もかかります。例えば、シアトル・タコマ国際空港から北のダウンタウンやワシントン大学などまではライトレールで行けるようになりましたが、空港の南のタコマからワシントン大学に行く場合、空港まで車で行って、ライトレールに乗り換えるなんてことは、面倒なのでやらないでしょう。バスに乗るにしても、バス発着所まで車で行き、巨大な駐車場に駐車してからバスに乗るわけですが、利便性に難があると、「このまま自分の車で行ったほうがいい」となってしまう。これだけ人口が増えると渋滞がひどくなる一方ですから、もう少し交通が便利なところになったらいいなと思います。
– これからの日本企業の課題は何だと思われますか。
すべての企業に当てはまるかわかりませんが、私が日本にいた頃は、まだアメリカが未知の場所だったので、「すごく行ってみたい」「そういうところで仕事をしたい」という気持ちがありましたし、社内にも海外赴任希望者が結構いたものです。でも、最近はそんなに熱がない気がしますね。もったいないなと思います。
日本の市場は成熟してしまっていて、これから大きく広がることはあまりないわけです。日本ではせいぜい買い替え需要だけに留まるとなると、なおさら市場は小さくなっていくので、日本企業が今後も成長していくには、おのずと外に出なくてはならなくなります。
東レの炭素繊維複合材の事業はグローバルに展開していますが、日本市場は10%未満で、残りは欧州、アジア、北米です。つまり、お客様10人のうち、9人以上が外国人なのです。外に出ないと話になりません。ですから、日本と外国は海で隔てられていますが、気持ちは地続きであるぐらいに思って、多くの日本人が障壁なく、ひょいっと世界中どこにでも出かけて行って仕事ができるようにしたいものですね。
しかし、外国に進出するにしても、利己的な金儲け目的ではなく、進出先の地元に溶け込んで、地域貢献も含め、利他の気持ちで入っていってはじめて受け入れてもらえるわけです。そこまでやる覚悟がある日本企業が、アジア、アメリカ、ヨーロッパにたくさん進出していますが、今まで以上に、グローバルな市場に出て行かなくてはなりません。そこで課される試練はとても大きいので、それを楽しんで、好奇心を持ってチャレンジすることが大切です。日本でも外国でもビジネスの鍵はヒトです。組織が号令をかければ進むものではなく、一人一人が熱意を持って取り組むことが求められているのです。
もちろん、そうする中で、どことでもうまくできるというわけではありません。今も国と国との争いがあちこちで起こっています。経済制裁と報復の応酬が続く関係国に事務所や工場構えている企業もあるでしょう。私共もそうです。そんな状況をどのように乗り越えるか。リスクを避けるために事務所のセキュリティレベルをあげるのも一つの手ですが、それだけではなく、もう少し草の根で人々がつながる社会をコツコツと作っていくこと、日本人を個人レベルで理解してもらい、「日本人は思いのほか、わけのわからないやつじゃないな」と身をもって知ってもらうことも大切だと思うんですね。そういうことを通じて、理解し連帯できる人々を増やすことが、軍事や政治とは違った形の、安全保障の根幹であり、民間の我々の役割ではないでしょうか。それをしっかりやらずに、政治とか軍事力に頼って、世界の中で安全に過ごしていこうとしても長くは続かないと思うのです。
– 内向きになっているということは、よく耳にします。
日本は経済成長して豊かになり、成熟したと言われます。でも、実際に豊かかというと、金銭的にはむしろ豊かではない、貧乏になりつつあります。それでも、日本の中で十分楽しく暮らせて、別に新しいことを学びに行かなくてもそんなに不便ではない、そういうことなんだろうと思います。
アメリカが本当に素晴らしい国かどうかは私もよくわかりませんが、世界中から優れた人材を引き寄せる力があります。でも、そんなアメリカの持つ引力に、日本人はかつてのように魅力を感じなくなってきているのでしょう。日本から離れたくない。外国に行っても日本ほどの伝統や文化は体験できない。そういう気持ちはわからないでもありません。私も外国にはない、日本にしかないものに惹かれますから。
でも、ハングリー精神がある人は、自国にいるより、アメリカで学ぼうとやって来る。そういう人たちが切磋琢磨しています。実際、本当に結構選ばれた挑戦する人たちがアメリカにやってきていますよね。ワシントン大学のクラスを見てみても、非白人系の人たちがとても多いです。
– これから駐在で来られる方へのアドバイスを。
私はたまたま二回も赴任し、通算15年になります。でも、通常、駐在は2年や3年のローテーションでプログラムされている場合が多いので、滞在期間中に一度チャンスを逃すと、もう二度と巡ってこないことがあります。人との出会いも、また会えるだろうと思っていても、よほど努力しない限り、二度と会えないかもしれません。本当に一期一会だと思うんです。なので、こちらでの限られた時間を最大限に利用して、貪欲にチャンスをつかんでほしいですね。
また、好奇心を持って、お付き合いをする世界をグンと広げることを勧めたいと思います。駐在員は自分の会社の業務を遂行することが一番のミッションですが、逆に言えば、それさえやっていればよいということになってしまい、場合によっては日本の本社との連絡調整係として、社内の方ばかり向いて仕事をすることになりかねません。でも、地域社会とつながりを作らないまま日本に帰国し、「シアトル、どうでした?」と聞かれて、「あ、シーフードがおいしかったです」「ゴルフやってました。安かったです」というだけでは、もったいないと思うのです。
とは言っても、電子メールや携帯で昼夜問わず日本から連絡が入ってがんじがらめになっているようでは、なかなか難しいのも事実です。つながりすぎるということには弊害も感じるので、ちょっと遮断して別の世界を持つことができたらと思いますが、残念ながら、私共もなかなかそうはいきません。もちろん、会社はワークライフバランスを尊重することを奨励しているのですが、時差があるので、「アメリカの勤務時間だけですべてを終えて、アフターファイブはプライベート」というようには、なかなかできないですね。
– これからやりたいことを教えてください。
一言で言うと、今までお世話になった社会への恩返しでしょうか。とてもたくさんのチャンスを与えてくれた炭素繊維複合材の素材の分野、学界、業界のおかげで、このような仕事をし、社会にとって意義のある価値を作り出し、ネットワークを広げることができたので、日本やアメリカの素材産業にも恩返しをしたい。
そのような気持ちがあるので、カンファレンスや講演会で話をしてほしいと言われたら、多少負荷がかかっても喜んで引き受けています。これも一期一会だと思いますし、次の世代の人々の好奇心に火を点けるようなことをしたいという思いもあります。
また、シアトルのいろいろなコミュニティにお世話になっていることがとてもよくわかったので、そこへも恩返しをしなくてはなりません。それもあって、今回、シアトル日本商工会の役員に指名された時も、負荷がかかることを承知で、引き受けることにしました。この地域にお世話になってきましたし、大勢の先人の努力と献身が礎になって我々が今ここにいるわけですから、そのバトンを受けて、次の人たちに渡すまでの間はその役割を果たそうと思っています。今さら金を儲けたいとか、偉くなりたいとか、そういう欲はとっくにないですからね(笑)。
– ありがとうございました。
小田切信之(おだぎり・のぶゆき)さん 略歴
東レ・コンポジットマテリアルズアメリカ社 副社長兼シニア・テクニカル・フェロー。1955年、岩手県盛岡に生まれる。1981年に早稲田大学大学院理工学研究科の応用化学専攻博士前期課程を修了し、東レ株式会社に就職。複合材料の研究開発に携わり、2000年9月にワシントン州タコマの東レ・コンポジットアメリカ社に取締役・技術部長・テクニカルセンター所長として8年間勤務。2008年から東京本社の先進複合材料(Advanced composite materials:ACM)技術部 航空・宇宙技術室長、ACM技術部長を務めた後、2015年に再びシアトルへ。東レ・コンポジットアメリカ社の副社長・CTOを経て、2017年から現職。2019年には先端材料技術協会フェローを授与され、2021年には東北大学大学院工学研究所 航空宇宙工学専攻 博士後期課程を修了した。社外では、2017年からワシントン州のComposite Recycle Technology Center 取締役、2023年からシアトル日本商工会の会長も務めている。
【公式サイト】https://www.cf-composites.toray/ja/
【公式サイト】https://www.toraycma.com/