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杉山正一さん (木工職人)

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福岡県で26年間消防士として勤務し、47歳で家族と共にシアトルへ移住。現在はウッドワーカーとして勤務。日本人コミュニティでは "餅つき名人" としても知られる杉山さんにお話を伺いました。
※この記事は2005年4月に掲載されたものです。

杉山正一(すぎやま しょういち)

1972年 消防士として勤務開始

1999年 渡米

2001年 コミュニティ・カレッジ入学

2003年 コミュニティ・カレッジ卒業、スノーケル・ストーブ社就職、現在に至る

カルチャーショックと言葉の壁

渡米されるまでは消防士としてお勤めだったそうですね。

故郷の福岡で20歳の時に消防士になり、救急部に6年、放火などの調査部に4年、建物検査部に6年、消火活動部に10年務めました。救急に勤務していた間、救急車の中で赤ちゃんを7人ぐらい取り上げましたよ。消防士になりたいと思ったのは、消防団員だった父を幼いころから見ていたから。風の中を去っていく消防士ってかっこいいじゃないですか(笑)。幼いながらも、「自分もやってみたい」と思っていたのです。

渡米のきっかけは何ですか。

アメリカ人の妻と結婚し、子供が2人生まれてから、妻が「アメリカに戻りたい」と言い出したことが移住を考えることになったきっかけです。その時点でもう消防士として26年間も務めていましたから、「じゃあ、アメリカン・ドリームでも見てみるか」と、渡米しました。

カルチャー・ショックはありませんでしたか。

最も大きなカルチャー・ショックは、食べ物でした。博多と言えば、ナマがおいしいところです。あれほどのバラエティがないことは、私にとって大きなショックでした。また、カルチャー・ショックではありませんが、すべてが英語になったことがもう本当に大変。妻はもちろん英語が母国語ですから問題なく、子供も幼いころから英語でも日本語でも問題がないため、家族の中で私だけが英語ができなかったのです。日本語を話す人がおらず、外に出ることもできない。渡米後1週間で運転免許を取得したものの、運転の仕方も車線も違いますし、高速道路は車間距離がめちゃくちゃで怖い。とにかく慣れるまで1年は大変でした。しかし、2年目からは日本人の知人もでき、楽になってきました。

シアトルに来られてからは、木工職人(woodworker)としてお勤めされているわけですが、どのようにして消防士とはまったく違う職に就かれたのですか。

シアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジに2年ほど通学し、キャビネット・コースで学位を取得しました。このカレッジには、ボートを作るコース、キャビネットを作るコース、大工になるコースの3種類があります。もともと日本でも日曜大工のようなことが好きでしたので、ここで本格的にやってみようと思い立ちました。しかし、問題は英語。妻は知り合った時は日本語がほとんどできませんでしたが、私は英語がまったくと言っていいほどできませんでしたから、日本語で通していたのです。ですからこちらへ来ることになって、まずは英語が問題になりました。

どのようにしてそれを克服されたのですか。

移住して2年目からは学費が安くなるということで、移住後2年目に入学の希望を出しました。そして英語の試験を受けに行ったところ、結果は良かったものの、今度は面接もされることに。「こりゃちょっと無理ばい」と思ったのですが、面接官に「どうしても入りたい、夢なんだ」と訴えたところ、入学を許可してくれたのです。しかし、入ったのはいいですが、今度は講義がわかりませんでした。その上、インチとセンチの違いがあり、また一苦労しました。さらに、技術的なことは尋ねればいいものの専門用語がわからず、見てから覚えるというのも本当に大変でした。クラスメートは高校を卒業したばかりの人、ボーイング社を解雇された人、看護婦だった女性などさまざまで、半数は女性でしたが、みなさんが気さくにやってくださったので助かりました。

卒業後すぐに就職されたそうですね。

ようやく2年間のコースを終えて無事に卒業し、現在はヒノキ(red cedar)を使った大きな丸い風呂を作るスノーケル・ストーブ社で、風呂を組み立てるキットの会社に勤務しています。アメリカやカナダ各地からたくさんの注文が来ていますが、今度はデンマークから30個も注文が来ているほど人気があるものです。しかし、在学中と職場ではまったく異なりますね。在学中は教科の中で課題を与えられて作ればいいですし、失敗すれば材料をまたもらうことができますが、仕事では自分が作ったものを売らなくてはなりませんし、失敗したら自分に材料費が余計にかかります。自分のイメージとお客様のイメージが違えば売れませんし・・・。日本では当たり前のことがアメリカでは異なるかもしれませんし、よく考えなくてはなりません。私が作った応接台を見た妻の姉からも「同じような応接台を作ってくれ」と言われたのですが、同じような材料がなかなか手に入らないといった問題が出てくることもあります。

しかし、手作業の多い日本とは違って、こちらは機械を使うことが多いですね。機械でも日本の技術に近いものが出てくるのでいいですが、私は機械で作ることに加え、自分なりに日本のイメージを取り入れて売り込んでいきたいと思っています。いざ、自分で仕事をしようと思っても、学校で習ったことと自分の考えや日本の考えとは異なりますので、そこで自分なりに本を見ながら勉強したり、日本に帰国した時に友人のウッドワーカーに習いに行ったりして技術を磨くようにしています。これまでには応接台や CD ラック、文机、ランプ、まな板、下駄箱、ミシン台、茶棚、相引などを作りました。注文を受ける時は、ご希望を聞いて決めていきます。ヒノキが手に入りますので、自宅では今、家族用の風呂を作っています。ほぼ80%できあがっていますが、ヒノキは水をかけるととてもいい香りがするんです。出来上がりが楽しみです。

餅つき名人としても活躍

杉山さんは、"餅つき名人" としても知られているそうですが。

幼いころからかれこれ40数年ほどにわたって、本物の蒸篭や石臼を使った伝統的な餅つきをしてきたものですから、餅つきの道具をすべて父のいる九州からここまで送ってもらいました。なにしろ12月28日までに餅をついて・・・という生活をずっとしてきたので、それをしないのは寂しくて。特にアメリカは、クリスマスが明けたらなんだかいつの間にか年が明けているような感じで、正月と言っても正月らしくないですからね。餅をついてみんなでワイワイ楽しく年を越したいものです。

最近ではどういったイベントで餅つきをされていますか。

個人的に飛び入りで餅つきをしたのが、4年前にベインブリッジ島で開催された日系人コミュニティでの餅つきイベント。たまたま新聞で餅つきイベントのことが掲載されていたのを妻が見つけたので行ってみると、日系2世・3世がとても静かでしめっぽい餅つきをしているんです。「こりゃいかん!」と、たまらなくなり、飛び入りで餅つきをさせてもらい、非常に盛り上がりました。そのコミュニティからは「また来てください」とお礼の手紙が届きました。去年もそのイベントに行き、また、2年前からイーストサイド秋祭りでも餅つきをしています。今では年末年始にあちこちに出張して餅つきをしていますので、年に10数回つきますよ。来年の餅つきの日取りまで決まっています。

今後の抱負を教えてください。

今でも英語には苦労するものの、アメリカの会社に就職し、楽しくやっています。勤務先ではいろいろな情報が入ってくるので勉強にもなりますし、たくさんの注文が来るので、毎日働きながらも、帰宅後は自分の仕事をする時間があるのはいいですね。

新しいもののアイデアとしては、日本で出回っているような、小さくてコンドミニアムにでも置くことができるような、ポータブルの仏壇。ウォールナッツの木で作れば、ぴったりだと思います。手作りのいいところは、長持ちすること・修理がきくこと・アフターケアができること。大量生産の既製品にはないことばかりです。これからもっと私の仕事を広く知ってもらい、日本人の方やアメリカ人の方に日本風のものを購入していただけたらうれしいですね。これからもいろいろなことにチャレンジしていきます。

掲載:2005年4月

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